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大きな樹の話11(前編)

神の地、人の地

神社仏閣の土地に足を踏み入れると空気が変わる、なんてよく言うけれど、それを実感できる人がどれほどいるだろうか。

僕自身、いわゆる霊感は無い(と思い込んでいる)しパワースポットで肌がヒリヒリするとかそういった経験もない。
でも、「そう捉えれば」そういうことが起こっていたのかも…という経験や、これってそういうお告げなのでは?と感じたりしたことはある。

以前、山形県でとある樹を訪れようとしたとき、遊歩道が土砂崩れで通行止めになっていたことがあった。でも崩れた道の上を歩いていけばなんとか行けるだろうと向かっていると、道のど真ん中で蛇がトグロを巻いていた。「まあ、そういうこともあるよね…」と思いつつ進む。そしていざ、土砂の上に登って少し歩いたとき、強めの風が吹き、栃の実が雹のように降り注いできた。「あ、これ今は確実に歓迎されてないな。またいつかの機会にしよう。」ときっぱり諦めたのだった。
偶然の一言で済ますことなど簡単にできるのだが、山や神域に足を踏み入れるというのはそういうことだと僕は思っている。そうした場所は本来は暗く、人の住む場所とは明確に区切られている。

何が言いたいかというと、どちらかと言えば、空気が変わるというよりもこちらが気持ちを整えてから入るべき場所があるという話だ。
それが自然、そこに住む生き物、祀られているものに対する礼儀であり、より大きな存在への畏敬の念に繋がってゆくのではないか。
畏敬の念とは必ずしも主従のような上下関係を約束するものではないと思う。互いが自然界において個として等しい存在であると認めた上で、初めて我々の内から湧き出でるものだと考えている。

前置きが長くなってしまったが、後編では石徹白という地について。「ここからハッキリ分かれているな」と思ったし、「しゃんとしなきゃな」とも思った場所だ。初めて訪れたときはその空気の濃さに驚いた。先日実に4年ぶりの訪問となったが、あの空気は変わらずそこに満ちていた。

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