見出し画像

ベンガラのふるさとを訪ねて

引用元URL:http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002345

先人の探求心を再発見できる「吹屋ふるさと村」
矢本 真人
2006-10-15 13:06

【画像省略】
ベンガラ館 建物の中も弁柄色で塗られており、光線により
いろんな趣の写真が撮れそう。展示品から当時の栄光が伺える。ここを見学しなければ、吹屋に来た目的を達成できない。
撮影者:矢本 真人

 地域の活性化を目指し、日本の近代化に貢献した施設などの世界遺産の申請を目指す動きが多い。ここ岡山県高梁市成羽町吹屋は1700年代、日本で唯一の「ベンガラ」産地として栄えるようになった。

 ベンガラとは顔料の1つ。銅山で掘り起こした捨て石(硫化鉄鉱)から作られるその特産品は、1950年代に化学肥料を作る工場の副産物から原料となるローハが作られるようになるまでここの独自のものとして重宝された。残念ながら50年代以降は衰退の一途を歩んでいたが、近年ふるさと推進事業として「吹屋ふるさと村」を観光で売り出している。

 実は私も55年ほど前に、2年間程この地に住んでいた。今回実家に帰省したのを機に訪ねてみることにした。

 車で岡山県井原市から国道313号を利用し地頭を過ぎ、「吹屋ふるさと村」の標識に従い成羽川沿いに走る。山の斜面を削ってできた広域農道かぐら街道を上っていくと「広兼邸」の標識があり、目前に見覚のある高い石垣の城郭のような広兼邸が表れた。

 銅山とベンガラ製造を営み巨大な富を築いた庄屋でもあった広兼氏の邸宅で当時の富豪振りが想像できる。敷地はおよそ2600平方メートルくらいといわれている。裏は山、表は高い石垣が組まれている。守りも充分に考慮された構造といえる。ガイドの男性が「あの屋根瓦の色は何とも言えない渋みが出ていて良い」というが、約200年前の建築とは思えないほどのしっかりしたたずまいがそのまま保存されており、当時の富豪振りを今もうかがい知れる。

 近くに銅山・笹畝(ささうね)坑道があり、中は巨大な洞窟になっている。1972年に閉山するまでの近代鉱山に姿を垣間見ることができる。子どもの頃、近くの男の人がカンテラと弁当を持って通っていたのはこの鉱山なのだろう。

 吹屋に向う途中にベンガラ館・陶芸館がある。かつてはインドから輸入していたベンガラだが、銅山の捨て石である硫化鉄鉱から偶然発見され、この発見で吹屋は日本唯一のベンガラの産地になったという。このベンガラ館は、吹屋弁柄の伝統的な製法を後世に伝えようと1986年、当時の国土庁による「リフレッシュふるさと推進モデル事業」で復元されたのだという。

 700度の火力で焼く釜場室、水洗ひき臼室、酸分を抜くための脱酸水槽室などが復元されている。燃料には薪、動力には水車が利用され、中に当時の貴重な文書類が展示されている。

 「ベンガラは古墳時代から使われていると考えられている。徳川時代は長崎で輸入されていた。吹屋の弁柄は宝永年間(1704)より銅山の捨石の中から硫化鉄鉱を拾い出し家内工業として極く素朴な製品が少量づつ作られはじめ宝暦初年本山鉱山開発、緑礐(ローハ)製造その凝結に成功しこのローハを原料とし弁柄の製造も工業化の折柄寛政年間(1790)早川代官が地場産業としての将来性を認め仲間組合を作られ御免町人として許可その製造販売を援助奨励されてより個々には隆退交替があれど組合として製品の優秀さと仲間組合の合理性により昭和年間大阪で一時盛んに製造されたダライコ弁柄(鉄丹弁柄)との競争にも勝ち以来徳川、明治、大正、昭和中期まで200年間日本ただ1ヶ所の産地として繁栄を続け現在邸宅調度などにそのおもかげを残している」(ベンガラ館説明文より)

 産業を興すきっかけ、優秀な指導者の下での殖産そして新たな技術開発により衰退していくパターンはいつの時代にも変わらない。IT産業が花盛りの今、「物作りの原点」を再認識した。

 休憩室の展示品で、大きな建家から蒸気や煙がもくもくと出ている写真を見ると当時の工業化の姿が偲ばれるが、硫黄酸化物、酸性排水の処理はしていなかったことを考えるとこの周辺の環境は、今から思えば劣悪であったことも考えられる。

 広兼邸の見学者数に比べこちらの見学者数は少ないことに驚いた。女性管理人に「ここまで来て、ベンガラ館を見学しないのはおかしいですよね」というと、「興味のない人はドンドン素通りするが、1時間以上入ったまま出てこない人もいる。心配になって探しに行くこともある」と笑う。

 製造所はこの谷間に4カ所あったそうだ。「当時は人も多かったのでしょうね」というと「今、家は数軒しかないが、当時は1000~2000人いたといわれている。仕事以外はなにもすることがないので、遊郭もあったそうだ」と管理人はいう。

 そして、最後の目的地吹屋に向った。弁柄で塗られた建物が連なる吹屋の町並みだ。土産物店で「2億年前の成羽の化石」と看板が出ていたので、「化石はどこのあるのか」と聞くと。「私達じゃ、ここはみんな化石じゃ」と店の人は言って笑った。遠い昔からここは変わっていないと言うことか。「火垂の墓」のロケ地だったと張り紙がしてあった。

【画像省略】
吹屋小学校 築100年になるが、木造2階建て校舎。板張り壁、羽目板囲いは年期が伺えるし吊り格天井の講堂、吹き抜け大廊下など木造洋風建設の粋を伝える日本最古級の校舎で当時を偲ばせる。
撮影者:矢本 真人

 町並みをはずれて上っていくと吹屋小学校が見えてくる。木造2階建てで築100年がたっている。鉱山本部跡地に建てられた物であるが、当時の繁栄の面影がしのばれるたたずまいである。時報を知らせる鐘もまだあり、長い紐を動かすとカンカンを鳴る。山間の分教場を思い出す。校舎も今は鉄筋コンクリートがほとんどであるが、こういった木造で学べる生徒は幸せかもしれない。

 校門をくぐる石段の下に「考える少年」の像が建っていた。昔は二宮尊徳の像が常識であったことを考えると教育の変遷が垣間見える。

 先人達の大いなるバイタリテイーを思い起こすことが出来た「ふるさと村」であった。



××××××

【吹屋ふるさと村へのアクセス】
JR備中高梁駅から観光周遊バス
岡山自動車道 賀陽ICから約50km

オーマイニュース(日本版)より

※引用文中【画像省略】は筆者が附記


この記事についたコメントは3件。

3 ハンミョウ 10/16 03:47
以前はインドからの輸入産品だったと言うことで、ベンガラの語源はベンガルから来ているのでは?などと安易な想像をしてみた。

2 江戸人 10/15 22:56
ところで、ベンガラってなに??知らないとアホかな w


ブラウザタブのタイトルが間違っとるやんけw フォントが小さく読みづらいので拡大を推奨(Firefoxなら「Ctrl + 」)

田舎だと見渡す限り赤いカワラ屋根なんて普通の光景です。あれも一種の金持ち自慢みたいなものなんでしょうかね。どこもたぶん石州瓦でしょう。

伊万里焼の赤も吹屋のベンガラだったんですねぇ。そういえば中島誠之助氏もちょこちょこベンガラと口にしていたような覚えがあります。氏の講演は面白そうですよね。機会があれば聞きに行きたいですが、関東近県でしか開催されないだろうねぇ。