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山口達也と非生産

※このコラムは2018/5/7に公開されたものですが、今回の公開にあたって結構加筆しています。


◆病院から職場へ通勤

 TOKIOのメンバー山口達也氏の事件、醜悪なハラスメントのデパートすぎてどの方向からも一切擁護できない。
 それを前提として、「病院」についての報道に衝撃を受けた。
 スーパースターが、病院からテレビ局に通って、テレビに出ていたなんて。もしかしたら芸能界ってそういうことが結構あるのかもしれない。でも初めて聞いた。

 5年前、私はバラエティ番組に出演した。芸能人と専門家がたくさん出る、お悩み相談の番組。(このコラムを公開当時「ホンマでっか!?TV」と推測してる人がいましたが、違くて、別の、もう既に放送されていない番組です)
 ディレクターの人が私の近所のファミレスまで来てくれて、2~3時間かけて打ち合わせした。当日が近づいてくると、私のキャッチフレーズは『毒親漫画家』に決まったと言われた。
 私は「毒親」という言葉は、親の言動に苦しみながら育ってきた子どもが、その苦しみを癒すために使用するものだと思ってる。だから『親自身が「私って毒親かしら?」と心配する』とか『あなたは毒親予備軍ですよと第三者が指摘する』とかの使われ方に違和感を感じていた。 
 だけど、確かにテレビに突然出てきた人をお茶の間に分かりやすく説明するには私のキャッチフレーズは「毒親漫画家」しかないな、とも思ったので了承した。

◆言いたくないことを大声で叫ぶ

 当日、収録の何時間も前の集合時間にテレビ局のだだっ広いロビーみたいな待合室へ行くと、雛壇系のお笑い芸人数人と、いつもこの番組で見る〝半分タレント〟みたいな専門家が大勢いて、お互いにものすごいテンションで挨拶し合っていた。この日は3時間スペシャルで出演者がいつもの3倍くらいいて、だから私も呼ばれたのだった。
 この番組で一番人気でむしろこの人でこの番組が成り立っていると言っていい専門家は堂々と女性スタッフとイチャイチャしていた。女性のほうもいつも通りな感じに見えて、周りも気にせずペチャクチャ元気に雑談している。付き合ってるとかにしても、妙齢の男女がこの状況でイチャイチャしてるのは異様に感じた。だけど、テレビで見ていると紳士的だがどこか怪しいやつだな、と思ってたので、不思議とそこまで驚きはなかった。
 スタッフの誘導で倉庫みたいなどでかいエレベーターに専門家全員でギューギュー詰めに乗って別の階に移動する時も、その専門家はその女性スタッフの腰に手を回して引き寄せ、尻を撫でた。さすがにギョッとした。
 メイクさんが6組くらい待機してる部屋で流れ作業のように一斉にメイクを受けた。芸能人がよくテレビで言ってる「楽屋のお弁当」も食べた。

 そして私だけディレクターに「打ち合わせ」と隅のほうに呼ばれ、台本を読むように言われた。それには、私の考えとはまったく違うセリフが私の発言として書かれている。本番で、ママタレントたちに向かって大きい声でこのセリフを読み上げるように、と指示された。


「練習してみましょう」と言われて
「あなたは…毒親予備軍です…」
「もっと大きい声でお願いします」
「あなたは毒親予備軍です…」
「もっともっと、元気に、明るく! 大きい声で!」
「あなたは毒親予備軍ですっ(早口)」
「もっとゆっくりハッキリ大きな声で元気よく!」
「あなたは、毒親予備軍ですっ!!」


 「ほんとに? 私こんなことテレビで言うの?」と動揺していると、今度は『出演承諾書』という紙を渡されサインするように言われた。
 承諾書には「映像をどういう風に使われても文句を言わない」「自分の発言の責任はすべて自分にあり、当テレビ局にはない」「撮った映像について、使わないでくれ、とかは言わない」等、私が全責任を取るけれども映像の編集は一切お任せするという、こちらとしては裸一貫すぎる内容だった。
 出演料3万円で顔と名前を晒して全国ネットのゴールデンタイムで思ってもないことを叫ぶ仕事、重すぎる。

