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くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(3)【お仕事小説】

8月:マスターの葛藤

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 八月。
 喫茶金平亭は、今日も無事に店を開ける事が出来た。

「ありがとうございましたー」

 客を見送りつつ、涼しい店内から外を眺めると、コンクリートの照り返しによる熱気のせいで、遠くの景色が揺れ動いている。天気予報による最高気温は三十八度。

「暑そー」

 そういえば、今日は、田尻さんが駅前のイベントでダンスを踊る日といっていた気がする。

「……田尻さん、大丈夫かなぁ」

 熱中症などになってないといいが。
 そう、夏休みに入ってからあまりシフトに入れなくなった田尻さんの事を思い浮かべていると、店内から耳障りな話し声が聞こえて来た。

「ねぇねぇ。ちょっとぉ、この店暑くない?」
「冷房効いてないんじゃないの?」
「ほんと、店の中に居るのに汗かいてきちゃったわよ!」

 いやいやいや……ふざけんな!?
 設定温度を何度にしてると思ってるんだよ!来て早々暑いだとなんだと文句を言うせいで、コッチは寒いのを我慢して設定温度を二十四度まで下げてるっていうのに!

「待って、喉乾かない?お水もらいましょうよ!お水!」
「ついでに、暑いって言いましょう。これじゃあ、喫茶店に来てる意味が無いわ!」
「そうね、ちょっと店員さーん!」

 あぁ、今日もコーヒー一杯で三時間以上居座っている。というか、それが当たり前になりつつある。
 今日も今日とて、喫茶 金平亭は満員御礼の――

「店員さん!早く!」
「……はーい」

 赤字路線真っただ中だ!

◇◆◇

 人には、どうあっても自分の信念を貫かなきゃいけない時がある。

「マスター、そろそろ決断してくんないかなぁ?」

 それが、俺にとっては〝今〟だ!

「で、でも。やっぱり急には無理だよ……」
「急じゃないっしょ。俺、先週から言ってるよねぇ?なに、記憶ないの?それとも端から俺のハナシなんて聞いてなかったぁ?」
「あ、いや。えっと……」
「なに、文句があるならハッキリ言いなよ?」

 客の居なくなった店内。
 今日も今日とて、俺は、金平亭のアルバイト兼コンサルでもある寛木君に、じわりじわりとテーブル越しに詰め寄られていた。別に睨まれているワケじゃない。むしろ笑顔なのに、めちゃくちゃ怖いのは何故だろう。イケメンだからだろうか。

「……き、聞いてます、記憶にあります、ちゃんと分かってます」

 四人がけのテーブルには俺とパソコン。向かい側には寛木君。お互いの手元には、俺の淹れたアイスコーヒーがグラスに汗をびっしょりとかいた状態で置いてある。まるで、今の俺のようだ。

「あ、あの。寛木君。コーヒーのおかわりは……?」
「話を逸らすなってのー」
「……はい」

 つい先日、紅茶派だった寛木君から、突然「飽きたからコーヒーにして」と言われてから、俺は毎日コーヒーを用意するようになった。
 どうせ、また飽きてすぐに紅茶に戻せとか言われるのだろう。分かってる、分かってる。

「ねぇ。分かってるなら、なんで〝値上げ〟しないの」

 ちょうど、脳内とリンクした寛木君の声が再び俺を断崖絶壁へと押しやる。そう、俺は現在、寛木君に店のメニュー全商品の〝値上げ〟を迫られていた。

「だって、値上げなんかしたら……お客さんが」
「来なくなるって?」
「……うん」
「っはぁ、ったくコレだから。職人気質のバカは嫌なんだよねぇ」

 そう言って背もたれに体重をかけて、これ見よがしに深いため息を吐いてみせる寛木君に、今度は俺が身を乗り出して言い返した。

「先週、商店街に大手のコーヒーショップが出来たの、寛木君も知ってるよね!?」
「知ってるよ。コーヒーブルームでしょ。それ、なんかウチと関係ある?」
「あるあるある!大アリじゃん!ブルームが出来た直後に値上げしたら、お客さん取られちゃうよ!」

 そうなのだ。八月の第一週目の金曜日。この金平亭のすぐ表の通りに、大人気のコーヒーショップ「コーヒーブルーム」が出来てしまったのである。

 世界中で展開するそのコーヒーブルームは、コーヒーだけでなく、紅茶やデザート系のフローズンドリンクまで、多種多様なドリンクをカスタマイズできる事で有名だ。新作が出れば、SNSのトレンドはその情報で持ち切りになり、通りを歩けば、若者たちの手には新作のドリンクが握られている。店内は居心地の良い雰囲気とモダンなデザインで統一されており、いつも満席だ。

 それに引き換え、うちの店ときたら!

「っていうか、既にちょっとずつお客さんも取られてきてるし!値上げなんてムリムリ!」

 そうなのだ。
 今月に入って、これまでのように店内が客で埋め尽くされる事はなくなっていた。そのせいで、売り上げは落ち、毎月の赤字が加速度的に増えている。これは、どう考えてもブルームの影響としか思えない。
 そんな中、先週から寛木君からの執拗な値上げ要請。このタイミングで値上げなんて、そんなの悪手にも程がある!

「ぜっっったい無理!競合他社だよ!?」

 いくら、寛木君が怖くとも、それだけはぜっったいに聞けない!

「っはぁぁーーーー」

 直後、黙って俺の言葉を聞いていた寛木君が、これでもかという程深いため息を吐いた。よく見ると、その眉間には深い皺が刻まれている。
 あぁ、この顔はヤバイかもしれない。

「……マスターさぁ、アンタどんだけバカなんだよ!?このバカ!」
「う゛っ」

 机に肘をついて、ジトりとした目でこちらを見てくる寛木君に、俺は思わず息を呑んだ。今や、完全に笑顔が消えてしまった。
 何を言われるのだろう。正直、情けない事に、俺は従業員で年下の彼に心底ビビッていた。でも、寛木君がなんと言おうと、ダメなモノはダメなのだ。

16

「ど、どんなにため息を吐かれたって無理なものは無理!値上げなんて出来ないっ!」
「ちーがう!マスターがバカ過ぎて溜息吐いてんだよ!」
「は、はぁ!?」
「あのさぁ、こんな弱小個人経営の店が、あの世界規模でチェーン展開する店と競合だなんて、本気で思ってるワケ!?マジでそう思ってるんだとしたら、更に負債が膨らむ前に、こんな店畳めばぁ?」

