合わすフォーカス 視覚聴覚、世を沸かす

9月6日にリリースされた音源、「FOCUS ON 卯月コウ」について書きます。


前置き

卯月コウとは……?
ANYCOLORが運営するにじさんじ所属のバーチャルライバー。

以下省略。この白々しいくだり前もやった気がするな。このnoteを読んでる人に向けて前置きなんていらない気はするけど、せっかくだし記憶があるうちに情報解禁の時のTwitterのどよめきの感じから書き残しておきたい。

最初に告知がされたのは今年6月13日。
この時公開されたのはジャケットイラストと「放課後シャングリラ」と「何者」の曲名のみだった。

それでも、タイムラインでは多くの卯月軍団が意味深な曲名に期待を寄せて、既に絶賛してる人もいた。
自分はというと、「おいおい…。ちゃんと耳で聴いてから判断しようや……」と、腕組みをしながらメガネをクイクイさせていた。

そして、翌7月21日、27日にスポット動画とともに楽曲情報が公開された。

楽曲を手掛けるアーティストについては今更補足するまでもなさそう。

「なんと!!!あのゲームのあの人が!!!」みたいなミーハーな喜び方をしてると思われたくなくてずっとスン……としてたんだけど、今になって率直に言ってしまえばこれまで配信で辿ったコンテンツ(に携わるクリエイター)とこうして縁が結ばれること自体が何か熱いものを感じずにはいられないというか、少なくとも歩んできた道のりの成果の一つとしてアーティスト活動というものがあるとすれば、偶然であれ必然であれ美しい構造だと思った。

本人もがっつり歌詞に監修みたいな形で関わっているらしくて、「予約してくれて構わない!」って珍しく自信気なツイートを見たらさすがに組んだ腕が緩みかけた。
あと、なんとなく「何者」はバラードなんじゃないかって思ってたから試聴して2曲ともアップテンポなのが意外だった。

そうこうしてるうちに9月6日。発売日になった。
自分は最速で聴きたかったので初回は日付が変わった瞬間にSpotifyで聴いた。

(今思うと初回はCDで聴きたい人も沢山いただろうに、夜明け前から感想をtwitterで漏らしたのはよくなかったな…。
サブスクで聴ける時点で何で聴くかは人それぞれと言ってしまえばそうなんだけど、個人的にはその辺配慮できる人間でいたかったので今更ながら後悔してます。CD派の人、すみませんでした……!)

結局前置きのようなことをつらつらと書いてしまったけど、ここから曲の感想を書きます。スクロールバーを見て分かる通り、無駄に鬼のように長いので流し読み程度にスクロールしてもらえたら幸いです。後半かなり読み辛い怪文書なので特に。

あ、もう一つ!
歌詞についてだけど、そのまま全文丸ごとnoteに載せるとお縄になる可能性があるらしいので、著作権法に基づいて以下のルールに従って「引用」という形で拝借したいと思います。

  ① 引用部分が明示されていること(明瞭区別性)

  ② 引用元が明示されていること

  ③ 自分の著作部分と引用する著作物との主従関係が明確であること(附従性)

  ④ 他人の著作物を引用する必然性があること(必然性)

  ⑤ 引用部分を改変していないこと


※参考サイト:

JA◯RAC様は素晴らしいです!!!

雑感

放課後シャングリラのファーストインプレッションについて、正味感想といえるほどはっきりとした反応を出力できたかと言うと、あまり自信がない。聴いてるようで何も聞いてなかったかもしれない。

イントロからブルアカを連想するシンセ、Aメロの気だるげな歌い方、サビの盛り上がり、とにかく情報量が多すぎて目で歌詞を追いつつも脳は完全にフリーズしてた。
ただ、「放課後シャングリラ」を聴き終えた時、それまでFOCUS ONに抱いていた疑念の全てを心から詫びて手首を返す瞬間が最高に気持ちよかったことだけは覚えてる。FOCUS ON、最高!!グルンッッ

