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★「日本のデザイン2010」主旨文

(テキスト・イラストは全て2010年に書かれたものです)

日本の飛行機とデザイン/八谷和彦(メディアアーティスト)

 日本で現在生産されている民間用航空機の数を知っていますか? 千? 1万? いえいえ、答えはゼロです。旅客機はもちろん小型機もグライダーも、国産機はありません。ハイテクの国・日本が飛行機を作っていない(作れない)。
 これはちょっと驚きです。もちろん部品製造会社は存在します。しかし、設計図の指示通りのモノを精度高くつくることと、人を乗せて実際に空を飛ぶ飛行機をイチから設計することは、根本的に違うのではないか。大きな空白の時を超えて、今、日本の飛行機づくりに再挑戦を始めた「ホンダジェット」と「MRJ」の開発現場に、そのキーマンを訪ねました。
 飛行機づくりに一番重要なのは「インテグレート(統合)」する力だといいます。それは全体を設計し、各部品の仕様を決め、組み立て方までトータルに考え実現する力です。それだけではありません。試験飛行をへて「型式」という性能に関する認定を受けて販売するまでのすべての行程を、その視野に収めていなければなりません。一度離陸したら、小さな欠陥さえ大事故につながる飛行機づくり自体、たいへん高度なモノづくりです。しかも永らく飛行機をつくってこなかった日本には、テストパイロットや試験を行う環境も、それを審査するシステムも、十分に整ってはいないのです。今、日本が飛行機をつくるためには、そうした実験の環境、審査のことから考える必要があります。

 そこまで大変だったらわざわざ国産で作らずに外国から買えばいい。そういう考え方もあるでしょう。しかし、 単に高機能な部品を組み合わせるのではなく、ときにはハイテクや革新性を捨ててでも、信頼性や全体のバランスを優先する、インテグレートの力が不可欠な飛行機づくりには、日本の製造業全体を底上げするためのヒントが沢山詰まっているようにも思えます。2人の設計者の言葉を通じて、これからのモノづくりの指標を探してみましょう。

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イラスト モリナガ・ヨウ

「自分でやる」と「他人から学ぶ」 ー飛行機を作るということー

「自分でやってみる」方法論には、試行錯誤が付きものであり効率は悪い。しかし一方では、先人の陥った先入観から自由でいられるという利点も存在する。 松浦晋也

■2つの方法論


 夢枕獏の小説「キマイラ」シリーズには仏陀になろうとする男が登場する。「仏陀は自ら悟りを得た。ならば自分も自分のやり方で悟りを得ることができるはず」と、仏門での修行を拒否し、自分のやり方を通そうとするのである。

 これはかなり普遍的な考え方だ。徒手空拳から何かができるようになるためには2つの方法が存在する。ひとつは、とにかく自分でやってみて、自分なりのやりかたで問題を解決すること。もうひとつは先人から学ぶこと。だ。実際にはこの2つの方法の間には、幅広いスペクトルで「学びつつやってみる」「やってみつつ学ぶ」という混合的手法が存在する。何もかもを自分で発見しつつ進むのは不可能だし、一方学ぶばかりで実践が伴わないというのでも物事は進まない。

■「自分でやってみる」のホンダ


 だが、「何を前に進むよすがにするか」というところで、2つの方法論が存在することは間違いない。頼るべきは、自分か、先人か。
 今、商品としての航空機を作ろうとしている2つの日本企業、ホンダと三菱重工は、様々な面で対照的な方法論を採用したように思える。
 ホンダが選んだのは、「自分でやってみる」ことだった。アメリカに渡った同社の若い社員達がまず行ったのは「MH02」という双発ジェット機を自分たちで作ることだった。何事も自分たちでやってみないと勘所をつかみ取ることはできない。「まず作る、作る過程で学んでいく」というのが彼らの方法論だった。
 思い起こせば「まず作る、作りながら学ぶ」というのは、創業者の本田宗一郎以来の伝統である。本田宗一郎は大正年間、丁稚奉公をしたアート商会で、主人の榊原郁三の元でレーシングカー制作に参加した。それ以来、彼は作り続けることで企業人としての人生を全うしたと言える。
 敗戦後、まずバタバタと呼ばれた自転車用後付けエンジンを作り、次いでバイクを作り、やがて通産省の政策に刃向かってでも自動車を作り、F1に参戦し、公害対策に邁進し——「自分で作る」という意志のままにホンダという企業は成長してきた。
 その流れの最先端に、ホンダジェットは位置する。 主翼に立てたパイロンの上にエンジンを装備する同機独特のデザインは、私には「自分で作ってみる」精神の発露に見える。それはMH02の経験を経てたどり着いた、「自分で考える、自分でやってみる」方法論の結実だ。
 「自分でやってみる」方法論には、試行錯誤が付きものであり効率は悪い。しかし一方では、先人の陥った先入観から自由でいられるという利点も存在する。
 ホンダ・エアクラフト・カンパニーCEOの藤野道格氏は、あのエンジン配置の問題点も利点も分かっていたと語っている。「トータルではプラスに出来る可能性がある。それに2年かかったわけですね。」という言葉の背後には、あのエンジン配置を発見することができた自由な発想が潜んでいる。

