テラスハウスのこと

※2020/12/19  に加筆修正しました


 「テラスハウス」が大好きだった。何年もいつも楽しみにして見ていた。だけど5月末にとんでもないことが起きてしまい、12月半ばの今も呆然としたままになっている。
 私だけではなくて、真剣に見ていた多くファンと、出演者も制作者もそういう感じなんじゃないかと思う。そういう雰囲気がする。
 テラスハウスの昔のシーズンを繰り返し見ていたけど、たぶんもう見ることはないと思う。リアリティーショーというジャンルが大好きだったけど、リアリティーショーを楽しむということ自体に罪悪感を感じるようになったのも、私だけじゃないんじゃないかと思う。

テラスハウスが大好きだった 

「コロナでテラスハウスの撮影ができなくなったから配信を一時休止」が発表されたのが今年の4月。休止に入る時の「最終回(第40話)」は、6人全員がプレイルームに集まってゲームかなんか、全員で一つのことをしているシーンで終わった。その風景に私は泣いた。
 本当にいつも面白いものを見せてくれる「テラスハウス」に感謝していたし、6人が一つの方向を向いて同じものを見ているという光景は、全シーズンの中でも案外珍しいことだったので「最終回」っぽいなと思って、これからしばらくお休みも耐えられるぞ、と思った。
 それくらいテラスハウスが大好きだった。まだNetflixで配信してなくて有料配信だった時は全部観るのに5000円課金して全部見た。テラスハウスのためにNetflixに入り、それからは全シリーズを2周は観ている。ハワイ編の後半は特に繰り返し見た。

リアリティーショーの見方

 2018年ころまでは周りに誰もテラハファンがいなかったので、1人で見ていた。毎週、まずは副音声なしで見て、そのあと副音声で見た。一言も聞き漏らさずに見たい番組だった。あくまでも「作られた」その作品としてのテラスハウスが好きだった。
 それは自分がコミックエッセイとかノンフィクションを書いてる側だからそういう見方になるんだと思う。ノンフィクションやエッセイ、ドキュメンタリーっていうのは、対象者の人生や生活の〝ある側面〟を取り出して編集した作品だ。どれだけ「その人のそのまんま」に見えても、絶対に制作側が編集している。つまり制作側の作品なのです。どれだけ出てくる人がおかしくて非常識であっても、それは盗み撮りでなければ「あくまで作品である」という目を持って見るものだと思う。
 一方、週刊誌によってデートや不倫や問題行動の現場なんかを盗撮されて報道されるスキャンダルは、ドキュメンタリーなどの作品とは違う性質だ。でも見てる人によっては、誰かに対象者として撮られて編集されて作品となるドキュメンタリーと、自分で自らの出来事を書き起こすエッセイと、週刊誌に〝断罪〟的な意味合いで報道されるスキャンダルを、ごっちゃにして受け取る場合もある。最近は、テラスハウスのような番組は日本でも「リアリティーショー」と呼ばれるようになった。すべてノンフィクションではあるが、それぞれまったく違うものである、というのは学校で習ったりしないので、誰も正しい見方を知らない。

本当でも仕込みでもどっちでもよかった

 私にとってはドキュメンタリーは「編集したもの=作品」であり、それで完結しているという前提で作ってるから、見る側の時もそれが普通だった。
 テラスハウスがそれまでのドキュメンタリーものと明らかに違ってすごかったのは、非現実的なほどにスタイリッシュにおしゃれに撮影する技法と編集、音楽の付け方、タイトルロゴなどのデザイン、テンポやタイミング、など普通に撮ったら単なる一般人の若者たちの生活を、そうやってMVみたいに撮ることで見ている者の気分を上げる効果があった。そしてスタッフの気配が徹底的に消されていることで視聴者がその世界観に没頭できた。
 さらに30代40代のスタジオメンバーがあれこれ言うターンが入っているので適度に現実に戻ってくることができて、且つ同じものを見ていた人が自分の感想を代弁してくれたりするので、そこで完結できた。この構成がとても斬新だった。
 今週はこんな風にまとまったんだ、っていうを毎週見させていただいてる、ありがたい、という感じで見てたので、テラスハウスのメンバーのSNSは興味が無くて見ていなかった。

