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ブルアカ メインストーリーVol.1 2章 12話の魅力について語る

【注意】
 この殴り書きにはブルーアーカイブ メインストーリVol.1のネタバレが含まれています。まだ読んでいない方は先に読んで情緒をぶっ壊してきてください。
 内容は私感で構成されています。

まえがき

 夜中にラジオを聞いていたら「アニメのここが好き!」という話をしており、その中で「別れの場で、それぞれが言う"さよなら"の意味が違う」という内容が耳に入ってきました。

 それは片方にとっては毎日顔を合わせ、日常を過ごす過程で最早ありきたりな(一時の)別れの挨拶としての"さよなら"ですが、
 大きな使命を抱えてこれから死地へ向かうもう片方にとっては「もう会えないだろう、だからこれが最後です」という意味がこもった関係の終了を意味する"さよなら"であり、このコントラストが心を抉ってくる、最高~~という話でした。

 確かにな~と思いつつ、その内容を心の中で反芻していたら急にメインストーリーVol.1 2章12話でホシノが言った『さよなら。』という言葉と、それによって心がズタズタになった自分を思い出しました。
 それで気になって読み返す過程で、メインストーリーVol.1 2章12話良すぎ・・・!となり、ホシノというキャラが魅力的である理由の一部を再発見し、かつそれを言語化できそうだと感じたので忘れないうちに文字起こししようと思ってこれを書いています(現在 AM2:45)。
 2章12話の好きな部分を挙げつつ、そこからホシノというキャラの魅力を探っていく形で進行します。

12話のここ好きポイント① 迫力

 好きポイント①は、「画面を越えて真にホシノが居なくなってしまう事を感じさせる迫力」です。
 先程挙げた『さよなら。』という言葉は、シロコが見つけ出したホシノの退部・退会届の理由を一対一で聞く場面の締めくくりで出てきます。

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 vol.1 2章12話より引用 

 この場面と前後の『……奇跡、かぁ。』『じゃあ、また明日。先生。』『さよなら。』、それに対する先生の対応と、ここに挟まれている間の取り方だけで、ホシノが手をすり抜けて届かない所へ行ってしまう!!という事を思わせる迫力があります。
 特に、『さよなら。』の後の間の取り方。やばすぎる。リアルに自分が先生としてそこに居て、「あ、ここ絶対引き止めないと一生後悔する事になる」という思考をして、その結果なんとかひねり出したセリフでホシノを呼び止めるまでに必要な時間が丁度ぴっっっっったり取られていると感じました。

ちなみに私はこの時
「え!?『さよなら。』って絶対居なくなっちゃうじゃん!やばいって!先生!なんとか呼び止めて!止めろ!いや画面暗転しないで!!終わった・・・」
となり、
「先生のセリフ来た!!よし!!勝った!!セーフ!!」
「いや呼び止めれたし救えた・・・か・・・?頼む救えたよな!?頼む頼む頼む・・・」
って思いながら読み進め、
直後ホシノが居なくなってしまっていて
「救えてないじゃん!!!!!!!また明日って言ったのに!!!!」
となり、情緒が壊れました。
この情緒のジェットコースター。サウナと冷水風呂の交互浴か?副交感神経整ったな。

12話のここ好きポイント② 二面性

 好きポイント②は「ホシノというキャラの二面性を綺麗に表現している事」です。
 先程も言及しましたが、先生とのやり取りの中で『奇跡でも起きてくれれば良いんだけど……』『奇跡、かぁ。』とホシノがつぶやくシーンがあります。これを見て想起する会話があります。12話冒頭のユメ先輩との回想シーンです。

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vol.1 2章12話より引用

 また、"奇跡"について言及されるのはこの部分だけではありません。19話にも"奇跡"について語られる部分があります。

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vol.1 2章19話より引用 

 私がストーリーを読みながらこれらの"奇跡"について語られる部分を想起したように、ホシノも『奇跡でも起きてくれれば良いんだけど……』とつぶやくと同時にこの会話を思い出したのではないでしょうか。

 この後、ホシノは黒服の要求をのみ、自身を引き渡すことで(実際には罠でしたが)アビドスを守るという選択を取りました。この選択が、ホシノとユメ先輩それぞれの"奇跡"観 両方の上に成り立っていると感じました。

