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くつろぎ君はコーヒーがキライじゃない!(5)【お仕事小説】

12月:マスターの決断

30

 十二月中旬。
 寛木君に、店の合鍵を渡してから三カ月近く経過した。

「はー、もう今年も終わりかぁ」

 あれから、本当に色々あった。
 俺は、静かな店内でそれぞれ好きに過ごす客を眺めながら思う。

「なんか、爺ちゃんの店みたいだ」

 喫茶 金平亭は今日も無事に店を開ける事が出来た。

◇◆◇

「いらっしゃいませ。あ、橘さん」
「マスター。いつものもらえる?」

 カランと店の戸を鳴らしながら入ってきたのは、二か月程前から店に来てくれている橘さんだった。
 客はいつから〝常連客〟になるのか。きっと明確な定義なんてないのだろうが、俺の中で彼はもう〝常連客〟だった。

「季節のブレンドとエッグタルトですね。承知しました」
「今のブレンドは何?」
「コスタリカの深入りです」
「へぇ、ソレってどんなの?」

 そう、軽い調子で尋ねてくる橘さんは、駅近くの保険会社で働いているサラリーマンだ。人好きのする笑みとピシャリと着こなしたスーツは、どこからどう見ても営業マンっぽかった。というか、営業マンだ。なにせ、商談で何度も店を使ってくれている。

「味はしっかりめにビター感があって、後からくるコクと甘みが、この寒くなった時期によく合うんですよ」
「いいね、楽しみだな」

 しかも、どうやら爺ちゃんが居た時にこの店でバイトをしていたらしい。爺ちゃんがバイトを雇っていたなんて全く知らなかった俺は、最初にそれを聞いた時はかなり驚きだった。なにせ、爺ちゃんは孫の俺から見ても、かなり偏屈な人だったから。

--------今日はこれから病院に行く。いつ帰って来れるか分からんから、もう閉める。帰れ。

 客に対して、平気でそんな事を言う人だった。それでも、爺ちゃんが居た頃の客は、そういうトコロも含めて〝金平亭〟だと受け入れて、苦笑しながら「はいはい」と帰っていった。店が客で満席になる事はなかったが、いつ店に行っても見知った客が誰かは必ずいる。金平亭はそんな店だった。

「こないだの、あのハロウィンブレンドってヤツも良かった」
「ハロウィンブレンド……あぁ!ニカラグアの浅煎り!」
「うん、あれも美味しかったよ」

 橘さんは店でバイトしていた事もあって、コーヒー豆の事も楽しそうに聞いてくれる。それが俺には嬉しかった。なにせ、豆の話なんてしても、これまでは誰も分かってくれなかったから。

「あれは、パカラマっていう珍しいコーヒー豆を長時間発酵させてるので、トロピカルフルーツを甘いシロップに漬け込んだ華やかな香りになってて、それで」

 だから、橘さんが来ると俺はついつい話し込んでしまう。そうやって、俺がカウンターから身を乗り出さん勢いで橘さんに話し続けようとした時だった。

「あの。マスター、追加注文が来てます」
「っは、あ。寛木君!えっと、ハイ!」

 後ろからピシャリとかけられた声に、俺はビクリと肩を揺らす。

「あんまりお客様にダラダラとコーヒーのうんちくをたれないでください。橘さんも迷惑ですよ」
「ハイ、スミマセン」

 サラリとした笑顔で見下ろしてくる寛木君に、俺はヒクリと表情を引きつらせた。あ、コレ完全に怒ってる笑顔だ。わかる、わかるよ。だって、普段寛木君はこんな笑顔で俺を見ない。

「俺は別に楽しいから大丈夫だよ、寛木君」
「……橘さん!」
「……」

 あぁっ、橘さん!優しい、優し過ぎるっ!
 すると、そんな橘さんの言葉など聞こえなかったと言わんばかりの様子で、寛木君は更に深い笑みを浮かべた。こわ。

「橘さん、あとでメニューをお持ちしますので。何か必要な時はいつでもおっしゃってください」
「っふふ、相変わらず仲が良いな」
「……まぁ、悪くはないです」

 何故か最高の笑みをヒクリと強張らせた寛木君に対し、橘さんは「お邪魔して、ごめんね」と笑みを笑うと、いつもの壁際の席へと腰を下ろした。

「まったく、すぐにお喋りに夢中になる。マスター、アンタは子供かよ」
「スミマセン」

 橘さんが居なくなった途端、先ほどの丁寧さなど一切消した寛木君の不機嫌な声が、ズケズケと俺へと向けられる。

「客に気持ち良く喋らせるならまだしも、自分が気持ち良く喋らせてもらってどうすんだよ。このバカ」
「ごめんってば」
「だいたい、少し親しい常連客が増えたからって調子に乗んな」
「あぅ」

 もう、ぐうの音も出ない。
 確かに、寛木君の言う通り、二カ月前から少しずつ店に新しい客が入り始めた。今では、店の中は仕事帰りのサラリーマンやOL客などでちらほらと席が埋まるまでになっていた。

 それもこれも、全部寛木君のお陰だ。

--------この店、ターゲットをサラリーマンに絞ってもいいかもしれない。

 全ては、寛木君のその一言から始まった。

 この二カ月、本当に色々あった。
 店内改装に、営業時間の変更。商店街の個人商店からのフード商品の仕入れ。SNSではなく広告宣伝はチラシのポスティング。豆の直接販売。
 などなどなどなど。ともかく寛木君の言葉を受け、俺は自身の足と体を存分に動かしまくった。

 そしたら、いつの間にか店の客層はガラッと変化し、気付けば十二月になっていた。

「別に、調子には乗ってないよ……」
「いいや、乗ってるね。橘さんだけじゃない。ちょっと名前を覚えてもらえたからって、はしゃぐなっての。まだまだこれからってのに、気ぃ抜くのが早すぎ。そういうツメの甘さが赤字を産むんだよ」

