雑記(#240716)

ネットニュース

などでも話題に上がっているが、兵庫県の斎藤県知事が内部告発した県幹部を報復的に処分し、その結果として県幹部が死をもって抗議するという結果となってしまっている。客観的な目線から見ると、自殺を決断した当人にとっては、命の使い方として一花咲かせたかったのような、ある種の破滅的な行為のように見える。しかし当人の家族や周りの人間にとってはとても痛ましい事件であり、そこまでしなくては行けなかったのか?という感じさえ覚える。刹那的な手段に出ることなく、県の運営を変えるための建設的な発展に取り組めなかったとも思う。

かたや兵庫県知事の斎藤さんに目を向けると、彼に突き付けられた抗議の意を真面目に取り合うことなく、自分の権力を用いてハエでも払うかのように処罰してしまったわけである。そのうえで更なる抗議としての自死も叩きつけられたのにも関わらず、その事実を適切に受け入れられていないように思われる。副知事の涙ではないが、斎藤さんは政治家としてのターニングポイントに立たされていながら、適切な立ち振る舞いをすることができず、政治生命すら終わろうとしているのではないかと思う。少なくとも、自分の身を守ることが最も大事であることは、明らかとなってしまったわけであるから・・・

多少なりとも・・

権力者の立ち振る舞いというのは、部下にとって好ましくない、いや批判の対象となるのは当たり前である。自分のやっていることが行き過ぎているのか、あるいはセーフなラインなのか、自分では判断できないところがあり、ある意味、客観的なチェックの材料として部下がいるというものである。周りをイエスマンで固めてしまえば、仕事はやりやすいのかもしれないが、誰も批判をしなくなったら、それは組織運営としての危険信号であるとは思う。

大きな組織に存在していると、”自分の身を守ることが大切な人間”というのは、その人間の立ち振る舞いからだいたい分かってしまうものである、彼らは得てして部下から人気がないが、一定の実力を持っている場合、一定のポジションまで上り詰めることができるのだが、このように土壇場でうまく判断できないように思う。多少なりとも追い込まれた状況でも、守るべきものは自分のプライドなのだ、というのが如実に現れてしまうのである。

そのような自己の保身を最優先する人間であっても、他人を尊ぶという立場に変わっていくことができないのか?と言われたらそれは、変わることはできるとは思っている。ただし、ある程度の失敗を繰り返したうえで客観的に振り返らないとわからないのかもしれない・・・。それが何歳という年齢になるのかは、実年齢ではわからない人間の経験値というものによって左右されるだろう。

個人的な経験

を述べると、兵庫県知事戦(2021)は元加西市長の中川さんに投票した。結果は4番手で落選だったと思われる。いつも人気ない候補に入れてしまう・・・。当時当選前の斎藤さんの印象としては、大阪維新の会のバックアップを受けており、維新の一員かと思ったら、そうではなかったのが意外だったということがある。今振り返ると、大阪維新にどっぷりつかって政治を勉強した方がよかったのではないのだろうか?


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