 ものすごくビックリして、サインしたくなくて、承諾書を手に持ってトイレをウロウロし、「今すぐ家に帰ろう」と思った。
 しかしスタジオにはすでに毒親漫画家 田房永子と名札がついた席が用意されていて、「帰れるわけがない」と思い、出ることにした。サインもした。サインしたからには、あのセリフは絶対に言いたくない、と思った。私の言葉じゃないんだから、責任とれない。

◆目が潰れそうなほど豪華でまぶしいスタジオ

 スタジオに入ると、絢爛豪華なセット、巨大なひな壇の中にある自分の名前、そこに座る自分、目が潰れそうなほどまぶしい照明にまみれていた。外側は豪華だけど座席はベニヤ板でできていて座り心地は相当悪い。
 有名な芸能人たちが出てきて、本番が始まると、彼らはテンション高く大騒ぎし始めた。番組がどんどん進行していく。この中にいま、出演者として自分もいる、という現実にギンギンとアドレナリンが全身をかけめぐり、頭の血管がブチ切れそうだった。
 ママタレントたちが「毎日必死で子育てをこなしている中での悩み」を語る。それを聞いて、ますます「あなたは毒親予備軍です」なんて言いたくないと思った。いよいよ私の番になった。
 一生懸命、その場に合うように、セリフをゴッソリ自分の言いたいことに変えて喋った。私が話しているところで登場する段取りだった、「毒親予備軍の注意点」みたいなのが書かれたでっかいパネルを持ってスタッフが出てきたが、そこに書いてあるのとは全く別のことをしゃべった。頭の毛細血管がブチブチ切れてる感じがした。
 がんばった。よくやったと思った。自分を守れた。

◆テレビに出る仕事と漫画家の違い

 その日まで私は、自分がこれからバラエティー番組に出る仕事もやるようになるのかなと思っていた。
 だけど、漫画家という自分の本業と、バラエティー番組に出る仕事というのは根本的に全く違う性質のものだと分かった。
 漫画家は漫画を描くが、バラエティーの芸能人というのは、漫画の中の世界の人になるのが仕事である。テレビ番組という作品の中で、一つのパーツとして動く人たち。役を演じるドラマとは違うから誰かがおかしな発言をしてもNGとかはない。でも「こういう番組にしますんで」という制作者側からの強烈な空気があってその中でうまく自分を出す、という技術を持っていないと、テレビには流してもらえない。
 収録中は、司会者も出演者も大げさで素っ頓狂で“普通”じゃない。ウソではないが全部がホントでもない世界。視聴者が喜ぶモノを短時間のあいだに大勢の人間が集まって一丸となって全力で作り上げる世界。そんな“漫画”の中に入って登場人物を自らやれる人たち。中の人。
 ひな壇の上段から、床の上で動く芸能人の人たちを見下ろしながら、自分は漫画の中に入るよりも漫画を描く仕事のほうが向いていると実感した。
 ちなみに放映の際、私の発言はすべてカットされていて、ひな壇に着席しているだけの毒親漫画家となっていた。

◆深海と、富士山山頂くらいの落差

 バラエティ番組に出演したその日、一番驚いたのは、帰りの井の頭線だった。
 いつもなんとも思わない井の頭線が、ものすっごく染みったれて見えた。ホームに立っている人たちの服がヨレヨレに見えるし、覇気が無く、風景は灰色で、どよ~んとしてる。ついさっきまでいた汐留のテレビ局のきらびやかでまぶしすぎるスタジオとの落差がすごすぎて、重力を強く感じた。
 水中と陸上くらい違う。プールの水の中から炎天下のプールサイドに上がった時のクラクラ。こんな落差をしょっちゅう体感してたら死ぬ、と思った。
 メンタルに水陸両用を完備してる人じゃないと、タレント業なんてできないんだと思った。

 酒井法子が逮捕された時、警察の調べに対して「覚醒剤を使うと疲れが無くなり、掃除や洗濯など家事をやる気になった」と述べたというのを思い出した。確かに異様なほどの絢爛空間で高いテンションでチヤホヤされる仕事をしたあと、自宅に戻って掃除したり子どものご飯作ったりするの、そりゃ覚醒剤でもないとできないんじゃないだろうか、と思った。

