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Plaudite, acta est fabula.

ここに来てから3ヶ月くらい経ったようで。転職も決まったし、じゃあこのレイジという名はどこへ行くのか。

と、そんな微量の疑問は置いてタイトルに触れてから長々と思考を書きなぐろう。

題名の言葉は昔の誰かの辞世の句だそうだ。
日本語に訳すと「拍手を。お芝居は終わりだ。」

この人生は喜劇か悲劇か。
どんな楽しく順風満帆に見える時間にも、決して語られることのない悲しみは何処かに存在すると思う。
人が喜ぶ時、また、悲しんでいる誰かは確かに存在するのだ。

先程我らがボス、松浦さんと野球の話になった。
ホームランが入った時、応援するチームならば狂喜乱舞。では相手はどう思うのだろうか。
そんなことに目が向く僕の頭。
関係ない人の事だ、野球が特段好きと言うわけでもないから、極端な話どうでもいい。

子どもの頃からプロを目指してずっと投げて打ち続けてきた。甲子園に向けて努力と研鑽を積み重ねたが叶わなかった。
結果、野球とは関係のない仕事でサラリーマンになった。
この人は、ちょっと野球が上手い会社員だ。
ではこの人生は悲劇か?

その会社で業績を上げ、愛せる人に出会い家庭を持ち、子どもと歩んで天寿を全うしたというエピソードがあれば喜劇である。

見えてるモノで価値を計るのは簡単なこと。
ただ一つ視点を、立ってる位置を下げて全体とは言わないが変えてみたとき、本当の意味で見えてくる隠された価値や物事がある気がして止まない。

次に自分の話になるが、僕は日曜の午前中に電車内で財布を盗まれた。
昔自分の尊敬する人を真似て買った、とあるブランドの財布だ。
その中には今は失ってしまった物のカケラや、幸せだとか最高と呼ぶに足る想い出の証拠が詰まっていたし、再起をかけて身をすり減らした全ての金銭が入っていた。
ちょうど入り用で金が出ていくから持ち運び、それが終わったら残りを貯金に回そうと画策していた時の出来事。
言うまでもなく悲劇だ。やってられない気持ちになる。
なくなった瞬間は本当に焦ったしこの世の終わりだと思いながら駅員に問い合わせ、交番に行き、日暮里駅からは歩いて家まで帰ってきた。

しかも真夏、照りつける太陽に体力はひたすら奪われて、たまたま見つけた公園の水道で水を浴びてる姿は側から見たら異様だし、多少惨めな気持ちにもなったが反面落ち着き払っている自分にも気付いた。
そんな絶望的な状況でも確かに足が向かう先があるわけで。こうやってエピソードを書いて出す先がある。
幸い色んな人が周りにいた。
住人達とも話した、人と人の繋がりは重要だと。
現に今、ここに存在している。歩いて考えて食べて寝て、助けられて生きている。
心の火を消すなと自分に言い聞かせよう。
絶望なんてもの約25年間に何度あったか。数えるのさえ無駄だ、それこそお笑いだと言い放とうか。

人生は面白い、悲劇的なまでに喜劇的なのだから。
手元に何も無いならまた集めればいい。

拍手を。人生の第二幕が始まる。

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