 自由な発想を育んだのは「自分でやる」精神であることは間違いない。従来の航空機設計を学ぶだけでは、あの形には行き着けなかったはずなのだ。
 2005年7月、米ウィスコンシン州オシコシのエアショー。ホンダジェットの初公開は、熱狂的に迎えられた。エアショーの正式名称は、“EAAエアベンチャー・オシコシ”という。主催者のEAAはExperimental Aircraft Association、日本では自作航空機協会などと訳される。つまり、自分で自分の乗る飛行機を自作する人々のお祭りなのである。アメリカには、多数の自作航空機愛好家がいる。飛行機が好きで、自分で自分の機体を制作し、実際に空を飛んでいる。
 ホンダが、ホンダジェットお披露目の場としてEAAエアベンチャー・オシコシを選んだのは、大変な慧眼だった。オシコシの観客は、単に新型機の出現に熱狂したのではないだろう。その姿に、自らと同じ「自分で作る」精神を感じ取ったからこそ、熱狂的にホンダジェットを歓迎したのだろう。


■「徹底的に学ぶ」の三菱重工


 ホンダと対照的に、三菱重工業は「学ぶ」ところから旅客機開発のための足がかりを得た。
 三菱の飛行機作りは、1920年の10式艦上戦闘機から始まる。三菱はこの機体を、イギリスのソッピース社から招いたハーバード・スミス技師の指導で完成させた。
 同時期、すでに民間機の世界では、自作航空機が日本の空を飛んでいる。1911年、ライト兄弟の史上初の飛行から8年後に、奈良原三次は日本初の国産機「奈良原式2号」を成功させている。1920年の時点では、奈良原に学んだ伊藤音次郎がすでに伊藤飛行機研究所を設立し、何機もの航空機を世に送り出している。伊藤門下の山縣豊大郎は、前年に日本人初の宙返りを成功させ、大変な人気者となっていた。
 だが、三菱はその「自分で作る」流れに合流するのではなく、海外から航空機開発を学ぶ道を選んだ。大きな理由は、「軍がそれを望んだから」だ。太平洋戦争前の航空産業は、需要のほぼ総てが軍用だった。財閥系企業として軍の意向を無視することは不可能だった。
 「まず学ぶ。徹底して学ぶ」を実践した三菱が、オリジナリティに到達するまでほぼ15年かかった。東京-ロンドン長距離飛行を行った三菱 雁一型通信機 「神風号・朝風号」、世界一周飛行を行った三菱式双発輸送機「ニッポン号」…だが、これら一見民間航空における成果に見えるものも、実際は軍用機の転用だった。神風号・朝風号の実態は陸軍97式司令部偵察機だったし、ニッポン号も海軍96式陸上攻撃機であった。
 戦前、戦中と三菱の翼は常に軍と共にあった。零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機、百式司令部偵察機、局地戦闘機「雷電」などなど。軍用機の開発の中で、三菱の技術伝統に強烈な刻印が刻まれた。性能重視と、性能目標への極度の最適化だ。
 そして敗戦。アメリカにより航空機製造は禁止され、三菱の技術者は鍋釜や自転車の製造で食いつないだ。しかし、一度刻まれた性能重視と極度の最適化への欲求は消えることがなかった。
 戦後、三菱の航空機事業は、自衛隊向けにノースアメリカンF-86F戦闘機をライセンス生産するところから始まった。その一方で、大きく発展した世界の民間航空に向けて航空機を開発・販売していこうとする動きも始まった。
 だが、その動きは何度となく市場から跳ね返された。オールジャパンの開発体制で挑んだYS-11旅客機、戦後初のビジネス機MU-2、野心的なビジネスジェット機MU-300——どうしても後が続かなかった。
 様々な理由があったことは事実である。YS-11のオールジャパン体制は、ひっくり返して言えば誰も責任を取らない無責任体制だった。MU-2は販売最盛期にドルの変動相場移行や、中東戦争によるオイルショックにぶつかってしまった。MU-300は、開発がちょうど米連邦航空局(FAA)が安全基準を厳しくした時期に当たり、型式認定を取得するのに手間取ってしまった——などなど。
 しかし、根本には、大きな誤解があった。「高性能の航空機を作れば、市場は認めてくれる」という誤解が。より速く、より高く、より優れた運動性を発揮しより遠くへ飛べる飛行機——旧軍のために軍用機を開発する過程で培われた伝統が、民間機開発では逆に三菱を縛ってしまった。
 本当に必要だったのは、高性能機ではない。顧客が満足する飛行機だったのだ。顧客の満足を得るためには、顧客とのねばり強い対話でニーズを汲み上げる必要がある。そして何よりも「誰がお客様なのか」をきちんと把握しなくてはならない。
 YS-11は様々な意味で顧客を満足させることができなかった。サービス体制は不十分で、航空会社への修理用部品の供給は遅れがちだった。あちこちに整備が難しい構造が採用されていて、地上整備員の不興を買った。そして、座席周りのサイズは日本人の体格に合わせてあったので、体の大きな外国人には窮屈すぎた。
 MU-2は762機を生産し、一応の成功を収めたが、化粧室がなかった。このため女性が乗ると大変に困ったという。男しか乗らない軍用機の発想を引きずった結果だった。
 MU-300については、以前アメリカで民間航空関係者に話を聞いたことがある。皆、最初は「零戦の会社の作った飛行機だ」と興味津々でMU-300を購入したのだそうだ。しかし、「使い勝手が悪い」と数年で手放す例が続出した。例えば、飛行場での給油。空港駐機場では、右からの給油と左からの給油の両方があり得る。しかしMU-300は片側にしか給油口がなかったのだという。これに代表される「些細な行き届かなさ」が、性能は一級品であったMU-300を成功から遠ざけた。

