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法律とモラルの峻別こそ

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000000842

アメリカからホリエモン問題を眺めて
記者名 E川 N

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東京地裁に入る堀江貴文被告(時事)

 何だかしっくりこないのである。日本における「ホリエモン問題」をめぐる論調だ。日本のITセレブ代表として祭り上げられていたホリエモンが1月の東京地検の捜査と同時に、多くのマスコミ報道において犯罪者同様に取り上げられ、あっという間に金の亡者=社会の敵のようにイメージが塗り替えられたのにも驚いていたのだが、今回の初公判を機会にますます色々な事を考えさせられている。特に気になったのが、9月5日付の『読売新聞』の社説だ。

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 かつては「違法でなければ何でもできる」と豪語していた。そうした拝金主義、市場至上主義に社会の逆風が吹き、「勝ち組」の象徴から被告の座へと転落した。この公判は、堀江被告の独自の金銭哲学が裁かれる場でもあるだろう。
 (9月5日付『読売新聞』社説から抜粋)
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 さて、この中の最後の部分、「この公判は、堀江被告の独自の金銭哲学が裁かれる場でもあるだろう」というのが気になる。

 そもそも、一個人の哲学というのは法廷、あるいは社会で「裁かれる」ものなのだろうか。「違法でなければ何でもできる」という堀江氏の持論は、あくまでも彼個人(あるいはライブドアという企業の元経営者)のものであり、それは思想であり、違法性はない筈である。

 また、その考え方に賛同するのもしないのも、これも個人の自由でなければならない筈だ。「違法でなければ何でもできる」という発言をするというのは、法的な問題ではなくモラルの問題であり、裁かれる、裁かれないという話ではない、と私は考えるのだが、間違っているだろうか?

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堀江被告のコメント。初公判を終えた4日夜、弁護人を通じて発表された(時事)

私は現在、ニューヨークにある弁護士事務所において訴訟部門の仕事に関わっている。仕事柄、様々な訴訟関連の資料に眼を通すことも多い。詳細については公表できないが、その中には誰もが名を知っているような大企業が関与している案件であるにもかかわらず、社会的なモラル等というレベルで議論していたら、全く話にならないようなものが多々存在する。社会的モラルに即していようが反していようが、合法か違法か、それだけが全て。法的問題というのは、それ以上でも以下でもない極めてドライなものであると痛感している。

 もっと言ってしまえば、星の数ほど存在する世の中の経営者の中には、ホリエモンと同様、「違法でなければ何でもできる」と考える人達が多くいるのではないか。実際、数年前に、私のごく身近なところでも、経営者の社会的モラルを疑わざるを得ないような、極めて稚拙な問題が発生したことがある。

 要は、「違法でなければ何でもできる」という発言だけに限定すれば、それは「企業収益をあげる為には手段選ばず」という多くの企業経営者の本音を言葉にするかしないか、だけの違いであるような気がするのだ。

 ホリエモンはマスコミへの露出が多くなり、自らの発言に関して充分に配慮しなければならない立場にあったにも関わらず、テレビカメラやマイクの前で「本音」をズバズバと話してしまった。ライブドアにしてみれば、これは企業広報上の大失策であったが、逆に言えば、それだけの事であるようにも感じる。

 粉飾決算を中心とするライブドア、あるいはホリエモンの法的責任、これは究明されるべきであるし、罪は償われなければならない。ただ、いかに社会的影響力があったとは言え、ホリエモンの経営哲学や社会的責任が法的問題と同じ土俵で議論されるというのは、筋違いと言うものだろう。法律とモラルの間には、明確に一線が引かれるべきである。

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堀江氏(2005年5月撮影、ロイター)
2006-09-07 02:12

※引用文中【画像省略】は筆者が附記
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この記事についたコメントは47件でした。この記事を肯定するコメントが7割、(おそらくネタでしょうが)否定するコメントが3割くらいでした。引用はしません。

「違法でなければ何でもできる」は文字通りの意味ですね。具体的な例は今年1月末のゲームストップ株(GME)を巡る騒動を調べてみてください。類似した例としては「証拠がなければ何でもできる」です。具体的な例は…。ま、逃しはしませんけれどw