 寛木君はその場から立ち上がると、遥か高みから俺の事をジッと見下ろしてきた。

「た、畳まないし!」
「っは、そういう現状維持の選択の繰り返しが、結局は閉店の憂き目を見る事に繋がるって、アンタは分かってないんだ!」

 こ、怖すぎる。
 最初の良い子で優しい寛木君は一体どこに行ってしまったのだろう。たまに懐かしくなる事があるが、もう彼は俺の手の届かない所へ行ってしまったらしい。

「こんな事なら、店ごと売りに出されて、まともな経営者に買ってもらった方がこの店も良かったろうよ」
「う゛っ」
「裏通りとは言え、駅チカで場所も悪くない。売却して、膨らんだ負債に当てた方が、社会復帰も早く出来るんじゃないのぉ?」

 インテリチャラ男モンスターからの猛攻に、俺の精神はゴリゴリと摩耗していった。同時に、ジワジワと目頭が熱くなる。
 ダメだ。こんな事でイチイチ泣いていたら、また寛木君にバカにされる。でも、どうしよう。なんか、もう止められそうにない。

「だだでさえギリギリのジリ貧状態なのに……店主がバカだと店は浮かばれないよねぇ。せっかく爺さんが残してくれた店なのに、バカな孫にぐちゃぐちゃにされて」
「っ!」

 爺ちゃんを引き合いに出された瞬間、瞳を覆っていた薄い膜が一気に分厚くなった。視界が歪み、寛木君がコーヒーを飲む姿がハッキリと見えなくなる。

「だいたいさぁ」

 どうやら、寛木君は文句を言うのに夢中で、俺が泣きそうな事に気付いていないらしい。だったら、今のうちにコッソリ涙を拭えばいい。
 そしたら、バレずに――。

--------キリ、泣きたい時は潔く泣け。お前はイチイチ我慢しようとするから、泣き止むのに時間がかかるんだ。

「……っぅ」

 爺ちゃんの声が、すぐ傍で聞こえた気がした。

「っぅぅぅ」
「え?」

 気付いた時には、ホロリと涙が頬を伝っていた。その瞬間、先ほどまでの猛攻が止み、寛木君の驚いたような声が聞こえる。

「え、えっ!?ちょっ、ウソだろ!ま、また泣いた!」
「じ、じいちゃぁ、ん……!」
「おい、なんで大人のクセにそんなにビービー泣けるんだよ!ワケわかんねぇし!」

 寛木君が慌てている。
 俺はと言えば、一回涙を流してしまったせいで、完全に涙腺の制御が俺のコントロール下から離れてしまった。こうなったら、爺ちゃんの言う通り、一旦思い切り泣くしかない。

「っひ、っふぅぅぅ」
「あ、あ……!な、なんで……ま、また。お、俺のせいかよ!でも、だって……俺は本当の事しか言ってないだろうが!」

 先ほどまで俺に向かって冷静に正論をブチかましていた寛木君の方が、今は酷く慌てふためいている。そう言えば、最初に俺が泣いた時もそうだった。

「お、俺は……悪くねぇし。間違った事、言ってな、いし」
「っぅ、っぅぅ」
「……俺は、まちがって、ない」

 そこまで言って、何も言えないまま悔しそうに俯く寛木君の姿に、妙な既視感を覚えた。

--------良い、匂い。
「っ」

 そうだった。あの日からだ。俺の店に対して「潰れないように」って、色々と意見を言ってくれるようになったのは。

--------もう、値上げするしかない。

 分かってる。寛木君は、本気でこの店の事を考えて値上げを提案してくれているという事くらい。その証拠に、シフトに入ってない日も毎日店に来てくれている。今日だってそうだ。俺がバイト代を払えないって言っても「別に、金なんてどうでもいいし」って言って。

--------アンタ、ほんとにバカだな!良いモノを「安く」提供するなんて無理に決まってんだろうが!

 値上げを提案された日に、寛木君から言われた言葉だ。良いモノを安く提供するなんて無理だって。だから値上げをしろって。

「……いい、もの」

 だとしたら、寛木君は、俺のコーヒーを「良いモノ」だって思ってくれてるって事じゃないのか。違うか?いいや、違わない。
 そう思った瞬間、俺は手の甲で勢いよく涙を拭った。

「……う゛んっ。ぐずろ、ぎ……ぐんはっ、わるぐないっよ」
「じゃ、じゃあ……なんで、泣くんだよ」

 俺は零れ落ちる涙を必死に手の甲で拭いながら、静かに息を吐いた。少し、涙の感覚が薄くなってきた。クリアになった視界の先で、寛木君が狼狽えた顔でこちらを見ている。

 あぁ、やっぱり寛木君は良い子だ。どこにも居なくなってなかった。

--------マスター。俺、ゲイなんです。気持ち悪いですよね。

 最初から、彼はずっと「嘘の吐けない」不器用な良い子だったじゃないか。

「な、な、なぎぼくろが……泣き、虫を連れて、くるから」
「は?」
「だ、だから」

 戸惑う寛木君を前に、俺は泣く度に爺ちゃんに言われていた言葉を口にしていた。

「こ、この……泣き黒子の、せい」

 そう、左目の目尻にある小さな泣き黒子を指しながら、笑おうと必死に口角を上げた。どうだろう、上手く笑えているだろうか。

「っぁ、う」

 そう思った瞬間、寛木君のこれでもかと見開かれた目が俺を見ていた。

「ぁ、っな」
「ぐ、ずろぎ、ぐん?」

 そして、何か言いたげに小さく口を開いたが、その口が何か音を発する事はなかった。そして、次の瞬間。彼が何かを言うよりも前に、クローズドの標識を掲げた筈の店の扉が、勢いよく開け放たれた。

「ますたー!ちょっとだけコーヒーくださーい!」

「え?」
「は?」

 そう言って元気に店に入ってきたのは、髪の毛を頭のてっぺんでまとめあげ、こんがりと日に焼けた田尻さんだった。

「あれぇ、どうしたんですかー」
「あっ、えっと」
「いや、これは」

 しかもよく見ればその手には、先ほどまで話題の中心になっていた、ブルームのマークの入ったプラスチックの容器が握られている。そのマークを見た瞬間、止まりかけていた涙の本流が勢いよくぶり返してきた。

「うっ、うぅっ!うっ~~~!」
「っへ、おい。また泣くのかよっ!ってか、なんで今泣いた!?」

 あぁ、田尻さんまでブルームの商品を買って!いつも俺のコーヒーの事を好きだって言ってくれていたのに。もう終わりだ!

「あーー!ゆうが君が、またますたーを泣かせたー!」
「ちっ、違うし!俺のせいじゃねぇし!」

 田尻さんは寛木君を指さしながら。合間にフローズンのドリンクをすする。暑い夏の日には、きっと酷く美味しいに違いない。俺のアイスコーヒーなんかと違って。

「っふぅぅぅっ!!」
「おいおいおい!泣くなよっ、大人だろうが!お、俺はもう何も言ってないからな!?」

 あんなのに、勝てるワケがない!