 寛木君のごもっともな言葉が、俺に容赦なく降り注ぐ。まったくもってその通りだ。

「……ごめん」

 一体どの方策が功を奏したのか。最早、俺には分からない。分からないくらい、金平亭は様々な試行錯誤を繰り返してきた。その殆どはこの寛木君が客の様子を観察し、思考を巡らせて得たアイディアだった。

--------よし、まずは店の中テーブル席を減らそう。んで、個人席を増やす。
--------営業時間も、夜深めの時間まで開けてみようか。
--------フードの仕入れは商店街から卸してもらおう。その方が関係性も構築できるし、代わりにうちのコーヒーを店に置いてもらえるかもしれない。

 そして、少しずつ新しいお客さんが店の戸を開く度に、俺はやっと理解した。

--------考えて、試して、検証して。また、考える。この繰り返しが商売だよ。

 俺はもっと早くにコレをしなければならなかったのだ、と。

31

「……ごめんなさい。次から気を付けます」
「別に……そんなに強く怒ってるワケじゃ」
「いやいや、寛木君の言う通りだから」

 俺は腰に手を当てると、チラリと時計を見た。七時半。店の営業時間は夜の十時まで延長した。あと少し。もう少し頑張らないと。俺は微かに肩にのしかかってくる疲労感に息を吐くと、最後にもう一度、店の中を見渡した。
 そこには、パソコンを開いて作業をする人。スマホを弄る人。ただぼんやりとする人。様々な働く大人達で溢れていた。

「大人の放課後かぁ」

 それは、うちの店のコンセプトとして寛木君が言った言葉だ。俺は、それをとても気に入っていた。俺では思いつかない言葉だ。
 仕事終わりから帰宅までの数時間。彼らにとってこの場所は安らげる空間でありたい。

「お客さんをもてなすのが俺の仕事なのに、お客さんのリップサービスに乗っかってちゃだめだね。さぁ、寛木君。追加の注文はなに?何番テーブルさん?」
「……俺」
「へ?」

 その瞬間、ボソリと呟かれた言葉に、俺は目を瞬かせた。

「だから、俺」
「えっと、それは……」
「だからっ!休憩中に飲むコーヒーを淹れろって事だよ!察し悪過ぎ!何年接客業やってきてんだよ!?」

 橘さんとの会話に割って入り、まるで客の注文を受けたかのような様子で言われたアレは、どうやら寛木君自身の注文だったらしい。

「っふふ。じゃあ、橘さんのと一緒にブレンドを淹れてあげるから。待ってて」
「……あの人のとは別のがいいんだけど」

 微かに頬を染めながらそんな事を言う彼の姿に、妙に腹の底がくすぐったくなる。
 可愛い、なんて言ったら寛木君はどう思うだろう。
 いや、言わない。もちろん、言わないさ。そもそも俺は寛木君の好みじゃないし。って、言うか俺がそんな事言ったらセクハラになりかねない。気持ち悪がられるのがオチだ。

「わかった。じゃあ、寛木君にはまだ店に出してないブレンドを淹れてあげるよ。新作だから、感想聞かせて」
「ソレ、どんな豆なの」
「あ、えっと。まぁ、いつものブレンドにちょっと別の豆を足して……」
「なんで、俺にはそんな曖昧な説明なんだよ」
「でも……寛木君、紅茶派だし」
「いや、そんなん関係ねぇだろ!」

 どんどん不機嫌さを増していく寛木君に、俺はどうしたモノかと慌てた。どうしよう。また何か彼の気に障る事を言ってしまったらしい。

「っだ、だいたい。コーヒーの話なら……まずは俺にすべきだろうが!」
「えっ、なんで?」
「普通、従業員教育もマスターの仕事なんだよ!だから、客にうんちく垂れてないで、俺に話せって言ってんの!」
「いや、でも。バイトの寛木君にそこまでしてもらうのは……」
「客に聞かれたら、毎度アンタを呼ぶのが面倒なんだよ!いいから、四の五の言わずに俺にも説明しろよ」

 寛木君からの提案に、俺は先ほどまで肩に感じてたジワリとした疲労感が一気に無くなった気がした。寛木君がコーヒーの事を知ろうとしてくれているのが嬉しかった。たとえ、それが彼の責任感から来るモノだとしても、関係ない。

「ほ、本当にいいの?」
「いいって言ってんだろ。……時間とって、ちゃんと丁寧に説明しろよ」
「じゃ、じゃあ。あの、明日とか。お店が開く時間とかに……」
「今日、店が終わってからでいいだろ」

 寛木君の言葉に、俺はヒクと喉を鳴らした。
 店が終わってからは、ダメだ。絶対にダメ。

「それはちょっと」
「なんでだよ。別にそんなに時間は取らせないし。いつもやってたじゃん」
「ううん。朝にしよ。夜はちゃんと帰ってしっかり休まないと」
「……なに、なんか予定でもあんのかよ」

 俺からの提案に、まだ何か言いたげな寛木君だったが、この議論はすぐに幕を閉じた。

「あの、俺のコーヒーはまだ?」
「っぁ、橘さん!」

 苦笑気味に話しかけてきた橘さんの言葉に、ハッとした。そうだった、ブレンドを用意しなきゃだった!

「すみません、今用意します!あ、寛木君はエッグタルトを準備して!」
「……はい」
「いや、忘れられてないかなーと思って言いに来ただけだから。別に急がなくていいよ」
「いや、すぐにお持ちします!」

 俺はすぐに店の奥に飛んで戻ると、コーヒーの準備に取り掛かった。まったく、俺ときたら一体何をしているのだろう。サービス業なのに、当のお客さんをほっぽり出して寛木君との会話に夢中になってしまうなんて。

「……なにやってんだよ、俺」

 ジワリと背中に刺すような視線を送ってくる寛木君に気付かないフリをしながら、俺は豆をミルにかける。

「俺も、寛木君としゃべりたい」

 夏が明けてから、寛木君は店が終わった後も、いつも俺と店の話し合いをしてくれていた。帰ったあとも、毎日連絡をくれたりして。

--------マスター、ちょっといい?