発売日からやや日が経った今ならまともな感想になるかと思ったけど、やっぱり音楽的な部分については正直分かってないと思う。
なんかでも、オケだけに注目して聴くと放課後の学校の夕景っていうよりは遊園地的な楽しさを感じる音だと思った。そこに要所要所で入るギターの歪んだ音が、中学生のささやかな反骨心を表現している……のか!?
めちゃくちゃ素人の感想なのでこういう抽象的な解釈の寄る辺なさが凄い。すみません、不安なのでもうあとは歌詞の感想だけ書きます。

まずは歌い出しの歌詞から、”””引用”””の方、させて頂きます……。

扉の向こうには 弾けたくす玉みたいな青春
大人の階段の中二階 止まってため息つく

作詞:永塚健登 作曲/編曲:ミツキヨ 「放課後シャングリラ」より引用

これ本当に大丈夫だよね?もしこの記事が消えたりなどした時はお察しください!!!

まず、歌い出しから真っ当な青春を「弾けたくす玉」って形容するひねくれ方が結構ツボで、この時点でキャラソンとしての解像度を高めるワードチョイスにグッときてた。
しかも作詞の方ご本人もツイートしてたけど、かなり韻律を踏まえた単語になってて発声して気持ちいい。
一個だけ思ったのが、「中二階」って家の間取りでしか聞いたことないフレーズなんだけど、学校にもあるものなの?踊り場みたいなこと?

ちょっと待って、1行づつ突っ込んでたらキリがないぞ!もっと作品全体のざっくりしたイメージをまとめてから要所要所で感想を述べた方がよさそう。

全体を通じて一番強く感じた印象は、「放課後シャングリラ」と「何者」の2曲に通底するテーマ性でもあるけど、とにかくものすごくファンの方を向いてるなということだった。

普段の飄々としたコウの印象と比べるとキショいくらいにグッと距離を詰めてきてるというか、普段のお便り企画でリスナーの巨大感情と向き合う姿勢を思い返せば別にそこまでおかしい姿勢ではないんだけど、これまでリスナーに向けて直接喜ばせるようなことを言うようなタイプではなかったから、ちょっと意外というか面食らってしまった。

放課後に作るシャングリラ
俺が俺でいられる場所だ
毎日 毎日 君と遠回りしていたい
セルフでメイドのシャングリラ
掴んだ手は離さないから
一緒に連れてくよ
陽の当たる場所へ

作詞:永塚健登 作曲/編曲:ミツキヨ 「放課後シャングリラ」より引用

そして、サビの歌詞。この辺りに自分はFANTASIAの直後の感想雑談で語ってた「幸福パンチ」的な文脈をかなり感じた。
これは完全に憶測なんだけど、もしかしたら、自分だけがスポットライトを浴びて、人気が上がるにつれてリスナーや過去の自分自身とのギャップが大きくなっていくことにどこか寂しさを感じたのかもしれないと思った。

その理由は「陽の当たる場所に連れて行く」っていう言葉の選び方で、作詞家の方がどんなヒアリングをしたのかは分からないけど、単に配信者として楽しい時間を共有したり企画にリスナーを巻き込むっていう意味だけなら昔からやってきたことをわざわざ改まって表明する必要がない。

そうじゃなくて、FANTASIAのステージを経た"今の卯月コウ"だからこそ、暗がりにいるままのリスナーにも変わってほしいと思ったのかもしれない。
そして、リスナー自身が変わるきっかけを与えられたらという思いが「掴んだ手は離さない」っていう表現に表れたのかなと思った。
この辺りは「何者」にも繋がってくるメッセージ性だと思ってるんだけど、自分はそんな感じに解釈した。

気持ちよくなりたいだけの余談

ちょっと余談だけど、「セルフでメイドのシャングリラ」っていう響きに聞き覚えがあって、なんだっけなと思って調べたら出てきたのがこの曲だった。

この曲の中にある「俺らの船をセルフでメイド」っていうフレーズを連想してデジャブを感じたんだと思う。

この「Crayon」という曲は一昨年のabemaの「ラップスタア誕生」という番組で生まれた曲で、コウ自身が時々この番組やHIPHOPの話を配信で差し込んでくれるのもあって、個人的に嬉しい偶然だなと思った。