 そんな風に、一般人の私がバラエティ番組で一言喋っただけでも井の頭線との落差に溺れそうになった。
 ジャニーズで、SMAPなき今トップのTOKIOに在籍し、オリンピックや震災復興では日本を代表する立場であり「善良でがんばり屋さん」なイメージで朝の情報番組に出演しながら、それらが終わったら帰宅先が病院って、すごくないですか。
 その落差は水陸どころか深海と富士山頂くらいではないだろうか。実際、体にかかる負荷はそのくらいの高低差があると思う。
 しかもその合間に村とか島とかで農業したりの体を張ったロケをしていたと考えたら、もう普通にメンタルはぐちゃぐちゃになっていて当たり前だと思う。

◆受け入れられないのは本人か世間か

 山口達也氏は2018年4月26日の謝罪会見で、自分がアルコール依存症であることは否定していた。
 でも病院から職場に通うなんて、異常な環境だと思う。
 職場から病院に帰る理由は「アルコール依存症だから」ではなく、「家に帰るとお酒を飲んじゃうから」「肝臓を休めるため」という。酒を飲んじゃいけない体なのに家に帰ると飲んじゃう、それがアルコール依存症じゃなくて一体なんなんだと思うのだが、本人は会見でキッパリとした感じで否定していた。
 それがものすごく哀しかった。本人が「アルコール依存症」というもの自体を少なからず恥じている、嫌悪している感じが伝わってきたから。

 でもやっぱTOKIOだから、ジャニーズだから、肝臓が悪いことは認められても「アルコール依存症」という症状名は受け入れられないんだろうと思った。それは山口達也本人もだけどそれ以上に世の中が、である。
 私個人が理想とする世の中は、朝の情報番組のメインパーソナリティーである国民的アイドルスターが「実は私、アルコール依存症の治療のため、いま現在、病院からここまで通勤しています」と告白できる空気のある世界。
 その経過を含めてみんなで見守れる世間。依存症になってしまったことを恥じるのではなく、本人の甘えとか弱さとかで済ますのでもなく、隠さないでいられる空気である。


◆TOKIOの会見

 2018年5月2日のTOKIO4人の緊急会見で、松岡昌宏氏が山口達也氏にかけた言葉について述べていた。

「正直、あなたは病気です。だから自分の置かれてる立場と今後のことをちゃんと向き合ってくれ。決してお酒が悪いんじゃない。自分の甘さと考えを改めてもらわない限り俺たちは何もできない」
「どれぐらい時間がかかるか分かりませんけどまず自分と向き合ってくれ。彼の謹慎活動っていうのはそれが全て終わってから始まることだと思ってるので、まずそれときちっとしろと。じゃなきゃ申し訳ないですけど僕らは受け入れられなという話をしました」

 さらに「僕らは山口がアルコール依存症だと思ってました。でもいろんな病院に診断書求めてもアルコール依存症という診断は出ないんです。そうやって書いてくれたほうが僕らもなんとか納得できるんですけど」と言っているのを見て、数十年後は、アイドルも一般の人でも問題を起こす前に依存症を告白できる世の中になるのではないかと夢想できた。
 これら松岡氏の思いは、自分の同僚とか部下とか身内が醜悪極まりない犯罪行為を起こした時に出てくる言葉としてとても健全だと感じた。

◆福田事務次官の場合

 これに比べると財務省の福田事務次官のセクハラ問題の時の周りの対応ってほんとにすごかったなと思う。
 福田事務次官本人は「週刊誌で報じられたようなやり取りをしたことはなく、会食をしたおぼえもない、報道は事実と異なるものであり、名誉毀損に当たることから提訴すべく準備を進めている」と言った。麻生財務相は「本人の長い間の実績などを踏まえればその1点だけで能力に欠けるという話ではない」と述べて、処分などを考える必要はないとの考えを示し、「福田事務次官にに人権はあるのか」「女性被害者は名乗り出てこい」とも発言し「被害者がいない以上、加害者を罰することはできない」とした。