 そう言って一緒に残る時間がどれだけ楽しかったか。あれは、まさしく俺にとっての「大人の放課後」ってヤツだった。あの時間は、ミハルちゃんも居ない。寛木君と二人きりで、夜遅くなる時はカフェインレスのコーヒーなんかを飲みながら。

 でも、最近は全くそういう時間を殆ど持てていない。

「……もう、十二月か」

 寛木君やミハルちゃんは三月で居なくなる。だから、出来るだけ一緒に居たかったけど、最近ではそれも難しくなってきた。
 順調に常連客が増えてはいたものの、でも、俺はやっぱりすべてが遅かった。

「……バイト、間に合うといいけど」

 金平亭の赤字は、今や店の売上だけではどうにもならない程に膨れ上がっていた。

 喫茶 金平亭は今日も無事に店を開ける事が出来た。
 でも、明日もそうである保証はどこにもない。

32

「っはぁ、つかれた」

 俺は白み始めた明け方の空の下をぼんやりと歩いていた。冷たい風が疲れた体を通り過ぎ、白み始めた空は淡く星を照らした。
 十一月の終わり頃から始めたコンビニの深夜バイトも、少しずつ慣れてきた。

「今、五時か。ちょっとは、寝れるかぁ」

 ただ慣れたといっても、仕事に慣れてきただけで、決して体力的に慣れてきたワケではない。出来るだけ急いで帰りたいのに、意思に反して歩幅は緩やかで、まるで季節の疲れを重ねるごとに重くなるようだった。

--------なに、なんか予定でもあんのかよ

「……寛木君に、バレないようにしないと」

 店の為にバイトをしてるのがバレたら、きっと彼は怒る。怒って、そして自分の事を責めるだろう。自分のやってきた事が間違っていた、と。まだまだやりようがあったのに、考えが足りなかったのだ、と。

「寛木君のせいじゃないよ。全部、俺のせい」

 でも、彼はそういう子だ。責任感の強い、ウソの吐けない、不器用な子で……とても良い子だ。
 寛木君は、俺の「金平亭はまだ間に合うか」という問いに対してこういった。

--------爺ちゃんに感謝しなよ。土地と店を受け継げてなかったら、多分無理だったろうから。

「……凄いなぁ。寛木君は。店の収支なんて一回も見せた事ないのに、なんでそんな事が分かるんだろ」

 そう、あの店。喫茶金平亭が、俺が爺ちゃんから受け継いで得た店なら、今頃はこんなバイトなどせずに済んだだろう。きっと、赤字も少しずつ減っていったに違いない。しかし、現に、今の金平亭はそうはなっていない。

「爺ちゃん、なんで売っちゃったんだよ。金平亭」

 金平亭の前で、俺はボソリと呟いた。
 もう自分のアパートに帰る程の時間は残っていない。最近はもうずっと店で寝泊まりを繰り返している。

「……なんで」

 俺はあの頃となんら変わらない店の外観を見つめながらボソリと呟く。
 鍵穴に鍵を通し、扉を開ける。その瞬間、フワリと香ってきたコーヒー豆の匂いに、俺は静かに目を閉じた。

「良い匂いだなぁ」

 このコーヒーの香りで満たされた店内も、あの頃のままだ。でも、この店に爺ちゃんは居ない。店の中も、あの頃とは全然違う。

--------いいか、キリ。お前は店を継ごうなんて思うなよ。この店はもう終わりだ。

 店の中に一歩足を踏み入れた瞬間、爺ちゃんの声が遠くに聞こえた気がした。
 そう、この店は爺ちゃんから引き継いだ店なんかじゃない。爺ちゃんは自分に病気が見つかった時、すぐに店を引き払う準備を始めた。

 俺が、大学四年の頃の話だ。
 コツコツと、店の中を歩く。見れば見るほど、あの頃とは何もかもが異なる店内。寛木君と俺で、大きく変わった。

「ほんとは、ここも、あそこも……本棚があったのに。俺、全部好きだったのになぁ」

 それなのに、爺ちゃんは一冊残らず処分した。図書館になんて置いてなさそうな古い本があるかと思いきや、その隣には新しい雑誌が並んでいるような、そんな、まとまりのない本棚だった。でも、それが爺ちゃんらしくて、俺は学校をサボってはここで本を読むのが大好きだった。

 でも、その全てを、爺ちゃんはアッサリと廃棄した。

「橘さんも、最初来た時ガッカリしてたよ。昔とは変わちゃったなぁって」

 俺よりも十歳以上年上の彼もまた、学生時代に金平亭で過ごした日々を懐かしそうに語っていた。時代も記憶も別のモノなのに、場所が同じというだけで懐かしさを共有できたあの瞬間は、とても嬉しかった。

「でも、今の俺の店もいいじゃんって褒めてくれたよ」

 リップサービスなのは丸分かりだったけど。だって、記憶にある金平亭に勝てるワケがない。俺だってそうだ。

「爺ちゃん……店をやるって大変だね」

 今なら分かる。爺ちゃんが俺に店なんか持つなと言った意味が。俺なんかには到底無理だと爺ちゃんは分かっていたのだ。
 でも、あの時の俺は爺ちゃんの言葉の意味なんてまるで分かってなくて。だから、コージーと大人になって再会したとき、これはチャンスだって思った。

--------なぁ、コージー。一緒に金平亭、作ってみないか?

 コージーは高校時代、金平亭で知り合った友達だ。お互い、学校に居場所が無くて、気付けば毎日店で会うようになっていた。話も合って、ともかく一緒に居るのが楽で。コージーとは一生付き合える友達だと、俺は思っていたのに。

「……失敗した」

--------おい、霧!別にこだわるなって言ってるんじゃない!こだわりは売上を上げてからだって言ってるんだ!このままじゃ、金平亭はダメになるぞ!