偶然ついでにもう一つ面白い共通点を見つけたんだけど、上の「Crayon」はFuji Taitoというラッパーがリリックを書いていて、曲名の通り「真っ赤」→「火と血」、「真っ青」→「空と海」みたいにクレヨンを表現した色鮮やかなフレーズが何度も出てくるんだけど、「放課後シャングリラ」にも似たような(というか逆のベクトルで)視覚的な表現があると思った。

まず、詞の初めに浮かぶ情景は扉を隔てた日陰の階段で、「青春」、「群青色の群像」という色彩を表す言葉はあってもそれを打ち消したり対比する「モノクロ側」としての言葉が並んでる。
「黒い退屈」とかは露骨だけど、サビまでずっと暗くて陰鬱な色味を思わせるワードが散らばっている。

そして、そのことに気づくと2番でなぜかいきなりマグリットの名前を持ち出したのも意味深に思えてくる。ゴッホやモネみたいな鮮やかな色彩の作風の画家は、この歌詞の世界観から言わせると"陽"なのかもしれない(ゴッホが陽な訳はないか。)、みたいなことを思った。なんでマグリットなのかは分からないけど、個人的にエッシャーと並んで一二を争うくらい好きな芸術家だったので単純に嬉しかった。

で、そんな薄暗い階段のようなモノクロのセカイから一転して、2番のサビで「夕方」っていう綺麗な情景が突如として現れる。
「理想郷」はきっと、そういう色鮮やかな色彩の光で満ちてるんだろうなと感じさせるようなドラマチックな展開で、1番のAメロから実は作為的に伏線を張っていたんじゃないかって勘繰っても考えすぎではないような気がしてくる。

そして、最後に「後ろに回すプリント」で「白」を連想するワードに着地するのも無理矢理解釈すれば綺麗な伏線回収に見えるような。一見モノクロな色合いの世界に回帰しているように見えて、でも白って全ての光の色を重ねた色でもあんねん。美しいよな。

いや、、、さすがにこの辺は考察でもなんでもなくてただ気持ちよくなりたいだけのこじつけです。すみません、どこまでが余談なのか自分でも分からなくなってしまったけど、要するに歌詞を眺めると色味とか輝度のグラデーションが感じられるような気がするっていう、そんな主観的な話です。

二つの違和感

歌詞の表面的な印象についてはおおよそそんな感じで、後半はちょっと「何?」って思われるかもしれない部分について書きたい。というか聞きたい。それは、「放課後シャングリラ」の歌詞から個人的に感じた二つの強烈な違和感について。

まず一つ目は、曲そのものを「何者」とセットで並べた時に浮かび上がる認知的不協和みたいなもので、それは次の箇所に特に色濃く表れてると思う。

終わらない夕方 永遠(とわ)に続く道草

作詞:永塚健登 作曲/編曲:ミツキヨ 「放課後シャングリラ」より引用

この、放課後シャングリラという歌詞の中核をなしてる「永遠不変の理想郷」というイメージが、「何者」の歌詞で描かれる「動的で不可逆的な変化」のイメージと強く矛盾してるように感じた。
これ他の人の意見も聞いてみたいんだよな……。

別々のシングル曲とかなら多分気にも留めないんだけど、当の本人が「2つセットで聴いて欲しい」って強調してたので、ちょっと捨ておけないというか、それどころか大事なメッセージを拾いきれてないんじゃないかという気がしてならない。

FOCUS ONの歌詞をものすごく雑にまとめると、こんな感じになる。

「卯月コウは、放課後シャングリラの中で永遠の放課後、終わらないモラトリアムを歌っていて、自らそれを「やさしく歪なシャングリラ」と呼んでリスナーを迎え入れた。その一方で、「何者」では言い訳ばかりの日々を「終わらせる」ために、最果ての先の景色へリスナーを急き立てた。」

これが自分のざっくりとした認識。

つまり、どういうこと……?
リスナーに対する目線は同じなのに、歌詞のメッセージ性があべこべだ。一体この中学生はリスナーをどうしたいんだ。

しばらく2つ曲の歌詞を交互に見比べて考えてみたけど、見当がつかない。
少し目を閉じて考え込むと、いつものくだらない身内ノリの単語が無数に頭上や背後に浮かんでガリレオみたいになってしまった。あとトロンボーンの音色が聴こえる気がする。楽し…。


