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はじめの生い立ち18〜20:会社員時代②

本社への異動

1年ほどのさいたま支店勤務の後、「営業部長社長付」という辞令をいただき、本社へと異動になりました。

「社長付」として秘書室に席があり、「営業部長」として営業のフロアにも席があるという状況でしたが、徐々に営業の方に軸足を置くようになりました。

社長であった祖父の外出に同行したり、時には代理で会合に出席したり、その傍ら営業活動をしてお客様の対応をしたりという日々でした。

また、さいたま支店で規格商品化していた賃貸マンションを、本社や他県の支店に水平展開するために、全国の支店を回ったりということもしていました。

時には地元の選挙の手伝いにも入り、忙しくも刺激のある日々だったかと思います。

その時の給料ですが、勤務先の会社は当時、年功による給料制で、かつ支店や現場にいた方が手当が多く出ておりました。

さいたま支店の課長から本社の部長になったのですが、給料の大半を占める基本給は年齢によって決まっています。課長から部長になって管理職手当が1万円上がっただけで、支店勤務の手当がなくなって、結果として手取りは減るという、栄転だかなんだかわからない給料でした(笑)。

お付き合いも増え、当時の事情により部屋を借りて一人での生活だったため、経済的にはけっこう大変でした。

環境の激変

そんな中、私の環境を激変させることが起きます。

その頃の建設業界は、地殻変動が絶え間なく起きている状況でした。

公共事業の削減や、景気の見通しの厳しさから来る民間投資の減少など、市場の規模が縮小しておりました。

でも、企業数はあまり減っておらず、それぞれの建設会社も過去の負の遺産の処理や売上の減少に対処すべく、リストラや一部企業は合併を行い、さらには金融支援や経営破綻などが相次いでおりました。

私の勤務先も例外ではなく、いわゆる「過去の負の遺産」による、運転資金以外の固定借入がありました。売上が順調だったころは借入金額も売上の半分以下でしたが、徐々に売上が下がってくると、借入金額の負担が大きくなって来ます。また、関連会社への貸し付けなども返済の見込みがなかったりといったことも判明してきました。

工事を受注して施工し利益を得るという本業自体は、売上が減少しながらも収益を上げていたのですが、そういった過去の負の遺産が貸借対照表を圧迫しておりました。

そんな状況を抜本的に改善するために、「私的整理」という手法で取引銀行に金融支援を求めることとなりました。

金融支援

「私的整理」というのは、会社更生法や民事再生法といった法律に基づいた企業の再生ではなく、債権者と債務者が相談して会社の再生を目指す手法ですが、国が策定したガイドラインにもとづき、外部識者の視点も入れて行われるものです。メリットとしては、協力業者や外注先の債権がカットされないという面があります。その代わりに自ら身を切る責任が強く求められます。

私共の場合は、
・所有する多くの不動産を銀行に提供
・リストラや社内体制の抜本的な再構築
・減増資に伴う財務体質の改善
を行い、債務免除をしていただくというものでした。

そして、私の祖父は経営責任を取るといことで社長を辞任し、所有する全株式の放出・自宅不動産や一定の財産の供出を行いました。

社員20人弱の会社を、最盛期は1,200人の社員を抱える東証一部上場企業に育てた社長の最後としては、あまりにも寂しかったです。

しかし、会社を残し、多くの社員や家族・取引先を守るための決断だったでしょう。そして、県建設業協会会長・県体育協会会長等の役職を全て降りました。

会社には、メインバンクから数名の役員が送り込まれ、銀行式の新たな運営方法により再建を目指すこととなりました。

次回はこちらになります。


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