 コージーはいつも数字を見ていた。でも、数字の事しか言わないコージーに、俺は正直ガッカリだった。コージーの言う、なんだか小手先の営業方法や宣伝みたいなのが、凄くダサく見えて。そういうの、爺ちゃんの店っぽくないって思って。

 俺は爺ちゃんみたいに美味しいコーヒーと金平亭さえあれば、客は来てくれるって思っていたのだ。

「ごめん、コージー」

 コージーは間違ってなかった。むしろ、俺が無視して目を背けていたところを、コージーがいつも代わりに見てくれていたのに。
 爺ちゃんみたいに、自分の店を持つのが夢だった。自分が自由でいられる場所が欲しかった。

33

「でも、お金がないと……夢は続けられない」

 当たり前の事だったのに。
 毎月膨れ上がる赤字の収支は、どう考えても売り上げに対する家賃割合の多さからきていた。寛木君が言っていた。飲食店が潰れる一番の原因は「固定費」が支払えなくなる事だって。例に漏れず、金平亭もその状況だ。

「爺ちゃん。俺、店終わらせたくないよ」

 一人の店で、頭もボウッとする中で吐き出した言葉は、どうしようもないほど空虚だった。俺が最初からコージーの言う事を聞いて、格好なんかつけなかったらここまで酷くならなかっただろうに。でも、何度後悔してももう遅い。

--------もう、ここはあの頃の金平亭じゃねぇよ。俺は、もう抜ける。

 そう言って背を向けるコージーに、俺は何も言えなかった。でも、一番ショックだったのは、コージーが出ていった事より「あの頃の金平亭じゃない」と真正面から言われた事だった。言い返してやりたかったけど、でも、それは無理だった。だって、俺もそう思っていたから。

「……でもさ、爺ちゃん。俺にもちゃんとお客さんが付いたんだ」

 ハーッと息を吐くと、暖房も何もついていないせいで室内にも関わらず白い息が空を舞う。

「田尻さんも寛木君も、卒業した後も店に来たいって。寛木君なんか、最近全然帰ろうとしないんだよ」

 まぁ、従業員を〝客〟に換算するのはどうかと思うけれど。
 でも、いいじゃないか。職場なんて、本当なら時間がきたら「お疲れ様でした」って言って背中を向ける場所だろうに。そうしないって事は、あの店は彼らにとって居心地の良い空間になれているという事だ。

「寛木君も、俺のコーヒー好きって言ってくれるようになったし」

 特に、ここ数カ月で寛木君と凄く仲良くなれた気がする。最初は「紅茶派」なんて言ってたくせに、今では何かにつけて「コーヒー淹れてよ」って言ってくるほどだ。

「好きってさ、もちろんコーヒーの事だって分かってるけど、いちいちドキドキするんだよなぁ」

 そう、俺はバカだから勘違いしそうになる。最近は、寛木君が俺の事を好きなんじゃないかって。出会った頃みたいな勘違いをして、ふとした拍子に浮かれてしまっている。

--------好きだよ。

 冷え切った店内の中で、ジワリと頬が熱くなるのを感じた。

「まさか、男の子を好きになるなんて。しかも、アルバイトの大学生をだよ。なんかもう、自分がイヤになるよ」

 来年の三月には、寛木君も社会人だ。店に来たいって言ってくれているけど、きっとすぐにそんな暇は無くなるのだろう。
「いつでもおいで」と、俺は言った。でも、本当はそうじゃない。

「いつも居て欲しいよ」

 まったく、何をバカな事を言っているんだろう。
 眠気と疲労で瞼が重くなってきた。そろそろ、休憩室で仮眠を取らなければ。今眠れば、きっと三時間くらいは眠れるはずだ。寛木君が来る前には、店の準備を済ませておきたい。

--------いいか、キリ。

 ぼんやりする視界の端に、爺ちゃんの姿が見えた気がした。いよいよ、疲れて頭がおかしくなったらしい。
 カウンターの一番左端。いつも爺ちゃんはあそこで、本を読んでいた。お客さんが来ても何も言わず。視線だけで出迎える。

--------商いを始めた以上、商いを終わらせるのも店主の勤めだ。だから、これは爺ちゃんの仕事だ。他のヤツには任せられん。もちろん、お前にさせるわけにはいかん。

 そう言って、何十年もかけて集めてきた本や食器を処分していく爺ちゃんの横顔は、いつも以上に無表情だった。俺がいくら泣いて止めても、爺ちゃんの手は止まらなかった。

「商いを終わらせるのも、店主の勤め、か」

 始めるよりも、終わらせる事の方が何倍も難しい事を、爺ちゃんは分かっていた。だから、俺に「店なんか持つな」と言ったのだ。

「……大丈夫、出来るよ。俺」

 俺は爺ちゃんのいつも座っていた席にソロリと腰かけると、そのまま静かに目を閉じた。

◇◆◇

 その日、俺は夢を見た。
 久しぶりに爺ちゃんの夢。よく分からないけど、俺は爺ちゃんの前で大泣きしていた。爺ちゃんが懐かしかったのか、それとも金平亭を続けられない事が辛いのか。夢だから、よく分からない。

 そんな俺に、爺ちゃんはいつもみたいに言った。

『キリ、お前はまた泣いとるのか。この泣き黒子が泣き虫を連れてくるのか?』

 爺ちゃん、俺。大人になってもまだ泣き黒子、取れてないや。

34

「おいっ!なにこんな所で寝てんだよっ!」
「っ!」

 目を開けた瞬間。目の前に綺麗な男の子の顔があった。同時に、フワリと、コーヒーの濃い香りが、鼻孔をくすぐる。あぁ、良い匂いだ。

「……く、つろぎ君?」
「そうだよ。なに、寝ぼけてんの?ってか、なんでこんな場所で寝てんだよ。風邪ひくぞ」
「えっと……」

 寝起きの霧のかかったような思考が少しずつ晴れていく。そうだ、俺は仮眠を取ろうと思って店に戻ってきて、いつの間にかカウンターで寝てしまったのだ。
 時計を見れば、時刻は八時を過ぎていた。寛木君がいつも来る時間と比べると、少し早い気がする。

 と、未だにぬるま湯に浸ったような頭で現状を把握していると、こちらを見ていた寛木君が、怪訝そうな顔で俺を見ていた。

「マスター。アンタ、もしかして泣いた?」
「あ、え……?」
「目が赤い。涙の痕もある……何があったの?」

 言葉も表情もいつもより酷く厳し気だ。それに対し、俺はと言えば涙の痕と言われ、思わず目元に触れた。まぁ、触っても涙の痕なんてわかりはしなかったが「泣いていた」と言われれば、なんだかスルリと納得できた。

