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嵐が耳に

 嵐のあくる朝湖へ向かう。走りたいのを堪えて歩く。深く息をして空気を体にめぐらせる。浜には薄紫の見慣れない巻き貝が多く打ち上げられ、流木や藻屑は小山のよう。良い兆しだ。
 飛込岩にニオの下駄を見つける。近頃先を越されてばかりいる。そばには赤い土器片や青灰色の陶片が四つ並んで鮮やかに濡れている。小さな無地の物ばかりでほっとする。
 嵐が来ると体中そわそわして何も手につかない。湖の底が動き、かつて沈んだつきや椀や壺などの遺物が深い水底から舞い上がる。何十回と潜り、出会った土器片に古代人の指の跡を見つけた興奮はたとえようもない。早く潜りたいが今は見張りだ。俯せに寝転んで浮上を待つ。今朝の加賀美湖は本当に鏡に見える。湖面の空は静かに息づいている。
 水に映る自分とにらめっこをしていると、水面のわたしが歪んでニオが顔を出す。〈一人でずるい〉とさっそく抗議する。ニオは岩に這い上がり、袋網を置いて〈遅いのが悪い〉と言う。勢い水がわたしの髪や額にかかる。〈家がうるさいの〉と返す。どちらの親も娘がかずき狂いになったと泣いていて、ニオの両親はもう諦めている。今この湖の潜き手は二人だけだ。みんなもういない。耳を壊して、まっすぐ歩けなくなって、命を落として。勇敢すぎたのだ。
 ニオがぼんやりしているので〈どうしたの〉と指を振る。ニオは右耳の底が破れているし、わたしも耳鳴りがある。それに潜るときは耳栓をするから、話は身振りと表情でやる。〈さっき何か掴んだのに落としてしまった。丸くて平たくて重たかった。ずっと昔の手触りだった。ずっとずうっと昔の〉。その日は午近くまで潜って、器の欠片しか揚がらない。帰り道にぼやくので〈まだ言ってる〉とからかうと、〈笑うなよ。光って見えたんだよ〉と首を振る。
 次の日も二人で交代に潜る。わたしは波模様の小皿と、すり磨き紋のついた壺の首を見つけるが、ミオは例のマルクテヒラタクテを探している。しまいにはめまいを起こして昼飯を吐き、岩に横たわる。わたしは重しの石を抱いて飛びこむ。ちょっと妙な気が起きる。ニオが潜る場所と時間から、およその目星はついている。
 二度は空振りに終わる。三度目にそれが触れる。鰓なき者を拒む水と土の中で、人に触れた感覚に驚き、ごぼっと空気をこぼしてしまう。手を伸ばす。壊れかけの耳が鈴の音を聞く。それは岩と岩の間に挟まれている。押してみるが体が浮いて踏ん張れない。岩がかしぐ。もう少し。息が尽きてくる。上がろうか。でも、もう少し。もう少しだけ。手を使い足を使い、一瞬上下がわからなくなる。落ち着いて。落ち着かないと。潜るときに大切なのはひとつだけだ、気をしっかりと保つことだ、正気でもそうじゃなくても。気を失いそうになり、胸を拳で何度も叩き、引き抜くと同時に底を蹴る。頭の中で何かがぷちぷち破れる。口からあぶくが吹き出す。泡はすごい速さで逃げる。置いていかないで。息がもたない。胸が苦しい。上へ上へ。痛い。痛い。空気。水面。光。手。
 思い切り息を吸いこむと、頭と耳と腰と背骨がひどく痛む。這い上がりながら罵倒し、のたうちまわる。痛みのあまり幻を見る。割れた頭から醜い雛が二羽三羽とこぼれる。ニオが走ってくる。立ち止まり、わたしの手の中にある物を見つけて顔色を変える。こわばる手を開いてようやくそれを眺める。黒ずんだ銅鏡だ。完璧な弧。蔓草を思わせる緻密な文様。半分が大きく欠け、鈍い光を放っている。ニオが腕を振り上げるよりも早く、ニオの気持ちが波のように押し寄せる。
〈盗人!〉
 鼻の奥がつんとする。わたしは息も絶え絶えにへらへら笑って、鏡を握った手を脇の下に隠す。ニオは地団駄を踏む。〈お前のじゃない。返せ。返せよ!〉ニオは、蹴る。わたしの鳩尾を。わたしは飲んだ水を吐いてあおのけに倒れる。頬に二発、脇腹に一発拳が入る。殴るのに夢中で隙だらけの脚をすくいあげて転ばし、体当たりで湖に突き飛ばす。落ちざまにニオが何やら呪詛を吐く。立ち泳ぎでもがくニオに向かって身を乗り出し、歯をむき出しにして、欠けた銅鏡に齧りつく真似をする。ニオが水面を殴るのを見るや一目散に走り去る。逃げながら銅鏡の真ん中にある丸いつるつるした突起を親指で撫でる。舌の先で舐めてもみる。いつの間にか頬がすうすうして、涙が垂れているのに気づく。頭の中に金の靄がたなびくようで、もうどこも痛くない。
 夜が来ると金の靄は消え去って、寝床で痛みと熱にうなされる。銅鏡を抱いたまま呻くわたしに父母は呆れ、枕元に粥の椀を置いていく。熱の谷間に夢を見る。幼い頃の夢。ニオと浅瀬で遊んでいる。腰まで水につかり、手足でぱしゃぱしゃ飛沫しぶきを立てて、それだけのことがむしょうに面白い。手をつないで水中をのぞきこむ。小魚の群れがそばを通り過ぎ、足の甲にたくさんの影をつくって、わたしたちはくすぐったさに声を上げて笑う。二晩うなされている間に大嵐がやってきて、そして去る。わたしは暗いうちに家を抜け出し、ふらつく足で湖へ向かう。耳鳴りはずっとひどくなっている。もうほとんど聞こえない。嵐は今や耳の中にある。耳鳴りとして、めまいとしてある。
 夜明けの浜にニオが立っている。笑みと怒りの混じった表情をしている。もうひとつ何か混じっている気がするけれどわからない。まわりに丸くて平たい物が散らばっている。しゃがんで一つの砂を払うと、それは銅鏡で、ほぼ完全な形をしている。割れたのや欠けたのがそこらじゅうに打ち上がっている。わたしは銅鏡を投げ捨てる。ニオは歩きだす。ふたりで重しの石を探し始める。

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この作品は2021年のブンゲイファイトクラブ3投稿作品です。

朗読:2021/11/03 犬と街灯とラジオ 37:30~


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