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保坂和志を読む時間

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003355

小島信夫の地平を継ぐ矜持
I川 M之
2006-11-30 07:27

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故小島信夫氏との公開対談(2006年3月25日、東京・世田谷文学館で)
撮影者:高瀬がぶん氏提供

 文学とは何か、という命題を証明する定理はない。ここのところ議論かまびすしい教育についてと同じだろう。十人十色、百人百様で、その捉え方は人によってまちまちである。それだからこそ、多くの作家や評論家、学者たちがこの命題と向き合って、定理を見いだそうと議論を繰り返してきた。しかし、大学の文学部そのものが存亡の危機(あえて「危機」と言うが)を迎えつつあるような今日的状況では、この問いかけ自体がなにやら遠い響きのようで、命題への興味を持続させるのは難しいことになっている。

 保坂和志は、そうした風潮のまっただ中にあって、真っすぐにこの問題と向き合っている、おそらくただひとりの、いわゆる「売れる作家」である。

 昨年6月に出版された『小説の自由』で、保坂和志は、自分は「サッカー少年が一日中ボールを蹴っている」のと同じように、四六時中「小説について考え」ていると書いた。そしてその営みは、全く停滞することなく継続し、『新潮』で続いている連載をまとめた今秋の『小説の誕生』では、「これは評論ではなく小説なんだろうと思う」という地点にまでたどりついた。

 読者は、そこでの保坂和志の小説についての考察や定義を受けとめながら、自分自身にあっての文学の意味をさまざまな角度から検証し、組み立て直す場所へと連れ出される。まだ、自分なりの定義を有しない若い世代の読者は、保坂和志の文章によって自身の意味付けを確立して行くためのさまざまな材料を与えられていることだろう。そうした思考の時間を面白いと興奮する読者が、幅広く保坂和志の名のもとでつながり、いずれもが沸き立つ思いにいてもたってもいられなくなる感覚を共有している。
 
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『小説の誕生』(新潮社)
撮影者:高瀬がぶん氏提供

 保坂和志は、そうした感覚を、自分は先月帰らぬ人となった小島信夫の著作によって与えられた、と繰り返し語り続けてきた。小島信夫が開墾し、そこに芽生えさせたものを孤独に養生し続けた地平の価値や意味を正しく理解し、受け継ぐのは自分であるとの、先達を誠実に敬愛する保坂和志の姿勢は、誇り高い矜持となって、読む者の胸を打つ。

 その感動の当然の進み往きとして、保坂和志に連なる読者は、皆、あらためて、あるいは初めて小島信夫を手にとって、保坂和志を読む時間の中で醸成した新たな認識や感覚を動員して、その言葉の重みを咀嚼し、深いところで得心する。そして、そうした時間を重ねることによってもたらされた、ほとばしるような熱い思いは、それぞれによって静かに、しかしきっぱりと喧伝され、それにより生まれる連鎖が、保坂和志の読者を結果として広げ、増やしている。純一な文学体験をもたらす、今日的には希有な作家と評してよい。

 9月末から書店に並んだ『小説の誕生』は、すでに版を重ねた。出版界の現況からしても、この種の書籍の好評は重視されるべきだろう。

 真の文学論議が困難な時代だからこそ、保坂和志の読者層の拡大にはきわめて深い意味がある、と言わなければならないのである。

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


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文学論はさっぱりわかりません。それを面白いとも感じませんし、議論しようとも思いません。ただ、この記者さんが「保坂和志が面白い」書いているので保坂和志氏ってどんな人だろうとチラと見てみました。

そうしたら、その面白い人が「山下澄人が面白い」って言ってるので、なんとなく動画を見てみました。

全体として「へぇ~」と思わされることが多かった動画でしたが、この中で話し相手になっている編集者のイワモト氏に物語がどう見えているのか、それを言い換えるとこうだよね、って話を山下澄人氏がしているところが興味深かったです。「わかったことにして先に進めると答えにたどり着けなくなる」(たぶんそんな意味)とか理解できる言葉で話してくれるのでそうだよねぇと思いながら聞いていました。

文学者とかよくわからない難しい言葉で言いくるめる人かと思っていましたが、この対話は聞いてよかったと思いました。2時間の長尺ですが興味があればぜひ。