「えっと」
「顔色も悪い。昨日様子が変だったから少し早く店に来てみれば、こんな寒い場所で寝てるし」

 寛木君の手が俺の目元のある一点に触れる。あぁ、そこは俺の〝アレ〟があるところだ。

「何があった。言えよ。誰かと会ってたんだろ?」
「え、いや」

 いつからだったか分からないが、俺は気付いた。寛木君は、何かにつけて俺の泣き黒子を目で追っている、と。あとはよく触ってくる。今もそうだ。冷え切った体に、寛木君の温もりを帯びた手がジワリと染み渡る。

「もしかして、コージーってやつ?」
「あ、え?なんで……」
「俺とミハルちゃんが来年の三月で居なくなるから、ヨリでも戻そうって?」

 なんで、寛木君がコージーの事を知ってるのだろう。いや、むしろなんでこのタイミングでコージーの名前が出てくるのか。それに、なんで寛木君はこんなに怒っているのだろう。分からない。何も分からないが、寛木君が俺の目元を撫でる手だけは、酷く優しくて妙に胸がドキドキして仕方がなかった。

「っは、お生憎様。起業ってのは一度上手くいかなかった相手とは、後から何をしたって上手くいかないんだよ。悪い事は言わない。やめときな」
「……あ、えっと」
「っていうか、もう断られた後か。泣いてるのもそのせい?アンタってほんとに何やらせても間違うね。いい加減にしろよ。少し考えたら分かるだろ」

 いや、全然分からない。分からないけど、ともかく俺は、物凄く怒られている。理由はイマイチよく分からないが、多分俺が悪いのだろう。俺はバカだし、よく勘違いを起こすし。ともかく甘いらしいから。ちゃんと反省しないと。

「おい、聞いてんのかよ!」

 ただ、やっぱり目元を撫でる寛木君の手が気持ち良くて、彼の言葉はちっとも俺の頭の中に響かなかった。ともかく、気持ちがいい。
 俺は寛木君の言葉の意味を理解するのを諦めると、その気持ち良さに従って彼の手にすり寄るように頬を寄せた。気持ちが良くて、思わず目を閉じてしまう。あぁ、まだ少し寝たりない。

「きもちい」
「ぁ、ちょっ……!」
「あったかいなぁ」

--------おれ、おとなになったらこのホクロ取る!コレ取ったら泣き虫じゃなくなるんだ!

 幼い頃の俺の声が、どこか遠くに聞こえた。でも、あの頃の俺に言いたい。

「取らなくてよかった」
「……は?」
「寛木君が好きでいてくれるなら、泣き虫でもいいや」
「っ!」

 大人のくせに、みっともないけどね。うっすらと開いたぼんやりとした視界の先には、真っ赤な顔でこちらを見つめる寛木君の姿があった。

35

「爺ちゃんの夢見て泣くとか……どんだけガキなんだよ!」
「あはは。ごめん、ちょっと懐かしくて」

 俺はコーヒーを片手に呆れたような表情でこちらを見てくる寛木君に、後ろ手に頭を掻く事しか出来なかった。
 青山霧。今年で二十七歳。祖父の夢を見て、本気で泣いてしまう。とんだ泣き虫野郎である。

「ったく、心配して損した」

 あの後、徐々に意識のハッキリした俺は、自分がとんでもない事をしてしまっている事にようやく気付いた。気付いたものの、やってしまったものはもう遅い。アルバイト先の、しかも学生相手に想いを寄せている事自体がアウトなのに、本当に俺はバカだ。

「心配かけてごめんね」
「まぁ、別にいいけどさ」

 でも、幸いな事にそのことを寛木君からアレコレ突っ込まれる事はなかった。まぁ、正直な子ではあるが、根は優しい子なので敢えて触れてこないでくれているに違いない。

「でも、まさか寛木君からコージーの名前が出てくるとは思わなかったよ」
「……」
「田尻さんから聞いた?」

 俺からの問いに、寛木君はフイと視線を逸らすと小さく頷いた。その横顔は、どうも拗ねているように見えてとても可愛く見える。顔は綺麗で格好良いのに、そんな風に思うのがとても不思議だ。

「コージーねぇ。もう連絡先も分からないから、連絡したくても出来ないんだよ」
「……何それ、連絡したいわけ?」
「いや、全然」

 寛木君の問いに俺は即答した。俺は、今更コージーと金平亭をやりたいなんて欠片も思っていない。

「今時間を巻き戻せたとしても、俺はコージーとは上手くいかない自信があるね。多分、向こうも同じだと思う」
「へぇ」

 すると、俺の答えが意外だったのか、寛木君が目を瞬かせながらこちらを見てきた。心なしか言葉から先ほどまでの棘が消えた気がする。

「なんで。仲、良かったんじゃないの?」
「良かったよ。店やる前まではね。でも、寛木君の言う通り〝友達〟と起業なんかするもんじゃないよ。あれは大正解」

 俺は先ほど淹れたばかりのブレンドを口に含むと、深く息を吸い込んだ。コーヒーは良い。高ぶった気持ちを落ち着けてくれる。クリスマス用に作った深煎りのブレンドはほろ苦い割に、後味を引かない。これだと、コーヒーが苦手な人にも飲んでもらえそうだと考えて作ったブレンドだ。
 あぁ、やっぱりコーヒーは良い。

「確かにコージーが経営の事とか売上の事とか色々やってくれてたから、店が回ってたワケなんだけどさ……でも、今更会って『ほれみた事か』みたいな顔されるのも嫌だし」
「……まぁ、言われるだろうね」
「うん、だからイヤ」