「っっひぅぅ」
「もーー、かわいそうじゃないですか!マスターは自分の事じゃなくても、他の人の事でもすぐ泣くのにっ!ゆうが君、謝って!」
「いやっ、俺じゃねぇし!俺、悪くねぇし!」
「謝ってーー!」

 ここは小学校か、はたまた保育園か。
 泣いている俺も、悲しいのかなんなのか分からないまま、俺達はしばらくその場で互いに喚きあったのであった。

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 数分後、俺の涙が引き始めると同時に落ち着きを取り戻し始めた店内で、俺と寛木君の二人だけだった値上げ会議に、当たり前のような顔で田尻さんが加わった。加わったというより、居座ったという感じだ。

「へー!メニューの値段を上げるって事ですかー?」
「そ、今の値段のままじゃ、原価に対して利益が薄利過ぎるからね」
「……ゲンカニタイシテリエキガハクリ?」

 完全なカタカナ発音だ。田尻さん、絶対言葉の意味を分かってないと思う。
 そう、俺がチラリと寛木君に視線を向けると、そんな事は承知の上だと言わんばかりの顔でコーヒーを飲む彼の姿があった。さっきまで小学生の男の子みたいだったくせに、今の寛木君はとんでもなく優雅の極みだ。

「儲からないってコト」
「えーー!それはダメじゃないですかー!ますたー、値段を上げましょう!」

 手にしていた商売敵の店の商品を、ドンと勢いよく叩き付けてそんな事を言う田尻さんに、俺は彼女に悪気がないと分かっていてもなんともいえない苦々しい気分になった。お門違いなのは分かっているが、こう思わずにはいられない。

 この裏切り者め!

「あのね、田尻さん。お客さんが減ってるのに、今値段なんか上げたら……もっとお客さんが来なくなっちゃうよ。ブルームに、お客さん取られちゃうよ」
「ブルームにお客さんを取られる?」
「そうだよ。現に今だって少しずつお客さんも減ってきてるし」
「まだ言ってる。だーからっ」
「でも、そうだろ。アッチの方が、商品のクオリティも、品数も……それに値段だって安いし。田尻さんもそう思うよね?」

 田尻さんの手元には、俺の淹れてあげたアイスコーヒーと、商売敵であるブルームのフローズンドリンクが並んでいる。
 俺が田尻さんに問いかけると、彼女は「んー」と何かを考えるような仕草で、飲みかけのフローズンドリンクを口に含む。ブルームのロゴマークが、俺を見て鼻で笑ったような気がした。

「思いません」
「え?」
「別に、アッチにたくさんお客さんが来てもこのお店とは、あんまりカンケーないと思います」

 そう、どこかサラリと言ってのける彼女に、俺は「えぇ」と眉を潜めるしかなかった。直後、先ほどまで口にしていたフローズンドリンクを置いた田尻さんは、今度は俺の淹れたコーヒーを飲み始める。

「ん~~、おいしい」

 え、ソレ交互に飲むの?ごはんとおかずみたいな感じなの?
 そう、俺が彼女の謎の飲み合わせに目を剥いた時だった。突然田尻さんの〝いつもの〟が始まった。

「私、アイドルのハヤミネ君が好きです!ますたー、ハヤミネ君のこと知ってますか?」
「あ、えっと。うん。名前くらいは」
「へぇ。あぁいうのが好きなんだ。ミハルちゃん」
「はい、推しです!」

 隣から、机に肘をついた寛木君が、どこか感心したような声を上げる。そして、言うに事欠いてとんでもないことを口にする。

「でも、ハヤミネってブスじゃね?」
「ちょっとちょっと!寛木君!?」
「なに、マスター」
「田尻さんの推しに対して、ブスって言ったらダメでしょ!」
「え、なんで?ホントの事じゃん」
「えぇ……」

 俺、何か悪い事言った?と欠片も悪びれた様子すらなく言ってのける寛木君は、圧倒的に顔が良かった。おかげで、俺はと言えば途端に何も言えなくなる。

「はい、ハヤミネ君はちょっと顔はおブスです!」
「えっ、えぇぇ!田尻さん!?」

 嘘だろ。自分の推しに対して〝お〟を付けたとはいえブスとハッキリ言ってのけた田尻さんに、俺は一体何をどうフォローして良いのか分からなくなった。若さか。若さ故なのか。これがジェネレーションギャップってヤツなのか?

「だよな。アイツ、顔はそうでもないもんねぇ」
「はい!顔はイマイチです!」
「……」

 いや違う。この二人だからだ。忖度もクソもない。この二人は嘘が吐けないのだ。
 俺はといえば、ともかく戸惑いを呑み下すと、傍にあったアイスコーヒーに口を付けた。うん、温い。そして薄い。

「でも、推してる理由は顔とかじゃなくて……えっとぉ。どこが好きかとゆーと、歌も上手なんですけど、どっちかっていうとダンスが上手で。ハヤミネ君は、高校生ダンス甲子園で優勝した事もあるんですよ!ソンケーしてます!だから、私の推しです!」

 突然始まった、田尻さんの〝いつもの〟何の脈絡のないような話。ただ、寛木君もそれを遮ったりしない。なにせ、これはもう〝いつもの事〟だからだ。

「へぇ、ハヤミネってそんなに凄いんだ。……あ、ほんとだ。なんかスゴイわ」
「あ、俺も見たい。見せて」
「……ちょっ、あんま近寄んな!自分のスマホで見ろよ」

 そう言って深く眉間に皺を寄せて隠す寛木君に、俺は「ご、ごめん」と、慌ててポケットに手を突っ込んだ。あ、スマホ。ロッカーに入れっぱなしだった。

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「ふふ、そーでしょ?知らない人は、ハヤミネ君の事はアイドルの癖にブスって言うけど、私みたいにダンサーを目指してる子はみーんなハヤミネ君が好きですよ!努力家で格好良いです!」

 そう言って笑う田尻さんは、そんな会話の合間にも俺のコーヒーとフローズンドリンクを交互に飲み続けている。一体、彼女の口の中は、今どんな状態なのだろうか。

「でも、同じグループのカオル君も好きです!推しです!」
「っは、ウケる。ハヤミネを努力家で格好良いとかいいながら、今度は急にイケメンブッ込んでくるじゃん」

 田尻さんの言葉に、寛木君が軽く鼻で笑ってみせた。「っは」というコレは彼の笑い方の癖だ。一見すると相手をバカにしているようだが、これはそういう類の笑いではない。彼なりの、本気の笑いなのだ。最初こそ分からなかったが、四カ月も一緒に居るせいで、やっと分かってきた。