 TOKIOに例えたら、山口が「キスなんかしてない、飲んでもない、ていうかそもそも私は普段から酒は飲まない、名誉毀損で訴える」と言い、城島が「山口に人権はないのか、被害者出てこい」と言い、松岡が「被害者出てこないからこの話、終了~」と言ってる感じである。

 麻生財務相が「福田君どうしちゃったのか、心配になりました。支離滅裂なことを言っていて、疲れているのか病気なのか、診断名が出ればこちらも納得できるのですが」と言ってくれたらどんなにいいだろう。
 センシティブな事件においての被害者に「出てこい」と言う彼ら。「ほら出てこない、出てこないってことは存在しないんだ」とか言うサディスティックなトンチ技を使って、「被害者はいないから、事件自体がない」とか言って、周りが「福田(越しに自分)を守る」。
 周りがそういう風に動いてしまうと、加害者本人はいつまでも、おそらく一生、自分の問題に向き合うことができない。
 人としては、社会的に失墜するよりも、そっちのほうが地獄なんじゃないだろうか。政治家はそうでもないのだろうか。
 福田事務次官や財務省の人たちの心を想像すると、息苦しさに見ているこっちが死にそうになる。


◆自分のことを無視して生きている

 私はおととし「キレる私をやめたい」という漫画を描いた。自分ではこれは依存症についての漫画だと思っている。
 自分の「キレる」行為について悩んでいたとき、いろいろな依存症の本を読んだ。痴漢や万引、飲酒、ギャンブル、それぞれ外に出る形は違うけど、「ワーっとそのことしか考えられなくなり、とりつかれたようにそれをやってしまう」という衝動の動き方はどれも同じだと思った。
 キレる依存症、という病名はないが、自分のこれは依存症なんだと思うようになった。
 そして漫画に描いて発表してから、気持ちがすごくラクになった感覚があった。当然、こういう漫画を世に出してしまったらリスキーな面も多くある。
 だけどそれ以上に、「公表する」というのは爽快感があった。それは私の魂が感じる爽快感である。自分が自分のやったことを認めると、自分の自尊心の世界が明らかに拡張し、吸える空気の量が増える。

 ハラスメントという行為によって他者に加害しないようにするには、どうしたらいいのか。それには普段から、周りからどう見られるか何を言われるかよりも自分の気持ちを優先することができるようになるのがとても大事なんじゃないかと思う。
 ハラスメントの加害に陥るのは、自分自身の気持ちを無視しながら暮らし生きてきた反動だと思う。自分自身の気持ちを優先する、というのは世間的には「自分中心にわがままに振る舞うこと」であると錯覚される。だけど本当はそれは逆だと思う。
 普段、他者からどう見られるかということを重要視し、他者の気持ちを優先しているため、自分の本当の気持ちを尊重することができず、自分の味方ができない。そうすると無視された自分自身が怒り出し、それを認めるようにと衝動を起こさせ、結果的に迷惑行為を繰り返すという事態になるのである。でも自分はあくまで人のために生きているし、その延長にあることなので、「加害」だと認めるのはとても難しい。

 ラジオの「テレフォン人生相談」で、回答者の加藤諦三氏がこんなことを言っていた。
「いじめは癒やしなんです」
 いじめをする者は、いじめをすることで、自分を癒やしている、というのである。それを聞いたとき、点と点が線で繋がった感覚があった。