 うん、想像しただけで腹が立つ。「ほら、俺の言う通りにしないからそうなるんだ」ってこれみよがしに言う姿が想像できる。

「それに、何よりさ」

 でも、きっと俺が今コージーを連れ戻しても、多分俺はまたコージーと喧嘩しそうな気がする。だって――。

「コージーって、炭酸のジュースしか飲まないんだよね」
「は?」

 そう、そうなのだ。コージーはコーヒーが飲めないどころか、炭酸飲料しか飲まないヤツなのだ。そんな俺の言葉に、寛木君の薄い色素の瞳が、大きく見開かれる。

「いや、別にいいんだよ!?何が好きでも!他人の嗜好にどうこういうつもりもないんだけど。でも、なんかさぁ……なんか!そういうヤツに、道具の事とか『そんなん何だっていいだろ』とか『豆なんてどこのも同じだろ』とか言われると……なんっか!正しい事言われてても言う事聞きたくないっていうかっ!単純に、ムカつくんだよね!?」

 これはもう完全に感情の問題だ。何が正しいとか正しくないとかではない。そういうモンなのだ。
 俺は机を勢いよく叩きながら寛木君の方に軽く身を乗り出した。

「コージーとは友達止まりにしとくべきだった。友達だったら、アイツが何飲もうが俺はどうでも良かったのに」
「友達止まりって……言い方。まぁ、別にいいけど」

 俺の言葉にどこか疲れたように肩をすくめる寛木君は、俺の淹れたコーヒーに口を付けた。その瞬間、表情がうっすらと柔らかくなったように見えたのは、俺の都合の良い勘違いではないと思いたい。

「だから、別に二人が居なくなったからってコージーに連絡しようなんてサラサラ思ってないよ」
「……ならいいけど」

 カツンと寛木君がコーヒーをテーブルに置く音が響く。俺は寛木君がコーヒーを飲む姿が好きだ。優雅で綺麗で、俺のコーヒーまで特別な何かに見えてくるから。

「あーぁ。最初から寛木君とやってたらよかったなぁ。金平亭」
「っは、面白い事言うね」
「本当だよ。寛木君の言う事なら、なんか俺。素直に聞けるし」
「コーヒーが飲めるから?」
「そんな事言ったら、最初は寛木君だって紅茶派だって言ってたじゃん」
「……じゃあ、なんで?」

 そう、微かに首を傾げながら問いかけてくる寛木君に、俺は思わず目を逸らした。やっぱりダメだ。変に意識してしまうと、恥ずかしくて顔が見れない。

「えっと……」
--------俺は別にマスターなんか好きじゃねぇし。つか、タイプから全外れだし。

 無駄で不毛な気持ちを、わざわざ抱きたくはなかった。でも、仕方ないじゃないか。好きになっても仕方ないくらい、俺は寛木君に良くしてもらった。思い出を共有しているワケでもないのに、同じくらいこの店を大事にしてもらった。

 だから言ったのに。寛木君は変な勘違いをされそうだから気を付けてね、って。

 この子はその辺を全然分かっていない。

36

「寛木君が、ウソを吐かない良い子だからだよ。キミの言葉にはウソがないのを分かってるから、俺はキミを信じて色々やってこれた」
「……そんな事を言うのはアンタだけだよ」
「じゃあ、皆が分かってないだけだね。でも、大丈夫。社会には色々な人が居るから。きっと分かってくれる人もいるよ。ミハルちゃんもそう」

 コーヒーカップの縁をなぞりながら、俺は恥ずかしいのを必死に我慢して寛木君の目を見た。俺は、今どんな顔をしているのだろう。きっと、変に顔は赤くて、耳なんかは真っ赤かもしれない。

「寛木君」
「……マスター?」

 好きな人の目を見るって、恥ずかしい。でも、幸せだ。

「君達なら、絶対に大丈夫。きっと上手くいくよ」

 俺はダメだったけど。
 と、心の中で付け加えた言葉は、もちろん口を吐いて出る事はなかった。

「え、なに。急に」
「ううん、急にそう思っただけ」

 そうだ。こんな事、わざわざ言う必要なんてない。だって俺の失敗と、寛木君は何も関係ないのだから。
 この店の責任は、全部俺にある。

「ねぇ、寛木君!今年の最終営業日、早めに店を締めるからさ。ミハルちゃんと三人で忘年会しない?」
「まぁ、いいけど」
「じゃあ、田尻さんが来たら予定が空いてるか聞いてみよ!まぁ、忘年会といっても店でコーヒーとかお菓子食べるだけだけど」
「ミハルちゃんは未成年だしね。そんくらいが妥当でしょ。まぁ、酒が要るなら、俺が買ってきてあげるけど?仕事納めだし、マスターも少しくらい飲んでいいんじゃない」

 寛木君の提案に、俺は「あーー」と言葉を濁した。
 なにせ、俺は酒が弱い。ちょっとやそっとじゃなく、かなり弱い。少し飲むだけでも、急に泣きだして情緒がおかしくなってしまうらしい。しかも、「らしい」という事からも察せられるように、記憶も残らない。

「えっと」
「なに?どうしたの?」

 だから、コージーからは絶対に外ではアルコールは飲むなと言われてる、なんて言ったらバカにされるだろうか。そこまで思って、俺は思わず噴き出した。

「っふふ、いや。俺、酒飲むと変になっちゃうらしいから、お酒はいいかな」

 寛木君には今更じゃないか。彼の前で、俺はどれだけ無様な泣き顔を晒してきただろう。

「変って……なに、どうなんの?」
「えっと、なんか。すごく泣くらしい」
「なんだ、いつもの事じゃん」
「寛木君の前ではね」

 俺の言葉に、寛木君の眉がヒクリと動いた。
 でも、ミハルちゃんが居るんだったら、あんまり無様な所は見せられない。というか、見せたくない。泣いてるのがバレていても、やっぱりそこは女の子相手だ。俺も小さいながらもプライドってヤツがある。