歌詞の主体はどういうスタンスなんだろう。配信者として?キャラクターとして?現実として?非現実として?2曲の歌詞ひとつひとつに意味があるとしたら、それぞれ相反するメッセージを両立させるものってなんだ?これがまず一つ目の違和感であり謎。

そして二つ目の強烈な違和感。それは、自分の知る限りで、卯月コウが未来に対して永遠を約束するような言葉選びをするとは思えないということ。

ちょっとソースが出せないのが大変もどかしいんだけど、過去に何かの配信でこんなことを言ったのを覚えてる人はいるだろうか。

「今現在自分に恋人がいなかったとしても、リスナーに向かって恋人がいないとは言わない。なぜなら、その場ではリスナーを安心させることができたとしても、将来的に恋人ができてしまったらその時の言葉が嘘になってしまうから」

何かの配信(妄想の可能性あり)

こんな意味のことをどこかで言ったような記憶があるんだけど、覚えてる人いますか?もし自分も覚えてるよとか、アーカイブ知ってるよとかあったら是非教えて欲しいです。(これで勘違いだったらめちゃくちゃ最悪なので、今のところ嘘だと思って軽く流してください。)

そう、つまり(上の言葉が勘違いじゃなかったとして)、恋人の有無みたいな下世話な話ですらここまで慎重に言葉を選ぶ男が、漠然とした未来に対して耳触りの良い「理想」を保証するようなことを気安く言うだろうか?というのが二つ目の違和感。

若手のバトルMCならいざ知らず、他ならぬウヅコウ先生がそんな薄っぺらい嘘を本気で歌っていたとしたら、……自分はちょっと横になってしまうかもしれない。

まとめると、「何者」の歌詞と矛盾する「永遠」というテーマ性、そしてその「永遠」という言葉のチョイス自体から感じる違和感。この二つが自分が「放課後シャングリラ」に抱いた強烈な違和感です。

他の人はこの点についてどう思ったんだろう。実を言うと、上の行までを書いた時点では明確な結論は出なくて、次の章はちょっと間を空けて半ば無理矢理捻り出した主観の強い怪文です。人によってはかなり不快な文章かもしれません。
他人の考えに引っ張られたくないとか、自分の解釈を大切にしたいという人はブラウザバックした方が有意義かもしれません。ここまで読んでくれてありがとうございます。

シャングリラの正体

上の章から少し時間を置いて、ようやく一応の結論が出せた。まず一つ目の謎、「何者」と矛盾する歌詞のテーマに対する違和感について。

前章で、2曲の歌詞ひとつひとつに意味があるとしたら、それぞれ相反するメッセージを両立させるものがあるんじゃないかと書いた。

結論、2曲に共通する一番大きな要素があるとしたら、それはリスナーの存在以外考えられなかった。
なら、リスナーとはどういう存在だろうか?それは「実在する有限の命」で、(もう身も蓋もないことを言ってしまうけど、)それは結局卯月コウも同じだということだ。

バーチャルライバーで架空の設定があったとしても、その液晶画面の向こうにいる「卯月コウ」にはいつか必ず活動者としての「終わり」が訪れる。(その事実から目を背け続ける限り、「何者」の歌詞と向き合うことは多分、もっとできない。)
だからこそ、永遠の理想郷という嘘を額面通りに受け取ることに自分は強烈な抵抗を感じたんだと思う。多分、これが自分の感じた違和感の正体だ。

じゃあなぜ卯月コウは永遠の放課後を歌ったのか。

多分、放課後シャングリラに込められてるのは「祈り」なんだと思う。現実がそうじゃないからこそ、そうあってほしいと願う切実な思いを歌ったのが放課後シャングリラなんだと自分は解釈することにした。

理想郷(シャングリラ)とは、自分たちの頭の中にだけ存在する「あの配信の空間」のことで、俺たちが日常で頭に思い浮かべる「あの時間」そのものなんだと思う。
そこは常に「過去」として脳内に存在する記憶だから、俺たちがこれから先どうあっても、卯月コウがこの先どうなったとしても「俺は俺でずっといるから」と言い切れる場所のはずだ。