「はい!カオル君は、顔が好きです!顔だけが好きです!」
「いいじゃん。ミハルちゃんのソウイウとこ、俺好きかも」
「私は、ゆうが君の事は普通よりちょっと好きくらいです。ダンスの次の次の次くらいですね!」
「へーー、そう」

 寛木君は、田尻さんと会話を楽しんでいる。かくいう俺も、ちょっと楽しい。コーヒーもあって、爺ちゃんの店でダラダラと気の置けない相手と話す。なんだか、昔を思い出した気がした。

「だから、ますたー!」
「んー」
「金平亭は値上げしても大丈夫ですよ!」
「え?」

 突然、話が元の道に戻って来た。
 田尻さんの真っすぐな瞳が、俺をジッと見ている。ふと、彼女の手元を見ると、俺のコーヒーもフローズンドリンクも、どちらも空になっていた。

「推しは絶対一人じゃないといけないってことはないし、どっちも好きでいいです!皆、色々たくさん好きだし!別に、誰にとっての一番になんてなる必要ないと思います」

 田尻さんの言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
 皆、色々たくさん好き。当たり前の事を、当たり前みたいな顔で言われているだけなのに、田尻さんの言葉が妙に胸に刺さった。

「それに、コレだって七百円くらいするから、飲み物なんてどうでもいい子からすれば『高い!』って言います!でも、今日は暑かったし、ダンスで疲れてたし七百円でもいいかなって思いました!」
「……そっか」

 ていうか、アレ七百円もするんだ。一回も入った事がないせいで、知らなかった。なんか下手すると定食屋の昼飯くらいはする値段設定だ。
 うん、高い。よく学生が店に並んでいるから、もっと安い価格帯の店だとばかり思っていたのに。

 そう、俺が初めてブルームの商品を値段越しに見た時だ。ミハルちゃんがブルームの空の容器と、店のグラスを両方持ってハッキリと言った。

「確かに、値段を決めるのはますたーだけど、高いか安いかは、ますたーじゃなくて買う人が決める事だと思います!」
「っ!」
「だから、私は、ますたーのコーヒーは高いって思いません!高いって思ってる人は別のお店に行ってもらったらいいんです!どーぞどーぞって!」

 ゴクリと、唾液を呑み下す。同時に、隣から寛木君の視線を強く感じた。

「なんだ、分かってなかったのか」
「……え?」

 ふと、今度は寛木君の手元を見ると、そこにも氷だけになったグラスが微かに水滴をまといながら存在していた。

「こだわりが強いし、色々焙煎だって時間かけてやってるから……自分の腕に自信があるのかと思ってたのに。そうじゃないのか」

 寛木君の、どこか独り言でも話すような口調で紡がれる言葉に、俺は必死に耳を傾けた。これは聞き逃しちゃいけない気がする。ソファ席なのをいい事に、俺はバレないように微かに寛木君へと肩を寄せた。

 今回は離れろって言われない。良かった。

「良いモノを安くなんて無理だ。良いモノからは〝適正な価格〟を取る。そして、それを求める客層にのみ商品を届ければ、個人が食っていくくらいなら十分やっていける。だから、マスター」
「はい」

 寛木君の整った綺麗な顔が、目の前にある。夏なのに、春みたいな柔らかくて暖かいアールグレイのような髪色と、薄い色素の瞳が真剣な目で俺を見ていた。

「これは値上げじゃない。価格を適正にするだけだよ。アンタのコーヒーに今の値段はあまりにも不適正だ」
「ふ、不適正?」
「そ、安すぎって事。今のままじゃ原価割れギリギリでしょ。なんでそこにマスターの技術料を上乗せしない?ちゃんと自分も価値に入れなよ。そうしたら、二割……いや、三割は乗せてもいい」
「……」
「人が来ないのは、宣伝の仕方が求める客層と合ってないだけだから。別に、マスターの腕の問題じゃない。じゃあ、どうやってする?この店の場合、SNSを使うより……」

 寛木君の言葉が、再びブツブツと自問自答の色を強く帯び始めた。ただ、本当はそこからの話もしっかり聞くべきなのかもしれない。でも、俺はその前の寛木君の言った事で頭がいっぱいになったせいで、話を聞く事が出来なくなっていた。

 今の値段に、俺のコーヒーは不適正だって寛木君は言った。俺の腕も、きちんと価値に入れていいって言った。

「……ぁ、ぅ」

 少しずつ胸に熱い感触が広がり、うれしい気持ちがじんわりと満ちていく。
 さっきのは一体どういう意味だ。今、俺が思っている事は、俺が都合よく考えてる〝勘違い〟じゃないかな?俺、よく勘違いするし。

 どうなんだろう。
 わからない、分からない。もう、分からないなら寛木君に直接聞くしかない。

「あ、あの。寛木君……」
「ん、なに?なんか質問。反対意見でもなんでも聞くよ。ほら、言いなよ」
「あの、あのね」

 此方に挑むような視線を向けてくる寛木君に、俺は喉の奥に空気を詰まらせながら、一度ゴクリと唾液を呑み下した。いつもより近い位置に、寛木君を感じる。

「寛木君は、俺のコーヒーを美味しいって思ってるってこと?」
「……は?」

 いつの間にか俺は、寛ぎ君に肩がぶつかるほど身を寄せていた。寛木君の口元から、紅茶ではなく、コーヒーの香りがする。俺が淹れたコーヒーの匂いだ。

「俺のコーヒー、好き?」
「っっっ!」

 その瞬間、寛木君の顔がジワリと赤く染まっていった。同時に、寛木君の視線がソロリと俺から逸らされる。顔も、耳も、首筋も。寛木君じゃないくらい真っ赤だ。
 そういえば、最初に面接をした時に、寛木君は確かに言ってくれたんだった。

