見出し画像

日本は、Common Good(共通善)に基づく政治で機能するのか。

こんにちは。

今週は時間があるので、1日1記事を書きたいと思います。

先日同級生と話していた時に、これからの日本は共通善に基づく政治を行うべきという主張があったのでそれについて考えてみました。

ちなみに彼の主張はいいところはあるのですが、それを実現する方法は説明がないので、個人的に説明ができない主張は、受け入れるのが難しいなあと思います。

僕はどちらかというと有用なものは使おうというプラグマティズム的な発想なので、アカデミアによくある理想だけかがげて、あとよろしくという提案にあまり魅力を感じません笑。

批判をするなら、それを実現するための提案もしましょうよと思ってしまいます。

実務サイドにいるとどうしてもそうなってしまいますよね。

さて、共通善に基づいて日本が統治できるかという質問に対して、理想論としてはいいと思うのですが、先ほど述べた通り、僕は、日本でこれに基づく政治を行うことは結構懐疑的です。

というのも、コミュニタリズムの共通善の道徳的価値規範が日本にあるのかという疑問を持つからです。

おそらく三島由紀夫はこれを天皇に求めたのでしょう。

なるほど、天皇制であれば、利用できるでしょう。

また、超頭のいいかつ完璧な人間であれば、崇高な社会的価値規範を受け入れて社会はうまく回るでしょう。

しかしながら、現実は、少数の人による少数の人の利益のための価値規範が作られる可能性のほうが高いと思います。

実際、戦前を見れば、昭和天皇の意思とはかけ離れ、道徳的価値規範を政府や軍が乱用したことは明らかでしょう。

日本という閉鎖的な社会の中で一つの価値観に頼ることは、かなり危険な発想だと思います。

僕は個人の自由が好きです。なによりも個人の自由意思が尊重されるべきという立場です。

こうした共通善の主張するエリートの人は、理想的すぎるし、自分の価値観が正しいという思いが見え隠れしてしまうんですよね。(個人的な意見です)

理想論としては、誰もが自分の利益を考えず自発的に行動することが素晴らしいというのはわかるのですが、現実はそうはならないだろうと。

むしろ、その価値観からはみ出る人を排除するでしょと思ってしまいます。

なので、僕はどちらかというと主知主義的な立場です。三島に空っぽな日本人と言われたサイドかもしれません。

主意主義の方に反論をするとすれば、そんな完璧な人間がいるんですか?

人間はもっと弱くて醜い生き物で堕落が好きだからこそ、理性で何とか理想に近づいていくんですよと言います。

そもそも、前提としている人間像に違いがあるのかもしれません。

僕は人間はかなり不完全という前提ですが、主意主義の人は人間は完璧になりえて当然という発想な気がします。(違ったらすみません)

一方で、共通善に基づく政治にも期待はあります。

もう少し小さなコミュニティであれば、共通善に基づいて、自分なりの生き方を探すことも素晴らしいのではないかと思っています。

例えば、地域のお祭り、スポーツコミュニティなどは、地域独自のルールで行えばいいと思います。

そのコミュニティの歴史、伝統、文化がその人の幸せやアイデンティティを形作るという発想には賛成しています。

どちらがいいのかという二元論的に考えるのでなく、コミュニティの規模で選びましょうというあたりさわりのない結論となってしまいますね。

また、今後の可能性として、インターネットやテクノロジーの発展で、共通善の軌道修正がタイムリーに可能となれば、より大きなコミュニティでも共通善に基づく政治はうまく機能するかもしれませんね。

さらに、共通善の道徳については、宗教が入り乱れている日本のコンテクストはだれが決められるものではないので、一つに決めるのではなく、教育でいろいろな道徳観について話し合えばいいのではないでしょうか。

まとめると、共通善による政治には、

大きな組織での共通善による活動は反対。
小さな組織であれば、可能性は感じる。
道徳的規範は、日本では無理に決める必要がないので、長い目でいろいろ議論していけばいい。

今度会ったらその友達に、どうやって共通善に基づく社会システムを実装させていくのかを聞いてみたいと思います。

では。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?