◆非生産な劣等感は非生産が癒す

 このあいだ、私の1歳の息子が連日に渡り高熱を出した。中耳炎と突発性発疹という、1歳児がよくかかるオーソドックスな病気なので、おさまるまで放っておくしかない。
 だけどまだ言葉も話せない赤ちゃんがウ〜ン、ウ〜ンと苦しみ唸っている様子をただ見ているのは耐えられない。もしかしたら、脱水で死に近づいてるんじゃないか? など色んな想像をしてしまう。小児救急の相談に電話をかけたけど、「様子を見て」と言われる。本当に気がおかしくなりそうだった。
 息子の看病以外は何も手が着かない。だけどその現実をずっと直視していると頭がおかしくなりそうなので、スマホのパズルゲームをすることにした。
 私はゲームに興味が無くて普段はしないのだが、唯一、つわりの時期と流産の手術を待っている時間だけパズルゲームをしていた。
 私にとってゲームは「しんどくて何もできないが時間の経過を感じるのもつらい」というストレスフルな時にする癒やしのアイテムになっている。
 人によってゲームという存在の持つ意味は違うと思うが、私にとっては「非生産で非合理なもの」である。何も生産できない、生活が前に進まないというストレスを感じた時にゲームをすると、脳が癒やされる感じがあり、「ここ(地球)にいてもいい」と思えるのである。

 「何も生産できない、生活が前に進まないというストレスを感じた時に、自分にとって非生産で非合理な行為をすると癒される」のは、私だけではないのではないだろうか。
 同じ色の宝石をくっつけて消すだけのゲームを何時間も繰り返したり、自分の頭のにおいを嗅いだり、Twitterが表示された画面と自分の間の空間に焦点を当てた状態でただスクロールをしたり、お酒を飲み過ぎたり、社会的生活的には特に意味の無い、非生産的なことをしている時って、実は脳が癒やされているんじゃないだろうか。 
 その裏には、自分の非生産さに劣等感を感じている自分がいる。
 癒やしというと、子猫を見てほっこりしてストレスが消える、とかそういうイメージがあるが、そういう感じじゃない。瞬間的にスッとする、みたいな感じ。瞬間的にスッとするからその繰り返しが頻繁になっていくと依存ということになるのではないだろうか。

 ここに「いじめは癒やし」という言葉を当てはめることができる。いじめは、非生産的な他人への言動と言い換えることができる。
 相手に対して卑猥なことをしたり言ったり、暴言をふるったり無理難題を言ったり、それ自体になんの意味も無い、何も生産しないし生み出さないのに、それをわざわざしなければいけないのはやはりやる側の問題である。
 自分を癒やすためにハラスメントをする。「ハラスメント」とは、嫌がらせやいじめ、を意味する言葉である。


◆被害者を出さないようにするためには

 事件の中で山口達也氏の行なったとされるハラスメントの数々は非生産の役満状態である。
 出会い系やナンパで出会った成人女性ではなく、「先輩であり上司であり司会者である自分に対し、最も逆らいづらい立場の未成年の女子高生」を自宅に呼ぶ。最も対等ではない相手に選ぶという、実に非生産な行動である。その者に対して直接、性欲やストレスをぶちまける。それをやっても何にもならないのに、敢えてやる。

 山口氏は会見で「事件性があることだとは思っていなかったです」と言っていた。ハラスメントをする側にとっては、自分に向けての癒やし活動だから、他人に対しての積極的なハラスメント行為であるわけがないのである。この言葉はそれを象徴している。

 TOKIO4人の会見を見ていて、「30年間一緒にいた仲間・・・」とか「長瀬は小学生の頃から山口を慕っていて・・・」とか言っていて改めて仰天した。
 この人達、子どもの頃から働いてんじゃん。

 そのアイドル生活30年のあいだ、「自分ってこの仕事に本当に向いているのだろうか」と振り返ることができる時間がどれくらいあったんだろうか。
 芸能人という立場と実際の生活のギャップが飲酒のきっかけになっているとしたら、どんどん増える酒量を減らすための「病院という深海からテレビ局という富士山頂へ通勤する」という選択は、逆効果の極みだったのではないかと思う。

 こうすればよかったのに、という話はそれこそ非生産かもしれない。
 強制わいせつで書類送検されるようなことをした山口達也氏はダメダメだと思う。逆らえない立場の女子高生を家に呼ぶとかあり得なすぎる。
 でもTOKIO4人の会見を見ていて、子どもの頃から今も立派に健全にTOKIOという職業をこなせている4人のほうが奇跡であるようにも思えてきた。
 
 被害者を出さないようにするためには。
 ここで敢えて「山口達也氏もある視点から見れば人間としていたって通常である」という、一見、非生産な見方を持つことが、これからの時代は生産的となり、必要になってくる気がする。


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