「だから、お酒はナシで。あ、寛木君が飲みたいのがあったら持っておいで。せっかくの仕事納めなんだから。無理してコーヒー飲まなくてもいいからね」

 年末。仕事納め。
 この金平亭をしっかりと納め切るのにこれ程良い機会はないに違いない。

「ねぇ、マスター」
「ん?」
「もし、ミハルちゃんがその日が無理って言ったら、どうする?」

 寛木君からのサラリとした、でもどこか真剣な問いかけに、俺はジワリと頬に残った熱を感じつつ思案した。田尻さんが、もしダメだったら、その時は――。

「ふ、二人でもいい?」

 その時はナシにしようとか、じゃあ新年会にしない?とか。
 そういう一介の雇い主としての理性的な意見はどこへやら。自分の口から漏れた欲望まみれの図々しい提案に、羞恥心の波が一気に押し寄せてきた。

「あ、いやっ。あの全然、これは絶対のヤツじゃないのでっ!別にしなくても、いいやつだから!だから、その……!」

--------なんで、俺がマスターと二人で忘年会なんてしなきゃならないのさ。

 なんて、一瞬のうちにリアルに生成された返事に、喉の奥がヒュッと音を鳴らす。そんな、ネガティブな想像に、俺が寛木君から目を逸らそうとした時だ。

「いいよ、その時は二人でやろ」
「っ!」

 顔を上げた先には、顔だけでなく耳を赤く染める寛木君の姿があった。

「二人の時は、酒も買ってくるから。少しくらい飲めば」
「ぁ、えっと、でも。俺」
「別に、俺はマスターの泣き顔なんて見慣れてるから、今更でしょ」
「……う、うん」

 揶揄うような口調なのに、どこか優しい。それに、寛木君の声もどこか弾んで聞こえるのは気のせいだろうか。

「じゃ、決まり。二人だったら、酒も持って行くから」

 あぁ、勘違いするな。俺。
 寛木君が好きなのは、俺じゃなくて金平亭だ。俺じゃなくて、俺の淹れるコーヒーだ。彼が必要としているのは、自由でいられるこの場所だ。

 でも、それでもいい。

「うん、じゃあ、その時は二人忘年会しようか」

 クリスマスに年末年始に、ともかく人の心がザワつくこの季節。少しくらい、浮かれる周囲に調子を合わせるのも許されてしかるべきだろう。

37

「忘年会ですか、わーい!やるやるー!」

 結局、忘年会については、ミハルちゃんから二つ返事でオッケーをもらう事が出来た。無邪気に「わーい、忘年会だー!」と嬉しそうに飛び跳ねる彼女に、ほんの少し残念な気持ちになった事は、大袈裟かもしれないが墓場まで持っていこうと心から誓った。

「あの、寛木君。明日は、お酒はナシね」
「……分かってるし」

 その時、チラリと見た寛木君も少しばかり残念そうに見えたのは、完全に俺の目の錯覚に違いない。こういう自分に都合よく物事をみる癖は、早めに直したい。だって、正直期待するだけ後からガッカリするのは自分なのだから。
 まぁ、それは来年の抱負にでもしよう。

◇◆◇

 そして、忘年会の日。
 忘年会といっても、いつものように俺の淹れたコーヒーで軽食を食べるだけの日だったが、それはそれで十分楽しかった。
 寛木君と二人がいいなんて微かに思っていたあの気持ちが欠片も無くなるくらいには、盛り上がった。三人でこんな風に過ごすのは久しぶりで、むしろ良かったと思えるくらいだった。

 本当に良い仕事納めだった。

「はーー、楽しかったー!三人でゆっくりお喋りするなんて久しぶりー」
「そだね。店の閉店時間ズラしてから、ミハルちゃんとはあんまり喋れてなかったからねぇ」
「そうですよー!いっつも私だけ先に帰れ帰れって!今日だって、ほんとはゆうが君に気を遣って不参加にしようと思ったけど、でもやっぱり私もサミシーから参加したかったの!」
「……はい、黙れー?」

 盛り上がる二人の隣で、俺は店に鍵をかける。今日で、正真正銘金平亭の仕事納めだ。カチャリと深く締まる鍵音に、俺は静かに息を吐いた。
 今日一日、いつも通りお客さんを出迎える事が出来た。同じくどこの会社も最終日の所が多かったせいか、いつもより早い時間に常連のお客さんも来てくれて。

--------マスター、良いお年を。

 そう会計の時に言ってもらえた事が、俺にとってどれだけ嬉しかったか。その言葉は、彼らの生活の一部に、店が根付けている証だと思えたから。
 本当に、良い一日だった。

「二人共、お正月休みは少し多めにとってるから、しっかり休んでね」
「はーい!」
「ねぇ、思ったんだけどちょっと長すぎじゃない?」

 寛木君の少しばかり不満を帯びた声が、鍵を閉める俺の背中に投げかけられる。これは正月休みを告げた時から、ずっと言われていた事だ。
 確かに正月休みにしては長い時間を、俺は二人に伝えている。

「まぁ、今回はちょっとね。俺も実家に帰る用があるし」
「……分かってると思うけど、閉めた分だけ売上は下がるからね」
「うん、わかってる。寛木君、心配してくれてありがとね」

 俺の言葉に「まぁ、分かってんならいいけど」と、未だに納得のいかなそうな言葉を口にする寛木君に、田尻さんがいつもの調子で軽く入ってきた。

「ゆうが君は、ますたーと会えないのがサミシーんだよねー」
「はぁ!?いや、別にちげーし!売上の心配してるだけだし!」
「そうなんですか?私は二人と会えないの……すごいさみしい」
「……このタイミングで、その素直さ発揮すんのズル過ぎだろ」
「別にズルくないもん。私はホントの事しか言わないもん」
「この無邪気ドSが」

 まるで本当の兄妹のように肩をつつき合う二人が、なんだか羨ましく見えた。いや、ミハルちゃんに嫉妬しているとかではない。むしろ二人の仲が良い事が嬉しくて仕方がないのだ。なにせ、この二人は俺の作った金平亭で巡り会ってくれたのだから。

「……」

 こういう友達に、終わりはない。
 金平亭が無くなっても、遠くに離れても。俺だって、コージーとまた再び会う事があれば、一気に友達に戻れる自信がある。そういうモノだ。
 ただ、もう一緒に起業はしないだけの話。

「ねぇ、寛木君」
「なに、どうしたの。マスター」

 でも、俺と彼は違う。
 恋には終わりがくる。ましてや、俺のような雇い主と従業員という関係性なら尚の事だ。金平亭が無くなったら、全てが終わる。そういう関係だ。

「店の事は、もうあんまり心配いらないから。ゆっくりお正月は休みな。俺が言うのもなんだけど、君は働き過ぎだよ」
「っは。アンタの大丈夫はマジで信用できないんだよ。すぐ調子に乗って勘違いするし。色々考えが甘過ぎ」
「……はは。そうかも」

 すぐに調子に乗って勘違いする、という寛木君の言葉と共に、冷たい冷気が鼻の奥を刺した。

--------ナイナイ!マスターだけはあり得ねぇわ!