--------今日、ここで飲んだコーヒーが……凄く美味しかったので。
「……き、らいじゃない」

 寛木君は不器用だ。そして、ウソも苦手だ。それを、この四カ月でちゃんと理解できるようになった。

「そっか。あれも、ウソじゃなかったんだ」

 俺は田尻さんと寛木君の手元にある空のグラスを前に、静かに息を吐いた。

「良かったぁっ」

 こうして、喫茶金平亭は、九月から全商品の値上げを決めたのであった。

19

 九月一日。
 学生たちが長い夏休みを経て、再び学校へと戻っていくその日。

「だ、大丈夫かな」

 喫茶金平亭も、一つの大きな区切りを迎えようとしていた。

「大丈夫だって。全メニューは価格改定後の値段表記に変えてあるから。漏れはない」
「いや、そうじゃなくって」

 そう、寛木君がメニュー表をパラパラとめくりながら何てことない顔で言う。金平亭は本日より、全商品余すところなく値上げを行うのである。

「ねぇ、この期に及んでまだ四の五の言ってんの?」
「そ、そうだけどさぁ、大丈夫かな。クレームとかこないかな?」
「さぁ、くるかもね」
「う゛っ」

 寛木君の涼し気な横顔が憎らしい。俺は手元にあるメニューをパラパラとめくると、その価格表記に小さく溜息を吐いた。そのどれもが、元の値段より三割近くも上がってしまっている。ついでに言えば、フードメニューも大幅に減らした。在庫の維持管理のコストがかかるから、と寛木君の提案だ。

「お客さんに……なんて言われるかな」
「マスター、俺達は詐欺師かなんかなの?犯罪でも犯してる?」
「っそ、そんな事は……ないけど」

 寛木君の口から放たれた「詐欺師」という強い言葉に、俺は勢いよく首を振った。

「二週間前から店内には価格変更の案内はしてたし、そもそも元が安すぎたんだって何度も言ってるよねぇ?納得してくれたんじゃなかったの」
「う、うん。納得はしてる。わかってるよ」

 そう、分かっている。この値上げは正当なモノだ。何も悪い事なんてしていない。そうしなければ、店の存続にかかわるのだから。

「で、も……」

 でも、何故だろう。たった数十円~百円程度の値上げにも関わらず、俺ときたらともかく罪悪感でいっぱいだった。それこそ、まるで詐欺師か何かにでもなったような気分だ。

「あぁっ、もう。グズグズうるせぇな!?いい加減にしろっつーの!」
「っ!」
「ったく。バカなアンタの為に、開店前にもう一回だけ説明してあげるけどさぁ!この値上げはっ」

 眉間に皺を寄せてこちらを見下ろす寛木君の姿に、俺はとっさに身構えた。下腹部に力を込め、何を言われてもいいように奥歯を噛む。情けない事に、この流れで俺は何度も寛木君に泣かされている。でも、今は下手に涙腺を決壊させるワケにはいかない。

 なにせ、喫茶金平亭は間もなく営業を開始するのだから。

「……」
「……」

 しかし、何故だろう。説明してやるよ!と勢いよく言い募っていたはずの寛木君は、眉間に皺を寄せたまま、黙ってこちらを見下ろしている。

「寛木君?」

 たまらず俺が寛木君に声をかけると、憮然とした表情を浮かべていた彼がボソリと呟くような声で言った。

「……泣かないでよね」
「うっ」

 ガッツリ俺の思考が読まれている。

「なっ、泣かないし」
「っは、どうだか。その泣き黒子が、またあんたに涙を連れてくるかもじゃん?」

 完全に揶揄うような口調で放たれた言葉に、俺はとっさに寛木君から目を逸らした。なんという事だ。学生である彼に、説教をされるばかりか、泣く心配までされているなんて。こんな情けない事あるか!

「ほんとに、泣かないし」
「へぇ」

 顔に熱が集中するのを止められない。値上げを決意したあの日から、寛木君は何かにつけて俺の泣き黒子をイジってくるようになった。見た目によらず、寛木君は小学生男子と殆ど変わらない。
 すると、突然俺の目元に温かいモノが触れた。あれ。なんだ、コレ。

「え、え?なに?」
「コレ、隠したら泣かないかなって」

 どこか無邪気な小学生のような事を口にする寛木君。そんな彼の右手が、現在進行形でソッと俺の目元へと触れていた。

「いや、そんな雷が鳴った時のおへそみたいな扱いされても困るんだけど」
「念のタメ」
「いや、泣かないし。大丈夫だし」
「言っとくけどさ。もしかしたら、今回の値上げで来なくなる人もいるかもしれない」

 うわ、本当にこの状態で話すんだ。
 冗談なのか本気なのか。寛木君は俺の目元の黒子を指先で隠しながら、つらつらと話し始めた。目元があったかい。

「でも、それはそれでいい。なぜなら……えっと、そうだな」

 俺を見下ろしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ彼の姿は、決して俺をバカにしてなどいなかった。ただ、懸命に言葉を選んでいる。多分、俺が泣かないように。

「そう……客が店を選ぶように、店側も客を選んでいい。これは、前も言ったよね。覚えてる?」
「うん」

 寛木君からの問いに、コクリと頷く。もちろん覚えている。なにせ、飲食店というのは客に選んでもらってナンボだと思っていたトコロに、「値段で客を選別しろ」なんて言われたのだ。そんな衝撃的な事、忘れるワケがない。

 そしてこの時の俺は、既に寛木君に泣き黒子を触られている事への違和感が、まったくといっていい程なくなっていた。

20

「店が客を選別するために使うフィルターが〝価格〟なんだよ。確かに、お客様は店にとっては〝神様〟かもしれないけどさ」
「うん」

 寛木君の指先がスルスルと俺の目元を撫でた。おかげで、全然涙は出ない。むしろ、少し気持ちが良いくらいだ。

「自分の望みの店にする為に、マスターも神様は選んでいいよ。アンタには、神様を選別する権利がある」
「……ん」

 うん、そうだ。何度も何度も寛木君に言われてきた。だから、もう理解はしている。大丈夫。でも、なんか――。

「だいたいさぁ、日本人は無料と、過剰なサービスが当たり前になり過ぎてんだよ。多少なんか言ってくるかもだけど、そんなのは気にせずに」

 あぁ、なんだコレ。目元を撫でられるって、くすぐったいのに凄く気持ちが良い。撫でられているのは目元なのに、なんだか背中までゾクゾクしてきた。体中がじんわりと熱い。

「っん」

 目元を撫でられる感覚に、俺が思わず目を閉じた時だった。

「ちょっ、はぁっ!?」
「え?」
「な、なに期待してんだよっっ!?」

 それまでとは全く違う寛木君の声の調子に、俺はパッと目を開けた。すると、そこには目を見開いてこちらを見下ろす整った彼の姿があった。なんだか、顔が異様に赤い。

「言ったよな!?俺は、アンタみたいなのはタイプじゃねぇんだよ!」
「え、あ。うん。はい」
「最初に言ったよな!?おいっ!」

 いつの間にか目元から離れて行った寛木君の手に、残念な気持ちを抱く間もないまま、俺は寛木君からの謎過ぎる罵声を受ける羽目になった。

「マスターだけは〝ナイ〟から!」
「……は、ハイ」

 何が?とは、さすがに茹でタコのような顔の寛木君に、言えるはずもなかった。

◇◆◇

 夕方五時。
 特に値上げについて何か言われずに一日が終わろうとしていた。

「……はぁっ」

 ホッとして、思わず深い息が漏れる。
 まぁ、二週間前から店の前には値上げの掲示をしていたし、メニューも印刷を完全に刷り直していたため、元々がその値段であったように表記されている。

