2024.1.27に思ったこと
人の日記は見るものじゃないって親に言われたことがある。小学校の頃の話だ。別にいいじゃん、私だって作文ノート先生に見せてるしなんて思っていた。
実際、人の日記を見るのは楽しい。おばあちゃんの家の倉庫の奥の方にしまってあったいとこの日記。人の気持を覗き見ているみたいでワクワクした。日記を見たという事実さえ本人に知られなければ、その人へ影響することもない。変わるのは私がその人の日記を見たという私の記憶だけだと思った。自分の記憶が変わる分には何も問題はない。私は口が硬いから。相手がそれを知らなければ、事実上何も変わらない。
人に知られない範囲でいろんなものを物色していた。そんなある日、親の日記を見つけてしまった。私の部屋の本棚の下の引き出しに入っていたやつだ。親が統合を発症していたその時の日記。私はそうとは知らず、なんのためらいもなしに読んでしまった。
あの人のことだろうなって分かるイニシャルとともに、事実のようなものがたくさん。おぞましかった。
それ以来人の日記は見るものじゃないと思った。特に母の日記は触るのさえも怖くなった。
いまだに、それっぽいのは中も見たくない。たまにちらっと見えてしまったこともある。やはり、前と変わらず、自分のされた嫌なことを、私が見た客観的な事実とは違うふうに捉えて書き綴ってるようだった。
その人から見たらそれが現実なのだ。
きっと、私らもそういうことばかりなのだろう。どう足掻いても、歪んで捉えてしまう思考回路を少しは持ち合わせてるのかも知れない。自分は自分であり、客観視はできても別の人物になって自分の行動を自分ではない人としてみることは不可能だから。
これから社会に出るにあたって感情労働というものをしなくてはならなくなってしまった。だから、歪んだ認知というのは、できる限りなくしていきたいもの。まっすぐ物事を捉えたいな。ばいばい、歪んだ認知👋
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