無題05 VR、ないしはVRChatについてのふとした疑問。SNSでは文字数制限のためにつぶやききれないなにか(Ver. -E01-b)

(2023年2月23日初版投稿(Ver. -e01))
(2023年2月25日加筆アップデート(Ver. -E01-b))

そういえばVRChatの中で「ゲームの話」をしている人たちはわりとよく見かけるけれども、「VRゲームをプレイしているという話」をしている人物を見かけたことがない。

「VRやってて持ってるのにVRのゲームタイトルをプレイしないのか…」という点でなんだかちょっとふしぎ。な気がしてきた。

自分が「見かけたことがない」というだけで、どこかしらのワールドには「VRゲーム」のタイトルについて日々語りあっている人たちやコミニュティがあるのだろうか…?


「VRChatだけあればほかのゲームはいらない」という発言をたまに聞く。

VR機器メーカー公式のVR内ストアやゲーム配信プラットホーム内には(事実として)はるかに多くのバリエーションの「ゲーム」が存在しているわけだが、それらをくまなく見てからそういった発言をしているのだろうか?

各ストアのゲームやコンテンツをチェックしたうえで、(たとえばあまりやりたい系統のゲームタイトルがなかった等で)そういった発言、「VRChat内でできる範囲のものでじゅうぶん満足している」というのならばそれはそれでいいとは思うけれども…


「VRChat以外やらない」ということをさも自慢気に言っている場面もあるが、それって本当に「自慢」になるのだろうか?

「VRSNS以外のコンテンツをやったことがないし知らない」というのは言いかえれば「無知で経験値も浅い」ということでもあるような気もするのだけれど。

「自分は何も知らない」「経験値も浅い」ということってはたして人様に「自慢」できることなのだろうか?


VRフルボディトラッキング。確かにそれ自体はひとつの(VRの可能性の)最高到達点のひとつだとは思うし素直に「すごい」し、「いいなぁ。多少の無理や無茶をすればそれらに手が届く財力・収入があって…」とも思うけれども、せっかくそうやって大枚はたいて設置や準備に手間ひまをかけて「フルトラ化」してもやってることは
「あおむけにねっころがったままの体勢で、VR内の自身のアバターも同じくあおむけに寝た状態、もしくは見えないイスに座っているようなかっこうのままスーッとスライドするように移動する」
だけ。

中には「いや、こうやって寝たかっこうのままスライド移動するためのものでしょ」だとか「VRソーシャル空間内で寝るためでしょう」と言っている人物もいて、それはそれでなにかこう「せっかくのデバイスの可能性や有用性を活かせてないのではないだろうか?」「それって意味あるの?」と、冷静に、ふっと冷めた、俯瞰の視点で頭の上にマンガのふきだしかなにかのように疑問符が浮かぶ瞬間もあって…

しかもそれが「正義」としてまかり通っているような状態。というのも「なんだかちょっとふしぎなカルチャーだなぁ…」とはたからみていて感じることもある。

「ほかに(フルトラの)使い道が思いつかない」と言っていた人物も実際にいたが、「新しい、いままでにない、最高級のデバイスの使い道を考える"発想力や創造力の不足や欠如"」って本来そんな「他者に対して自慢できるようなこと」だっただろうか?

「なにも思いつきませんでした」って、ヒトとしては「能力が高い」「なにかの能力に秀でている」「人に自慢できる"なにかしら"を持ってる」ということとはともすれば真逆な気もするが…


なにかひとつの機器、デバイス、グッズがあったとして、その使い道や可能性を「模索」していこうって気がハナっからない?

そこまで「VR」というコンテンツや技術そのものに興味があるというワケでもない。ということなのだろうか…?


AR(MR)機器についても気になることがある。
機器のメーカーが正式に対応を謳っているスマホの機種があって、動作の相性も良く、本来機器が搭載している機能をフルに使えるのだから、最初からその「正式に対応している機種」を使ってみて「フルポテンシャルではどうなるのか?」などを試してみればいいのではないだろうか?と思うのだけれど、かたかくなに「正式対応しているものとは別のスマホ」を"信仰"し、メーカー公式非推奨のやりかたでごてごてごちゃごちゃと外部周辺機器をいくつもつないで「まともに動かない」「これしかできないの?ダメじゃん」などと言っているような人たち。

「彼ら彼女ら」はきっとおそらく「自身の"信仰"している特定のメーカーのスマホと言う名の宗教への信仰心を盤石なものにしたいがため」に、「信じているものが最先端で最高で完璧であると思いたいがために」わざと、あえてヘンな動作保証外の使い方をして「信仰対象よりもこのデバイスは劣っている」とか否定するポーズを取りたい。というだけで、本当の意味でAR・MRそのものや先端技術デバイスに興味があるわけでもないのかな?ともはたから見ていて感じる。

ふだんメインで使っていて好きなスマホのメーカーはこれだけど、AR(MR)を使うためにはこっちの規格のスマホがいるのか。じゃあこっちの規格のモノも買ってためしてみようか。というぐらいの柔軟さや気概?みたいなものもあってもいいような気がするが、そうではなく、そこまでやろうってほど真に「新しいもの」「今まで自分の中にあった既存の概念が音を立てて崩れ去るような未知の革新的なデバイス」に興味があるワケでもないのかなと。

それよりも「既存や流行への"信仰"」のほうが大事なのかな?と。自分の目にはそう映る。


特定のいわゆるIT・テクノロジー系機器やブランドが「道具」ではなく「宗教に」なってしまっているようなマインドのひとたちは、なんというか生きていくのが大変そうだなぁ。と思う…


「信仰心」や「感情」などがジャマをして、ものごとを冷静に俯瞰で、素直にとらえることができない、頭はいいのかもしれないけど、ある種「不器用な」ひとたちなのかもしれない。と。


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