 ここまできて、俺はやっと少しだけ冷静になった。
 うちの商品の値段は、決して他の店と比較して突出して高いワケではない、と。

--------値上げじゃない。適正な価格に調整するだけ。

 寛木君から言われ続けてきた言葉の意味が、ここにきてやっと身に染みて理解できた。そうだ。今の値段でやっと〝適正〟なのだ、と。

「……良かった」
「ぜんぜん良くナイですー、ますたー」
「ん?」

 すると、俺の隣でおぼんを両手に抱えた田尻さんが、明らかに不満そうな表情で口を尖らせていた。そんな彼女に「どうしたの?」と俺が問いかけようとした瞬間。店中に騒がしい声と笑い声がドッと響き渡った。

「やーねぇ、この人ったらもう忘れてるわ!」
「それより聞いてよ、ウチの旦那がねぇ!」
「えっ、ちょっと見て!女優の阿葉刷京子が離婚だって!」
「なになに?また不倫?」

 その声に、田尻さんの不満そうな表情が更に濃くなる。視線の先にある常連客の集団に、田尻さんの眉間の皺は更に深くなり、口はへの字に歪んでいた。まるで「不快」を絵に描いたような表情である。そして、一言。

「あのオバさんたち、常識なさ過ぎ」

 高校生に言われてますよー、という気持ちを込めてチラリと客の方を見る。しかし、そんな俺達からの視線など、気にする事なく声高に話し続ける彼女達は、今日もまた閉店ギリギリまで居座る気だろう。

「はぁっ」

 今度は深いため息が漏れる。しかし、その自分の溜息すらも、店内に響き渡る笑い声にかき消されてしまった。

--------マスター、アンタは店の客足が減ってるのは、アッチに客を取られてるからって言うけどさ。本当にそう思ってる?

 耳の奥で寛木君の呆れた声が聞こえた気がした。
 そう、気がしただけだ。今ここに、寛木君は居ない。

「……居ないクセに、イタいとこ突くなぁ」

 田尻さんが来てから、特に問題なく店も回せていた事もあり、寛木君には帰っていいよと伝えた。いや「いいよ」もなにも、そもそも、今日だって寛木君のシフトの日ではないのだ。彼は毎日善意で店に顔を出してくれている。
 ただ、あまりにも彼が上がるのを渋るものだから、俺は言ったのだ。

「たまには友達と遊べばいいのにって……言っただけなんだけど」

 そう言った瞬間、それまで「いや、残るし」と言ってくれていた寛木君の目付きがガラリと変わった。そして、そのままエプロンを脱ぎ捨てて帰ってしまったのだ。

「俺、いつも寛木君を怒らせるよな」

 本当は分かっているのだ。この店の客足が減っているのは、新しく出来た店に客を取られてしまっているから、ではない。

--------単純に、この店が客にとっての〝自由な場所〟になれてないからでしょ

「ますたー」
「ん?」

 再び田尻さんが俺を呼んだ。

「私、あの人たち嫌いです」

 しかしソレは、いつもの感情的な声とは違う、どこか冷静で大人びた声だった。

「あのオバさん達、最初に注文したっきり何も注文しないし……何回も『ちょっと、水!』とか言われて、お水だけでずーっといるし」

 言葉は相手への不平不満で彩られているのに、何故だろう。その声は、怒りというより悲しみで満たされているように感じた。

「あの人たち、この店の事を公民館か何かだと思ってます。一回注文すれば何してもいいんだって。他の人の事も、お店の事も何も考えてない。金平亭のこと……バカにしてる。だから、私……あの人たちのこと、だいっきらい」

 もう一度、客席を見てみる。もう、彼女達しか客は残っていない。他の席は全て空白。ガランとしていた。そう、かれこれ四時間近くあの調子で居座り続けている。他の客よりも早く来て、どの客よりも遅くまで居る。

 しかも、頼むのは決まってコーヒー一杯。

 でも、彼女達は別に悪い事をしているワケでも、何か法を犯しているワケでもない。それでも、俺は〝マスター〟として店を守らなければならなかった。

「私、このお店好きです。でも、友達は呼べない」
「……」
「それが、かなしい」

--------マスター、そろそろ気付けよ。アンタが「ハイハイハイハイ」言って客を選ばずに神様扱いしたせいで、あの人達は〝クレーマー〟になったんだよ。

 あぁ、寛木君の言う通りだ。
 店を好きだと言ってくれている子に「友達は呼べない」なんて、こんな悲しそうな顔で言わせてしまう店にしたのは、他でもない俺自身だ。

--------迷惑だ。帰ってくれ。

 爺ちゃん、俺。ずっと甘かったんだな。
 でも、今更どうしろって言うんだよ。

21

「あら、もうこんな時間」
「そろそろ帰りましょうか」
「そうねぇ」
「今日の夕飯何がいいかしら。もう夕飯の事を考えると、億劫だわぁ」
「ほんとねぇ」

 やっと席から立ち上がった彼女達に、それまで悲し気な表情を浮かべていた田尻さんがパッとレジまで走った。少し伸びたポニーテールが重みでいつもよりゆったりと左右に揺れる。その後ろ姿にハッキリとした苦しさを覚えつつ、俺はグラスを片付けるためにテーブルへと向かう。

 しかし、その足はすぐに止められた。

「アイスコーヒーがお一人ずつ五百九十円です」
「はぁ?」

 田尻さんが値段を口にした途端、彼女達の楽し気な雰囲気が一変した。

「だから、アイスコーヒーの方お一人ずつ五百九十円で……」
「なに、値段上がったの?」
「はい、今日から」

 どこか剣呑とし始めた客の口調に、俺はレジの方を振り返る。するとそこには、火に油を注がれたように怒り始める常連客達の姿があった。

「昨日までは四百六十円だったのに!?」
「味も何も変わってないくせに、値段だけ上げるなんてどうかしてるんじゃない!?」
「聞いてないわよ!」
「で、でも。あの!ずっとお店にお知らせは貼ってました!」
「そんなの見るワケないじゃない!」
「そんな……!」