このことに気づいた時、二つ目の違和感についても謎が解けた気がした。「卯月コウはなぜ永遠という言葉を選んだのか」という疑問。それは、理想郷がつまるところ、「思い出」の中でしか形を保てないものだからじゃないだろうか。そう解釈すると、全ての歌詞の辻褄が合う気がした。


理想郷は存在しないからこそ理想郷で、どんなに楽しい放課後の帰り道でもいつかは家に帰らなきゃいけない。配信が終わったら向き合うべき現実に帰らなきゃいけない。そして日常の中でふとした瞬間に頭をよぎる憧憬だけが、永遠不変のものとしていつまでも輝き続ける。その切なさ、現実のままならなさが生み出した終わらない夢(フィクション)が放課後シャングリラの正体なんじゃないかと思った。

おわりに

せっかくここまで読んでやったのにつまんねー解釈しやがってと思われてしまったかもしれない。自分ならそう思う。でも、自分は悲観や冷笑がしたくてこんな結論を導いたつもりはなくて。むしろ、放課後シャングリラを自分が納得できる形で解釈しないと、何者と一緒に咀嚼してもきちんと消化できないと思った。つまり、流行りの音楽みたいに適当にプレイリストに入れてはその都度消費する曲にだけはしたくなかった。間違ってるかもしれないけど、今の自分が納得できる形で解釈したかった。

繰り返すけど、「放課後シャングリラ」と「何者」は2つセットでより深く楽しめる曲になってる、はずだ。「何者」の中で歌ってるテーマはきっと、リスナーが幾度となく見つめたり、あるいは目を逸らしてしまった「現実」に関するものだと思う。だとすれば、「放課後シャングリラ」を現実的な視点から解釈することはそんなに的外れなアプローチではないんじゃないかという直感があった。むしろ、「何者」の歌詞を読んだ時に感じた不穏な箇所というか、あまり考えたくない部分と向き合う上で「シャングリラ」の自分の解釈は明るい道標になるような気がしてる。

ところで、この時点で文字数が7000字に迫ろうとしてるんだけど、どうする?このまま「何者」の感想、読みます?やめとく?そもそもこの文章って誰かに届いてます??

さすがに一旦区切ろう。半ば独り言のつもりで書いてるけど、なんなら「何者」の感想もこれ以上自分は書かなくてもいいかもしれない。ここまで散々「何者では〜〜」みたいに匂わせておいて興が醒めること甚だしいんだけど。


何しろ「何者」の感想を語ろうとすると、(自分の解釈では)どうあってもこの記事以上に暗いテーマに触れざるを得ないし、FOCUS ONを純粋に楽しんでるリスナーに冷や水を浴びせるどころか傷つけてしまう可能性が少なくない予感がする。

あと、曲を聴いた人なら分かる通り、「何者」とは特定の一個人を指す曲名じゃなくて、リスナー一人一人を包含する複数形の単語だ。
なので当然、その感想を書こうとするとリスナーとしての自分自身と向き合わないといけなくなる。解釈の妥当性どうこうの前に、noteで赤裸々な自分語りをしないといけないという問題が発生する。


諸々踏まえて勇気が出たら書くかもしれないけど、チキってこのページごと消えるパターンも全然ありうる。なので後半は書くか未定です。とりあえず、誰か一人でもここまで読んでくれてたら嬉しい。共感して貰えたのか、それとも反感を抱かせてしまったのかは分からないけど、自分からはただ一言だけ。ここまで読んでくれてありがとうございました。











あと、滅茶苦茶どうでもいいことなんだけど、「放課後シャングリラ」の略称って「放シャン」でいいの?「放シャン」で確定?

今後ライブのセトリに組み込まれることがあったら、俺たちは「放シャンうおおおおおおおおおおおおお」って実況するの?
でもそれって、知らない人が見たら「放ション」とかって見間違えられたりしないかな?

「放ション」って、なんかすごい開放的なおしっこの名称か何かに誤解されないかな?大丈夫ですか?

何がですか??


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