■「学ぶ」から「実際に作る」へ。


 業績面で苦闘が続いた三菱は1980年代、再び「学ぶ」という態度に立ち戻った。海外航空機メーカーの下請けに入り、部品を生産しながら航空機開発に必要とされるノウハウを吸収しようとしたのである。1980年代からの30年間は三菱の航空機開発にとって雌伏の時だったといって間違いない。ボーイング767、777、そして787旅客機、カナダ・ボンバーディアの「グローバルエクスプレス」ビジネス機、ダッシュ8Q-400旅客機、CRJ-700旅客機——三菱は主翼など重要部品の設計・製造に食い込み、技術を磨いた。下請けのとしての三菱の評価は世界的に上昇した。ボーイングの最新旅客機787では、世界初の炭素系複合材料性の大型主翼の開発と製造を一手に任されるまでになった。
 しかしそれは同時に、MU-300までの開発で得た、システムとしての航空機を設計できる人材が徐々に退職していなくなるということも意味していた。
 「学ぶ」だけでは航空機を作れない。実際に作らなければ、作る経験は積めない。三菱はどこかで踏み出さねばならないことを自覚しつつも、「学ぶ」ことで30年もの月日を過ごしてしまったのだった。

 MRJ開発のプロジェクト・マネージャーを務める藤本隆史氏は、MU-300開発に携わった最後の1人である。これは決して偶然ではないだろう。技術者の系譜をつないでいかなければ、継続的な航空機ビジネスは覚束ない。MU-300で、システムとしての航空機開発を体験した藤本氏が現役である間に、三菱は次の航空機開発を立ち上げねばならなかったのだ。

 今度こそ、三菱はMRJで継続的な航空機ビジネスの基盤を作り上げることができるのだろうか。今回の取材で興味深い話を聞いた。MRJの胴体サイズに対して、アメリカのカスタマーからクレームが付いた。「このサイズは今のアメリカ人の平均的体格には合っている。しかし、この機体は就航すれば10年、20年と使うわけだが、果たして20年後のアメリカ人の胴回りが平均でどれだけ大きくなっていると思うかね」と。結果、MRJの乗客シートのサイズや胴体直径は「今後20年でアメリカ人がどれだけ太るか」をも考慮して決まったのだという。
 私はこのエピソードに希望を見る。かつての三菱なら、未来の客のことなど想像力の範囲外だったろう。今現在のデータに基づき、ぎりぎりまで機体の性能を追求していたはずだ。それがカスタマーからの希望を受け入れて機体の設計を決めるようになった。
 ホンダなど自動車産業からすれば、「なにを当たり前のことを今さら」といったところだろうが、その当たり前のことを当たり前にできるようになることが、三菱にとって成功のための第一歩なのである。