 現在の(=三年生の)ホシノというキャラを語る上で「二面性」というワードが最も適しているように思われます。ストーリーの中で、ホシノは普段はおちゃらけている振る舞いを見せますが、それでいてお金を盗むことに理論的に反対したり、仲間が襲われた時に真っ先に行動したりと、非常に現実主義的な側面を見せます。
 この「おちゃらけている」面はユメ先輩ゆずりの、そして現実主義な面はユメ先輩と対策委員会を運営していた時(=過去のホシノ)ゆずりのものだと考えられます。普段表に見せるのはこのユメ先輩から来ている顔であり、行動決定は基本的に過去ホシノから来ている部分が担っている、といった感じでしょうか。

 さて、ユメ先輩にとって、"奇跡"は『毎日当たり前の日々を過ごす事』でした。これは19話の回想シーンで語られています。しかし現実主義者である過去ホシノにとって"奇跡"は、『起きっこない』ものでした。
 これを踏まえ、改めてホシノが取った行動を考えると、「ユメ先輩が教えてくれた奇跡」である『(アビドス対策委員会の)当たり前の日常』を守るための選択であり、
 なおかつ「現実主義者の側面」としての『奇跡なんて起きっこ無い(だから自分を犠牲にするしか無い)』という、一見相反する理由が同時に綺麗に噛み合って存在しており、まさにホシノの「二面性」を美しく表現した場面だと考えました。

12話のここ好きポイント③ 一人称

 好きポイント③は「ホシノの一人称が変化する事」です。

 ストーリーを通して、ホシノの一人称はずっと「おじさん」でした。

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vol.1 1章3話より引用

 しかし、先生と一対一で話す場面で、ホシノは自身の事を「私」と呼びます。

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vol.1 2章12話より引用 

 この話をする時、ホシノは『先生、正直に話すよ。』という言葉を枕にしています。とすると、真面目な話をする時は「おじさん」ではなく、「私」なのでしょう。その証拠に、銀行を襲った後(1章15話)のシーンでの一人称も「私」になっています。

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vol.1 1章15話より引用

 「真面目な話」と言いましたが、これを正確に分析すると、ポイント②でも挙げた「過去ホシノ」の現実主義的側面が強く出ている際に一人称が「私」に変化すると考えられます。
 「過去ホシノ」がどんな経験を経て、今のホシノとなったかはまだ全てが定かでは無いですが、おそらく想像を絶するような苦難に数多く直面してきたのでしょう。その苦難を乗り越え、今の"奇跡"のような(昔より遥かに安定した)日常を送るホシノの用いる「おじさん」という一人称を使わず、あえてその辛い過去の「私」という一人称を使う。この「私」という一人称を使う事に込められた重みが、特にシリアスに、鋭く刺さる場面がこの12話だと感じました。

まとめ

 ブルアカのストーリーはボイスが無く、効果音と背景、立ち絵の動き、そして時々挟まるスチル画像等で構成されています。
 それらが高次元で融合され、ホシノが居なくなると真に思わせる間の取り方だったり、キャラの性格が"奇跡"という一つのワードで展開する事により、それぞれのパーツを想起しやすくなっていたりと、ブルアカのストーリーを読んでいて特に感じる「画面の向こうの我々の脳を働かせて来る感じ」→「没入感」が最も高密度で得られるのがVol.1 2章 12話だと思います。これを見た先生方、是非読み返してみて下さい。本当に最高です。マジで。

あとがき

 私はブルーアーカイブが初めて「オタクとして狂う事が出来る作品」だったのですが、それでTwitterアカウントを作成して一番驚いた事が、
「先生方の感想の言語化能力高すぎ・・・」
 という事でした。常日頃、人に何かコンテンツを勧める為にはその物の良い点を上手いこと言い表さなければならない事に苦戦していましたが、オタクとして作品に狂い始めてこの悩みが顕著になりました。
 「ブルーアーカイブ良すぎ!!!!だけどどういう風に良いか言えん・・・」
 苦手克服の一歩として、今回なんとか感じたことを言語化してみました。こういった事を書くのは初めてなので、読みづらい等ありましたら申し訳ありません。

 で。これを公開する上で、何かしら反応があれば良いな、と思います。この前「ブルアカについてただ語るスペース」を作って先生方と喋る機会を得たのですが、マジで自分では気づかない発見が沢山あって感動しました(例えば陸八魔アルの名前の由来とか)。
 この書き殴りに対する反論でも構いません。先生方との交流を広げて、さらに解釈を深めるための一歩にもなって欲しい。ただそう願います。

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