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短歌をはじめたころの話(1)

ひとの書いたnoteの記事を読んでいると、短歌を作ったり投稿したりといったことのあとに、評をはじめてもらったことについて、作った本人がそのことについて書いたものを見ることがある。ははー、と思うことが多い。なので少し私の「短歌初学の頃」のような話を書いてみたくなった。それでちょっと書いてみることにする。四十年近く前の話である。

高校生の頃、学校から帰ってみると、青い封筒が届いていた。なんだろうと思って開けてみると、中に「玲瓏信」という現在の短歌誌「玲瓏」の前身となった小冊子が入っていた。既に手元にないからおぼろげな記憶を頼りにいまこれを書くわけだが、緑の紙に上品なレイアウトと未見の様々なリソースの印刷されている冊子だった。
その前に時期的なことももう忘れてしまったのだが、角川「短歌」の「公募短歌館」の塚本邦雄の選歌の欄に、葉書で短歌を投稿していたのだが、この時点ではまだその号は発売されてない。たぶんその関連でこうしたものを送ってこられたのだろうと思いはしたが、別に何か添え書きが入っていたわけではないので確認は出来ない。
しかもその「玲瓏信」には、角川の「公募短歌館」に掲載できなかったという歌が少なからず掲載されていてそれらは当時の私にも強い印象を与える、「美学」の勝った歌が多かった。今でも覚えているのは「カフカの『変身』読み続けゐる」という一首の下の句くらいなのだが、要するに「そういう歌」が多かった、ということである。
それを貰ってどうしたかというと、私はその封書の送り主の書肆季節社あてに、冊子に掲載されていた300円か何かの「塚本邦雄著書目録」というものを申し込み、「どこでうちの住所をお知りになったのですか」とか「塚本さんの歌集も買いたいのですが高価で買えません」とか馬鹿正直に書いて送ったのであった。
1980年前後の当時、塚本に限らずどこまで「歌集」という種類の本に自分が触れる機会があったのかというとこれはもうなんともいいようがない。
それからしばらくして、角川「短歌」の塚本選歌欄の掲載号が出て、特選六首の末尾に、自分の歌が掲載されていた。短い評もあった。掲載の号はもう手元にないが、当時この欄を注目して見ている人が少なからずあったことをそれからのち私はしばらくの間、知らされることになる。その時の掲載歌はこれなのだが、「あおき」は「あをき」に変えられていたと思う。「忘れむ」も「忘れん」だったかも知れない。いずれにせよ評を貰う前に封筒が来たというのが、私の「短歌初学」だったのだとは思う。

玉虫のあおき背みつつ「いつの日かおのれを飾ることを忘れむ」
歌集『四月の魚』 新装版 p97

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