■チャレンジャーとしての、日本企業


 「自分で作る」のホンダも、「学び、そして作る」の三菱も、共にこれから世界の民間航空市場に挑んでいくことになる。その道のりは共に平坦ではない。機体のサイズも、開発費も異なるが、両社の前に立ちはだかるのは、アメリカをはじめとした諸外国のぶ厚い民間航空の蓄積だ。航空機が生活の道具として当たり前に使われている環境で成長してきたライバル企業であり、市場である。
 2社の挑戦は、同時に「この先、日本は何をもって経済を回し、生きていくのか」という疑問に対して解答を出そうとする試みでもある。戦後日本経済を成長させてきた、家電製品と自動車という2大産業に、今陰りが見えてきている。共にアジア地域からの追い上げを受けており、中でも自動車産業は内燃機関から電動モーターへという大変革が近づいている。ノウハウの蓄積が必要だった内燃機関から、誰でも計算で設計が可能な電動モーターへと動力が切り替われば、日本メーカーの優位性は大きく損なわれることになる。
 航空機は複雑なシステムであり、設計・開発・販売には高度のインテグレーション能力を必要とする。インテグレーションのノウハウは一朝一夕には獲得できないので、21世紀後半にかけての日本の製造業にとって大きな優位性となる可能性を持つ。
 ホンダジェットとMRJが担っているのは、単なる「航空ニッポン」といったイメージだけではない。これら2機種は、日本の産業構造を21世紀型に変えていくための試金石なのだ。

 「自分で作る」を貫徹して、今や市場に手を届かせようとしているホンダ、長い「学ぶ」期間を抜けてやっと「自分で作る」に復帰しつつある三菱——最後に、この2社に興味深い対照性があることを指摘しておこう。
 ホンダは、ホンダジェットのためのエンジンを自ら開発・製造した。自動車メーカーとして、商品差別化のためにエンジンを内製するのはごく普通のことで、他社からエンジンを調達することのほうが珍しい。航空機でも同じ方法を採用し、「自分で作る」を貫いたと言えるかも知れない。
 一方、三菱は、米プラット・アンド・ホイットニーの「ギアード・ターボファン」という新技術を採用したエンジンを採用した。旅客機の世界では自動車とは逆に、機体メーカーとエンジンメーカーが分離しているのは普通だが、ここでは新技術採用のエンジンと言うところに注目したい。ギアード・ターボファンは理論的には高性能が期待できるが、今まさに開発途上の技術だ。
 旅客機にとって、エンジンは性能の基礎となる重要な要素だが、そこで三菱はギアード・ターボファンの採用という冒険をすることで高性能をアピールできる可能性に賭けたといっていいだろう。MRJはあえて新技術の市場におけるテストベッドとなることを選択したのである。

 エンジンまでものすべてを自分たちで作り上げようとするホンダと、主要部品であるエンジンで、他社の新技術に賭けて機体の性能向上を図ろうとする三菱——市場の環境や機体のサイズなど、状況は大きく異なるので、一概にどちらが良いとも悪いとも言い難いのだが、ここに私は「自分で作ってきた企業」と「学び続け、作るに至った企業」、それぞれのぎりぎりの選択を見る。それは「市場で勝つための方法論の違い」と言っても良いかもしれない。
 航空機の開発は息の長い事業だ。それでも2020年頃までには、両社のビジネスの成否が一応の結果として出ているだろう。おそらく私たちは、その結果を、日本経済の浮沈と共に実感することになるのだ。


松浦 晋也
 ノンフィクションライター。1962年、東京都出身。日経BP社記者を経て、現在は主に航空宇宙分野で執筆活動を行っている。著書に火星探査機『のぞみ』 の開発と運用を追った『恐るべき旅路』(朝日新聞社)、スペースシャトルの設計が抱える問題点を指摘した『スペースシャトルの落日』(エクスナレッジ)、 桁外れの趣味人たちをレポートした『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある。

http://smatsu.air-nifty.com/about.html


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取材帰りの名古屋で3人で食べた味噌煮込みうどん。
2010年3月19日

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