 これはヤバイ。田尻さんの表情がかなり強張っている。この顔は客に委縮しているというよりは、キレる直前の顔だ。

「た、田尻さ」
「ちょっと、店長さん!」
「っは、はい!」

 俺がレジへと駆け寄った瞬間、一気に客の視線が俺へと向けられた。その目を見た瞬間、俺は先ほどの田尻さんの言葉をハッキリと思い出した。

--------金平亭のこと……バカにしてる。

「ねぇ、これどういうこと!」
「私達、値上げの事なんか知らなかったわよ!」
「っていうか、何か変わったワケ!?味は全然変わってないように思えたけど」

 違う。この人たちがバカにしているのは〝金平亭〟じゃない。

 俺だ。
 俺だったら、文句でもなんでも言えばどうにかなると思っている。そう、俺がこの人たちに思わせてしまった。

「あ、何か変わったというワケではなく。円安による豆の輸入価格高騰で……」
「テキトーな事言って。どうせその辺のやっすい豆を使ってるんでしょ!」
「そうよ!そんな大層なモンでもないクセに!」

 どうせその辺の安い豆?その辺とは一体どこの事だ?
 国産のコーヒー豆なんて殆ど存在しない。そもそも、日本は豆を作れる気候や土地柄ではないのだから。それに、収穫高や気候によって味の代りやすい豆で一定の味を保つため、どれだけの手間がかかるかも、この人たちは知らない。

「きちんと客に知らせてなかった店の責任でしょう?」
「せっかく毎日来てあげてるのに!」

 そう、客にそんな事は関係ない。
 田尻さんの言う通りだ。だから、その商品が相手にとって高いか安いか。価値を決めるのは客自身だ。そして、この店のコーヒーは、この人たちにとって満足のいく〝価値〟を与えられなかった。

--------自分の望みの店にする為に、マスターも神様は選んでいいよ。

 寛木君の皮肉っぽい声が頭の中に響く。そうだね、その通りだ。

 寛木君は嘘を吐くのが苦手だ。そんな、不器用な彼が、俺の技術にも〝価値〟を付けていいって言った。俺のコーヒーを「不味くはない」と言ってくれた。
 俺はここに居ない彼の言葉を反芻すると、静かに息を吸い込んだ。

「アイスコーヒーは一杯五百九十円です。お支払い頂けないようでしたら、警察を呼ぶしかありません」
「は?」
「お客様、それでは無銭飲食をされるという事でよろしいでしょうか」

 俺はこの時になってやっと、店の手綱を握れた気がした。

◇◆◇

 警察という言葉を出した後、あの客達は凄まじく激昂しながらも金を賽銭でも投げるような勢いでトレーに投げ捨て、店を出て行った。
 多分、もう彼女達が店に来る事はないだろう。いや、むしろ来たらそれはそれでビックリだ。

「はぁ、やってしまった」

 誰も居なくなった店内で、俺はパソコンの前に一人頭を抱えていた。
 田尻さんはと言えば「ますたー!最高に格好良かったです!私スッキリしましたー!」と、比喩ではなく本当に嬉しそうに店の中でダンスを踊り始める程だった。
 そして、俺も俺であの常連客にビシッと言った直後は、テンションが急激に上昇し「いえーい」なんて、田尻さんとハイタッチなんかしちゃっていた。

 ただ、時間が経つにつれてその高揚感は徐々に静まっていき、田尻さんが帰った今はと言えば――。

「……これで、良かったのかなぁ」

 ガッツリと落ち込んでいた。
 結局、俺のやった事は「客」を店から追い出したという事に他ならない。店の売上は客が来てくれる事で生まれる。その「客」に対して、俺は「警察を呼びます」と、完全に扉を閉めてしまったのだ。

「SNSに変な書き込みとかされたらどうしよう。あの人たち、変な噂とか流しそうだし。うちみたいな小さなお店は、口コミが命なのに……」

 俺は間違った事なんてしていない!と何度も自分に言い聞かせるものの、どうしても不安は襲ってくる。

「寛木君なら、なんて言うかな」

 「やるじゃん」なんて、言ってくれるだろうか。いや、そんなにハッキリと褒めてくれるタイプではない。よくて「まぁ、ソレが普通なんだけどね」といった所だろうか。うん、多分そうだ。

「……でも、寛木君。明日もシフトには入ってなかったよな」

 そうだ。明日のシフトに寛木君の名前はない。夏休みが明けた九月、今は、田尻さんを優先的にシフトに入れるようにしている。それも、寛木君の提案だ。

--------ゆうが君、いーんですか?私ばっかりシフトに入れてもらっちゃって。
--------別にぃ、俺はミハルちゃんと違ってオカネモチだし?気にしなくていーよ。

 口ではそんな事を言いつつ、ダンススクールに入る為にお金を貯めている田尻さんに気を遣っているのはバレバレだった。寛木君は、田尻さんには、なんだかんだ優しいのだ。

「でも、これまではシフトに入ってない日も、毎日店に来てくれてたし」

 でも、だからと言って明日もそうとは限らない。なにせ、今日は帰り際に寛木君を怒らせてしまった。

「……なんで、寛木君は怒っちゃったんだろ」

 未だに理由は分からない。
「たまには友達とも遊びなよ」という言葉が、彼を怒らせた事は確かだ。

--------は?ンなのマスターに言われる筋合いねぇんだけど?ウザ過ぎだわ。余計なお世話。

 いや、アレは怒らせたというより、彼を傷つけてしまったように思える。温度のない冷たい声色で言い放たれたその言葉に、俺は頭を抱えた。
 目の前のパソコンには、平日での最低売上金額が更新されていた。もう、このままだと本当に店は長くないかもしれない。

「……寛木君からも、もう見捨てられたかも」

 店の事でグルグルしていたはずの思考が、最終的には寛木君へとつながってしまう。

「何考えてんだよ、俺は。そもそも寛木君はただのアルバイトなのに」

 それに学生だ。
 頭では分かっている筈なのに、今日の事が不安過ぎて、寛木君が居ない事が心細くて堪らなかった。他でもない俺が、彼に帰るように言ったというのに。

「……ひとまず店、締めるか」

 そう、俺がパソコンを閉じて席から立ち上がろうとした時だった。

「俺が、何だって?」
「っ!」

 俺の背後から、よく知った声が聞こえてきた。

22

「く、寛木君!」
「……今日、どうだった」

 振り返ると、そこにはどこか気まずげに視線を逸らしながらその場に立つ、寛木君の姿があった。その手には、何か紙袋が握られている。持ち手の部分は力を入れすぎたせいか、グシャグシャだ。

「あ、あ、あのさ。あの、」

 さっきまで「見放された」と思っていた相手が、目の前に立っている。どうやら俺は、まだ寛木君に見放されていなかった。そう思った瞬間、なんだか先ほどまでの不安が一気になくなった気がした。

