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写真に写るということ

私が写真に写るということ。その理由、

あくまでもnoteは自己満足の為に書くつもりだけども、興味を持って読んでくれる人が居るのなら私について知りたいことは何故写真に写っているのだろうということだと思うのでnoteの書き初めはこのテーマでやってみようと思う。まぁ、いれば、の話だけども。

「余程自分が好きなのね。」

こう、少し冷ややかに母に言われた事がある。

うちは親に了承を得てこういった活動をしている。世間からしたら至極当然で当たり前の事なのかも知れないけども、この界隈にしては親の了承を得ているということ自体恐らく珍しいことだろう。

「俺が親だったら絶対に被写体なんかさせたくない。危ないから」

何人ものカメラマンに、目の前でそう言って笑われた。それくらい周りから見たら不安で、危険な橋を渡っているように見えるのだろうし、きっと実際そうなんだと思う。

たまにNEWSでSNS関連の事件が流れる度に母はわかりやすい程苦い顔をする。

「ファインダー越しの世界に恋をしたから。綺麗に写真で写してもらえる度にワクワクしたから。」

そんなキラキラして美しい、煌めきだけの感情だったらきっとこんなに写り続けていることは無いだろう。

それくらい、私にとって写真に写るということ、そして写真という概念、存在そのものに対する情熱はある種好きを越えた熱狂じみた感情とも言える。

恐らく、恋に狂ってしまう人間の情熱と同じくらい、私は写真への思いが一筋となって、どうしようもない程、一途に惹かれてしまう。決して美しくもなければ寧ろ泥臭くて、目も当てられない程惨めな感情だって沢山詰まっているけれどもそれでも私は写真に、生きる事そのものを助けられている。


「あんたは本当に何も無いよね。好きなこととかない訳?大人になるまで一瞬だよ。今のうちに好きな事見つけておかないと、どうするの?」

昔からまるで呪いのように母親に繰り返し繰り返し言われ続けた。

「そうか、私には何も無い。どうしよう。」

その度私は、自分のちっぽけな手のひらに何も無いこと、自分の価値、意味、全てにおいていつも自信がなくて不安で、悲しくなった。

周りを見渡せば皆キラキラと輝いて見えて、自分だけのものをちゃんと持っている人ばかりで、そのくせ自分には何も無くて、それに気付いてしまう度酷く恐ろしかった。

何かしないと、何かしないと。早く母親に何か出来る私を、好きなことを持っている私を見せて、認められないと。

趣味で書いていた小説は、鼻で笑われてしまった。

「小説家??何言ってるの、そんな事より進路は?将来はどうするの?」

今思えば、あの時の私は母親に認められる事、そのものが小さな世界の中の価値判断そのものだった。

中学三年生の長く重い迷走の中、受験が終わり半場強制的に決められた学校に通う中、少し心が壊れていた時に出逢ったのがポートレイトだった。

知っている人は知っていると思うけど、私は元々友人の誘いでコスプレをやっていた。だけど申し訳ないが所謂ニワカで、言われたアニメを見ることは出来るけども特には熱中出来ず、ただなんとなくコスプレをしていた。今思えばその子と過ごす時間が好きなだけだったと思う。適当にコスプレして、メイクして、キャラになりきってワイワイと写真に写って、それをアップする。そんな感じだった。

だけど、ポートレイトはまるで違っていた。

だって自分そのものだ。どんなに着飾ってもメイクを施しても、結局はヴィッグもしていない何も戦闘態勢が出来ていない生身の自分のまま写るのだ。恐ろし過ぎる。

初めての撮影は10月の後半の予定で、地元での撮影だったけれど、それを心に決めるまで一、二ヶ月は迷い続けた。私は、新しい世界に飛び込むのが人より少し苦手だった。それは今もだけど。

初撮影の日、許可がおりないのが怖くて親にはその時は、撮影だという趣旨はぼんやりとしか伝えず逃げるように家を出て、指定された公園へと自転車で向かった。初めてだった。母親に認められないかもしれないことを、自分の意思で決めて行動する事が。

だけど、そんなことより緊張と不安に押し潰されてしまいそうで、何度も道を引き返そうかと思った。

それでも辿り着いた時、目の前に見る初めての人種、所謂カメラマンさんはとても穏やかな方で申し訳ないけどひどく構えていた私は心から安堵した。

これはまた別の機会にお話するけども、私が知っている大人の男性はいつも下心が見え隠れしていて、とても醜く映っていたから心から趣味の為に休日の貴重な時間を共に過ごしてくれる大人を見るのは産まれて初めてだった。

すっかり秋の風が吹いている気持ちの良い10月の空の下、全く手本のない未知の中、どんな風に笑っていいのかも分からず、ただ固い表情の中、丸く光る大きなレンズを見詰めていただけだったけど(最初のカットのデーターは送られてこなかったから余程ひどい顔をしてカメラを見詰めていたのだと思う。申し訳ない。)カメラマンさんの優しいお声掛けのおかげで徐々に自然に笑えるようになって、シャッターを押される度に「あ、いま良かったのかな。良いと思われたのかな」と、少しだけ自分を肯定されたような感覚がして、塞ぎ込んでいた日々の中、久しぶりに心まで軽くなった気がした。

あれ、もう終わっちゃったんだ。二時間の撮影は本当にあっという間だった。

楽しかったな、またやろう。

これが、私の初めてのポートレイト撮影の率直な感想だった。

その後母親にちゃんと話したら、顔をしかめて

「何やってるの、怪しい関係にしか見られないよ。恥しい。」

と言われたけど、それでも私の心の晴れやかさも爽快さも決して薄れることは無かった。

後々考えると、自分じゃない誰かのために心を殺して動いたのではなくて、初めて自分の意思や考えで突き通した上での好きだったから、何を言われても本気で止められない限り今もこうして永遠にこの好きを追い求め続けて行けているのだと思う。

私の感情も、好きという気持ちも、全部私のもので、決して他の人に指し示されたり、こうしろと言われてする事じゃないんだ。そんな当たり前のような事を初めて教えてくれたのもまた、写真という存在そのものだった。

あの日から気付いたら二年の歳月が経っていて、あの時出会ったカメラマンとも、縁が続いている人もいれば疎遠になった人もいて、私を囲む環境も心境も色々と変化していった。

それでも私は私で、気付いたらカメラを構えていて、春から写真の学校に通うことになっているから驚きだ。

それぐらい写真の魔力は凄い。あの時の感情があるから私はこうして果てることなく写真というものに魅了され続けている。


思うに、写真を写すということ、その根底は愛であり肯定だ。私は、まだまだどうしようもない程未熟で脆弱だけど、それでもあの時、写真に助けられたから今もこうして迷いながらもちゃんと生きている。

こんな私だけど、今の目標は私と同じように、写真で救われる人を自分の力で増やしていくことだ。

そんな立派なことが言えるのは、まだ当分先の話だとは思うけども。

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