 ヤバイ、寒くて涙が出そうだ。そう、俺はおめでたいヤツだからすぐに勘違いしそうになる。でも、その度に寛木君の言葉が現実に引き戻してくれてきた。
 店の事も、この気持ちの事も。全ての夢は「現実」を見るところから始まるのだと教えてくれた。

「でも、大丈夫。俺、ちゃんと全部分かってるから。今度は勘違いしてない」
「え」

 俺の言葉に、柔らかかった寛木君の表情が微かに強張った気がした。どうしたのだろう。俺は、今どんな顔をしているのか。自分でも、よく分からない。

「田尻さん、今年はダンスも忙しいのにバイトもいっぱい入ってくれてありがとうね」
「いーえ!もう少しでダンススクールの学費が貯まるので、むしろいっぱいシフト入れてくれて私はありがとーって思ってます!」
「学費は貯まりそう?」
「はい!でも、三月までギリギリ働いてやっと貯まる計算なので、来年もいっぱいシフト入れてください!」
「ん、わかった」

 にこーっと機嫌良く笑う彼女が、将来自分の目標と夢である舞台に立てるように心から願う。この子も、最初は少し腹を立てただけで「くたばれ!」と客に食ってかかっていたが、最近ではそういう事もなくなった。三年間という時間が彼女の忍耐力を成長させたのか、それとも単にお客さんの質の問題なのか。
 前者だという事にしておきたいところだ。

「じゃ、寛木君。田尻さんの事、駅までよろしくね」
「……それは、別にいいけど」

 未だに訝し気な目線を寄越してくる寛木君に、俺は何気なさを装って、今日一番言わなければならない事を言った。

「あ、そうそう。店の鍵。返してもらってもいいかな?」
「は?なんでだよ」

 ヒクと、寛木君の強張った表情が更に固くなった。そんな彼に、俺はフッと表情を緩め出来るだけ自然に見えるような笑顔を浮かべてみせる。上手く、出来ているだろうか。

「ちょっと、スペアの鍵を失くしちゃって。早めに鍵を付け替えようと思うから、もう古いのは回収しとこうと思って」
「……失くした?」
「そう、ちょっとうっかりしてて。すぐ作り直してもらう予定だから、新しい鍵が出来たら寛木君にも渡すようにするね。だから」

 返して。
 そう、俺が差し出した手に、寛木君の視線がジッと向けられる。何故かその視線はせわしなく揺れており、口元も震えていた。
 寛木君や田尻さんは本当に良い子だ。ウソが苦手で、不器用で。でも、だからこそ真っすぐで強いのだ。でも、俺は違う。

「新しく作ったら、すぐに寛木君にもあげるから。ね?」
「……わかった」

 俺はバカで、とんだ勘違い野郎だけど。俺は〝大人〟だ。
 平気で、ウソを吐ける。

「ん、ありがとう」
「……」

 掌に乗せられた鍵は、俺が渡した時に付けていたグアテマラのコーヒー豆のキーホルダーがそのまま付いていた。
 それをポケットに仕舞い込むと、今度こそ二人に対してしっかりと向き直った。

「今年一年、本当にお世話になりました。店が今日までやってこられたのは、二人のお陰です。お給料、上げてあげられなくてごめんね」
「あ、いや。別に……」
「私も楽しかったから大丈夫ですー!むしろ、私はもう一回お店の改装したいくらいです!」
「いや、さすがに二回も改装はいいかな」

 田尻さんの元気な言葉に、俺は苦笑するしかなかった。残暑の厳しい中、店内改装をしたアレが、どうやら田尻さんの中では一番楽しい思い出だったようだ。確かに、あの時の田尻さんは俺達の中で誰よりも張り切っていた。俺と寛木君なんて、暑くて何度休憩を挟んだかもわからないというのに。

「ねぇ?寛木君?」
「あ、まぁ……うん」

 俺からの問いかけに、じわりと居心地の悪そうな表情で答える彼に、俺はポケットの中の合鍵をギュッと握りしめた。

「じゃあ、二人共。また来年ね」
「はーい!また来年!」
「……うん」

 元気な田尻さんの声に反して、戸惑いを帯びた寛木君の声が聞こえる。どうやら、俺のウソも捨てたもんじゃないらしい。

「二人共、じゃあね」

 俺はそれだけ言うと、クルリと二人に背を向けて歩き始めた。手はポケットに突っ込んで、出来るだけ足早に歩く。早くしないと、バイトの時間に間に合わなくなる。いや、うそ。時間にはまだ十分余裕がある。

「っはぁ、っはぁ」

 でも、何故かジッとしていられなくて軽く走り出した。口から漏れる息が、口の周りの空気を白く染める。刺すように冷たい冬の空気が、先ほどからツンと俺の鼻の奥を攻撃してくる。

「っはぁ。っは……っぁ」

 歪む視界に、せわしなく動かしていた足をピタリと止める。もう、俺の視界は分厚く張った水分のせいで、今や何もまともに映し出してはくれなかった。ポケットに突っ込んだ手は、先ほど寛木君から返してもらった金平亭の鍵を、ギュッと握り締めている。

「……あーぁ。終わったぁ」

 十二月二十九日。
 俺の夢を詰め込んだ自由のお城、喫茶金平亭は、その日、二年と九カ月の営業に幕を下ろした。

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