「きょ、きょう……おきゃく、さん、から」
「うん」

 目の前が揺らぐ。声も情けないほど裏返っている。
 何やってるんだ。寛木君の顔を見た途端、ホッとして泣きそうになるなんて。でも、今は泣けない。だって、寛木君に言いたい事がたくさんあるのだから。
 俺はとっさに左目の目尻にある泣き黒子を手で隠した。

--------コレ、隠したら泣かないかなって。

 そうだ。俺の涙はこの泣き黒子が連れてくるんだから。隠したら、きっと涙は出ない。

「ねだんが、高いって文句、言われて」
「うん」

 ゴクリと合間に唾液を呑み下す。ただ、どんなに必死に泣き黒子を隠しても、一向に涙の奔流は引いてくれない。それどころか、鼻の奥もツンとしてくる始末だ。
 やめろ。泣くな、泣くな。泣くな。

「たいした、コーヒーでも、ないくせにって、言われて。ねだんに、文句、いわれて」
「うん」
「だから、おれ……おきゃく、さんに。けっ、けいさつ、呼びますって……いっちゃった」

 泣くのは我慢できたが、これでは泣きそうなのはバレバレだっただろう。でも、泣かずに最後まで言えた。やっぱり泣き黒子を隠したのが良かったのかもしれない。そう、少しでも泣きたい気持から意識を逸らす為に、バカみたいな事を考え始めた時だった。

「そう」
「あ、え?」

 俺の左手に何か温かいモノが触れた。そして、

「よく言えたじゃん」

 いつの間にか、泣き黒子を隠していた左手が、寛木君の温かい手によって目元から離されていた。しかも、なんて事だ。

「アンタのコーヒーの価値が分からないなんて、アイツらバカだね」
「……ぁ、ぁ」
「そういう人たちには、他所に行ってもらおう。ここは公民館でもなんでもないんだからさ」

 なんと、本当に褒められてしまった。
 「よく言えたじゃん」って言ってもらえた。それに、今の言葉だってそう。俺のコーヒーに価値があるって言ってもらえたようなモノだ。なんだよ。いつもは絶対にそんな事言わないくせに。なんで、こんな時に限ってそんな風に言うんだ。

 俺の左手を、寛木君の右手がギュッと掴む。

「マスターは間違ってないよ。ソレでいい」

 寛木君は嘘が苦手だ。最初は騙されたと思っていたけど、今なら分かる。

--------今日、ここで飲んだコーヒーが……凄く美味しかったので
--------マスター、実は俺ゲイなんです。あ、あの、気持ち悪いですよね。

 寛木君は最初から、ウソなんて吐いてなかった。

「で、も。へんな、うわさとか、流されたら……」
「今から新しい常連客を作ればいい。こういう小さな店を守ってくれるのは、店の事を大事に思ってくれるファンだ。爺ちゃんがそうだったんじゃないの?」
「で、も、でも。そんなの、おれには、いない」

 ハッキリと力強く口にされる言葉に、先ほどまでの不安が一気に消えていく。でも、なんでだろう。

「そういう客を、俺が連れてくる」

 もう、無理だ。

「っぁ、ぁぁ」
「……また泣かせちゃった」

 寛木君の呆れたような声が、頭の上から降ってくる。
 これまでは俺が泣く度に、「俺のせいじゃない!」と子供のように喚いていたくせに、今の彼の声は、どこまでも落ち着いていて「大人」みたいだった。

「……これは、俺のせいだね」
「っぁ、っぁ、っぁぁぁ」

 あぁ、そうだよ。寛木君のせいだ。いつもみたいにバカにしてくれたら。きっと俺は泣かなかっただろうに。
 俺が俯きながら泣き続けていると、彼の手がギュッと俺の手を握りしめてくれた。まるで、手を繋いでいるようで少し安心する。

「アンタが帰れ帰れってウルサイから、俺は客としてきたんだ。ほら、コーヒー出しなよ。俺は……この店の〝客〟なんだから」

 客。それは、この金平亭に価値を見出してくれる人の事を言うんだ。そういう客を、寛木君が連れて来てくれるって言った。
 どうやら、さっそく連れて来てくれたらしい。

「ってか、俺学校つまんないし、嫌いだから。だから、明日からも普通にここに来るけど……まさか、客の俺に帰れなんて言わないよね」

 どこか拗ねたような声で口にされた言葉は、まるで高校生の頃の俺みたいだった。

--------なんだ、キリ。また来たのか。

 そうか、寛木君は、毎日この店を「選んで」来てくれてたんだ。義務感で来てたんじゃなかった。俺と、同じだった。

「言わ、ないよ」

 俺は揺らぐ視界の中で必死に顔を上げると、寛木君の目をハッキリと捕らえた。

「いつでも……おいで」
「っ!」

 口にしたのは、あの頃の俺が一番かけて欲しかった言葉だった。

--------まぁ、いつでも好きな時に来ればいい。

 そして、実際に俺は爺ちゃんに言ってもらう事が出来た。それが、当時の俺にとって、どれだけ救いになったか。

「……言ったな」
「うん」
「本当に、いつでも来るからな。俺は、ほんとに……学校なんて、行く気ねぇから。単位も取り終わってて、内定先も決まってる、だから、ほんとに……」
「うん。いつでもおいで」

 寛木君は言った。店を守ってくれるのは、店の事を大切に思ってくれるファンだって。だとしたら、この店にとっての最初のファンは――。

--------私、この店好きです。
--------俺、この店の事好きですよ。

 田尻さんと、寛木君の二人だったのかもしれない。

 その後、俺は本当に寛木君にアイスコーヒーを出してあげた。なんか、商店街のタルトまで持って来てくれて、何故か俺も一緒に食べた。美味しかった。しかも、妙にコーヒーに合った。今度俺も買ってみよう。

「ほら、金」
「いや、いいって。いつも賄いで出してるじゃん!」
「そういう雑などんぶり勘定からも卒業して。今日は客だって言っただろうが。客からは金をとる。ほら!」

 そう言って無理やり押し付けられたコーヒー代に、俺はなんとも言えない気持ちになりながら締めた後のレジにお金を仕舞った。すると、どうだ。

「あれ?」

 今までで一番低い売上を記録していたと思っていた今日の売上が、寛木君の分で最低売上金額を更新せずに済んだ。ただ、どう考えてもお客さんの数はオープン至上最も少ないはずなのに。

「なんでだろ?」

 そう思った瞬間。俺は当たり前の事実に気付いた。

「あ。値上げしたからか……」

 そっか。そうなんだ。商売って、そういうモンだ。

「明日から、頑張ろう」

 俺は未だに真っ赤な赤字を抱える収支を眺めながら、ただ気持ちだけは前を向いていた。


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