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映画『リトル・チルドレン』vs『スキャンダル・ノート』;女優ケイトはスキャンダルがお好き?(2)

初出:2007年2月3日(mixi)

 さて、もう一人の女優ケイト、ケイト・ブランシェットである。とうより、ジュディ・デンチか。実は、アカデミー賞では、主演女優賞にジュディ・デンチが、助演女優賞にケイト・ブランシェットが、それぞれこの作品でノミネートされている。ちなみに『リトル・チルドレン』のケイト・ウィンスレットは、主演女優賞。

 そう、この作品の語り手は、スキャンダルの渦中にある、ケイト・ブランシェットではなく、それを観察し、日記につけ、利用しようとした、ジュディ・デンチ、なのである。
 この映画の構成が、良くできているのは、まさにこの、スキャンダルの渦中にある人を、客観的に眺める第三者を設定し、しかもその第三者をも突き放した、いわゆる神の視点を設定していることである。観客は、ケイト・ブランシェットの美しさや純粋さを、その精神的な未熟さも含めて、まずは、ジュディ・デンチの視点で感じ、そして、そのジュディ・デンチの絡みつくような、粘着質の嫌らしさ、陰湿さ、僻み、嫉妬、幼児性を、第三の視点から、客観的に眺めることが出来る。
 スキャンダルそのものについて言えば、この作品の方が身も蓋もない。イギリスの中学校に、新たに赴任した美しい美術教師。それが、ケイト・ブランシェット。彼女は、15才の教え子に、魅入られ、純粋に、可愛いと思い、そのアプローチに負けて、関係を持ってしまう。そこに、過剰な説明はない。基本的には、魔が差した、ということだろう。
 しかし、誰にでも、魔が差すわけではないので、一応、二つの説明的背景が用意されている。一つは、彼女の夫が、かなり年の離れた、年上の男性であること。そして、二つめが、彼女自身、若かりし頃は、英国的で退廃的なパンク、というより、グラムロック?の文化に身を投じていた、美術の教師であということ。つまりすでに成熟した女性となり落ち着いているとはいえ、潜在的には、退廃的ともいえる官能の世界に、引き込まれる素質が、ある、ということだ。
 しかし、『リトル・チルドレン』とは異なり、『スキャンダル・ノート』の、ケイト・ブランシェットは、夫にも子供にも、とても恵まれていて、相思相愛の仲である。夫は、60才も過ぎているであろうに、実にユーモアに富み、子供たちとよく遊び、理知的であると同時に、情熱家でもある。まあ、申し分のない魅力的な人間だ。二人の子供の内、長女は多感な思春期にあり、弟はダウン症という障害を持っている。子育ても一見、難しいかと思われるが、この優れた夫と、息のあった妻とのコンビは、この子たちを、実に明るく、活き活きと、育てているのである。ダウン症の男の子が、目を輝かせて、家族とダンスを踊ったり、クリスマスの食事をしたり、学校の舞台で役をこなしたりする様子は、とても演技とは思えないほどだ。
 つまり、スキャンダルそのものは、ふとした拍子に、真面目に、美しく生きている人にも、その優しさと弱さ故に、いつでも起こりうる、という設定なのである。『リトル・チルドレン』のように、世俗的な家族や近所の人々の価値観に追いつめられて、などという、責任を転嫁するような、言い訳は用意していない。その点、素直でいい。
 相手になった男の子からすれば、しっとりとした大人の、しかも未だ若さを保っている、魅力的な美術の先生は、最初から充分に性の対象となりうるので、そこに特別な理由はいらない。ただこの女教師が、この男子生徒を惹きつけるのに充分なだけ、魅力的であることさえ、伝わればいい。
 この作品のユニークな点は、このケイト・ブランシェットの女性的な魅力、15才の男の子がおもわず恋に落ち、性的衝動に駆られるような、大人と、少女と、落ち着きと、可憐さといった、魅力的な要素が、男の子の視線からではなく、ジュディ・デンチという、醜い初老の女性教師、その偏狭な性質を表現するかのように、幾筋もの深い皺が刻まれた顔をもち、いつも冷ややかに僻んだおももちで、人を睨み付けている、意地の悪そうな、孤独な同性愛者の女性の視点によって、語られるところである。
 まあ、普段は、英国王女役とか、最近では、『カジノロワイヤル』の英国首相役とか、どちらかというと、高貴な役が多かったと思うが、これぞ真骨頂と言うべきか。この定年間近の女教師の嫌らしさ、陰湿さを全身で表現している。孤独に苛まれ捻くれた醜女の、もう後には戻れない程、僻みで凝り固まった心の有様。そのような演技の象徴として、とりわけ印象深いのは、彼女が一人、バスタブのお湯に浸かり、煙草をふかしているシーンである。この年老いた醜女が、煙草を吸うためにお湯から尽きだした二の腕、その二の腕から垂れ下がる脂肪の塊…。そして、ケイト・ブランシェットに対する、恨みのつぶやき。

「彼女は、私のような人間の、本当の、孤独を知らない…」

 というような台詞。実に怖い。これはもう、ほとんどスリラーになっている。ちなみに、このシーンを観て、思い出すのは、日本映画『水のないプール』で、クロロホルムを使った実在の連続レイプ犯、内田裕也の妻役だった、藤田弓子が、子供を風呂に入れるシーン。その見事に脂肪が重なった三段腹を、大胆に披露していた。また、山田太一原作・脚本のテレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』の中で、中井貴一の母親役(心臓の悪い嫁、根岸芽衣、を苛め抜く鬼姑)であった女優、佐々木すみ江、が見せた、初老の女の生々しさを感じさせる、凄みのあるシュミーズ姿。ちなみに、このシーンは、おそらく、勅使河原宏監督の『落とし穴』(この2年後の『砂の女』は1964年カンヌ国際映画祭で審査員特別賞受賞)で、若き日の彼女が見せたシュミーズ姿から着想を得ていると思われる。
 これらのシーンに共通するのは、この大胆な描写によって、女のある一面を、とてもリアルに表現することに成功していること。と同時に、その女の肉体の持つリアリティが、作品全体の持つリアリティを支え、作品に生々しい緊張感を与えているということだ。そう、大胆な肉体で、観客を魅了したのは、ケイト・ウィンスレットだけでは、なかったのだ。
 ブランシェットと男の子の逢瀬は、可愛いもので、どちらもほとんど裸は見せていない。もちろん、これは、犯罪なので、ブランシェットは、懲役9ヶ月の刑を受けるのだが、そんなスキャンダルが、別にたいしたことではないと感じられるくらい、ジュディ・デンチの、醜悪な老女が、異彩を放っているのである。
 そういうわけで、ケイト対ケイトのスキャンダル対決は、ケイト・ブランシェットの、あるいは、ジュディ・デンチの、『Note on a Scandal』に軍配をあげさせて貰いたい。ちなみに、ブランシェットの夫役も実に良い演技でした。乞うご期待。
 


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