 テラスハウスを冷ややかに見ている人は周りにたくさんいて、「テラスハウスは台本があって全部仕込みなんだよ」と言われることも何度もあった。確かに、行く先々(飲食店とか)になんでカメラが設置されてるんだよ、みたいなことは考え出したら無数にある。でも私はそれもどうでもよかった。台本があろうがなかろうが、ただ画面に映し出される光景、のおもしろさに感動してた。こんなに面白い作品を本当にどうもありがとうございます、だった。

追加で配信された〝最終回〟

 配信一時休止に入る前の最終回がすごくよかったのに、なぜかその次の週、また追加で1話配信された。「3密」を避けたのかスタジオメンバーが山ちゃん1人だけという今まで一度もない形式だった。
 それがなんだか異様に静かで暗くて、テラスハウスではないテラスハウスだった。なんでこんなの流すんだろう、って思った。
 テラスハウスはいつもNETFLIXでの配信の仕方が強気だった。来週はお休みですとかの告知もなく2週3週休んだりした。でもその代わり毎回クオリティのすごいものを見せてくれたから、テレビってこういう感じでいいよな、と思ってた。
 だけど最後の最後はなぜか、暗くて完成度の低いものを一つポンと流していて、何これって思った。それから起こる不穏なことなんて予想もしてなかったけど、これなら無理に流さなくていいのにと思った。

誹謗中傷にメンバーが苦しむ姿

 SNSの誹謗中傷にメンバーが苦しむ光景は、第1シーズン(2012-2014)からあった。苦しんだメンバーが「こんなこと言われるならテラスハウスをやめる」といい出て行ってしまった。
 だけどそのエピソード以降はSNSというリアルが作品内に登場しない作りになっていた。
 第1シーズンの終わりのほうでメンバー同士が花火大会にデートに行っている模様がSNSで先に拡散されているというのを何かで知ったことがあった。メンバーのSNSと同時並行でテラスハウスを見る楽しみ方をしている人もいるんだということを知った。私は誰と誰が付き合うとかネタバレを見てしまうのが絶対に嫌だからテラスハウス関連のSNSは見ないことにした。

 軽井沢編(2017-2018)ではSNSが作品内に登場しないのは無理な感じになってきて、誹謗中傷に苦しんだメンバーが就職の内定を取り消してしまったあたりで、あまりにも視聴者側のリアルが作品の中に食い込みすぎるようになってきた。こんなの大丈夫なのか? と思うたび、スタジオメンバーの芸能人たちが「ネットに書かれること(誹謗中傷)を気にしすぎてはいけない」という旨のことを発言する。私も自分のエッセイ漫画(自分で自分の醜態的な出来事を書き起こしている)をスキャンダル(断罪的に醜態を報道されている)と捉えているような人から酷いことをネットに書かれることがあって常に悩んでいるので、そういった芸能人の人からの〝アドバイス〟を聞けることがとてもありがたかった。そしてそれを聞いた瞬間いつも、「誹謗中傷されているメンバー」もきっと乗り越えるだろう、と安心するのだった。
 
 たまに、何も出来事がなくて盛り上がらない時期がある。そういう時は山ちゃんの「芸能界でやっていきたいなら(爪痕を残せるように、この番組が盛り上がるように)考えて動け(異性メンバーにアタックしろ)」というつっこみを聞くことがあった。芸能界を目指している若者もいれば、そうじゃない一般人の若者も混じっているんだと思っていたので、みんな実は芸能界を目指してるっていう前提の人なのかな? と思ったが、それも私はどうでもよかった。とにかくテラスハウスという作品を見るのが好きだった。

 この人をこういうキャラとして「見よう」という見方をスタジオメンバーが先導していく形はもともとあったと思う。でもそれはあくまでメンバーの個性がすごく強く見えるから、そういう風に形容することでみんなの溜飲を下げたりするための感じだった。
 でもやはり軽井沢編の最後のほうからは激しくなっていったと思う。

 TOKYO編(2019-2020)になってからは、SNSが作品に食い込むことが普通になり、つっこみよる先導がそのままSNSの煽りとなってその影響によってメンバーが反応する様子が次の週に流れる、というサイクルができてしまった。メンバーが誹謗中傷に苦しんで泣きじゃくる様子が映り、これはさすがにちょっとやばいんじゃないのか、とドキドキし、山ちゃんも自分(が煽る)の影響もあるんじゃないかと思い悩む様子があって他のメンバーがフォローする、という流れもあった。見ている私も、そのフォローでホッとする、みたいな感じがあった。結構、みんな(出演者、視聴者、制作者)でこのメンバーが誹謗中傷に苦しむ問題をかき消す、という場面はTOKYO編で何度もあった。

 どんどん世界中で人気のある番組になっていったし、開始当初とは変わって当たり前だと思う。だけどたぶん、見ている人たちも危うさは感じてたんじゃないだろうか。私も感じてた。山ちゃんなんて危うさを感じてることを隠せなくなっていた。最後のほうは「これは大丈夫なんだろうか」と思うシーンが入ってる回が何度もあった。でも、そうならない(大丈夫じゃない事態にならない)ことで「じゃあいいんだ」という感じで続けて見ていた。好きだ、と思えていた。今思えば、10代、20代の若い出演者たちのがんばりに甘えていたと思う。

 社会の底辺から上の者たちをやっかむという立ち位置だからこそ好き放題言える、というキャラクターだった山ちゃんが女優の蒼井優さんと結婚したこともテラハの「深刻とユーモア」のバランスが崩れたことに関わりがないとは絶対に言えないと思う(ここで言いたいのは、山ちゃんが悪いとか誰が悪いとかそういうことではないです)。
 さらに徳井さんが不祥事で出演しなくなってから、スタジオメンバーとテラハの映像の「深刻とユーモア」のバランスが崩れたと思う。ほんの少しだけ、ユーモアが減ってしまい、深刻が強くなっていった気がする。

 最後の最後、男性メンバーが女性メンバーにしつこくキスを迫る様子が流れた時、性的同意の問題として批判が集まった。私は、確かにあれは問題だと思ったけど、そういう風に外側から指摘していいんだ、と少し驚いた。テラスハウス内で「気持ち悪い」と言われる、ことで完結する、という感覚が自分の中にあった。自分が手放しでテラスハウスを信頼し、あがめているくらいの感じで見ている姿勢に、自分で引いた。
 例の、木村花さんが怒りをあらわにするシーンも、これは大丈夫なのだろうか、と当然思った。だけどその1年ほど前に同じNetflixで配信された「あいのり」で女性メンバーがものすごい大暴れしながらブチギレまくる凄すぎるシーンが流れていて、私はリアリティーショーってこんなところまできたのか、と驚愕した。自分の「キレる私をやめたい」で描いた、キレる人の矛盾した主張(私の前からいなくなれ、と言った直後でいなくなるんじゃねえよと言ったり)などがそのまま映像で観れることに感動した。
 その時も、大丈夫なのか? と思ったけど、大丈夫じゃない事態にならないことで「じゃあいいんだ」という感じで過ごした。
 でもやっぱ、見ていて感じる「大丈夫なのか?」には敏感でいていいんだ、と思い直した。

 あんな風に終わってしまって、自責しないわけがない。
 今でも涙が出てくる。
 ちょっとこれ以上書けないくらいやっぱまだつらい。加害側としての視聴者、制作者、出演者、を私1人では到底語れるわけがない。まだ誰も語れないんだと思う。でも、いつか、番組としても語ってほしいと、おそらくそんなの無理な、ひどい要求なんだけど、心のどこかで祈っています。

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