【番外編】今ここにいる自分を、きっと誰もが信じてたいのさ。

2021/06/13(日)

番外編二本目。

私が「ミスチルに気付かされたこと。」を書くだけの、日記とは言えない、ただの読み物です。

-あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしている
知らぬ間に築いていた 自分らしさの檻の中でもがいてるなら 僕だってそうなんだ

この曲は、有名ですね。
このフレーズは、多分多くの人が聴いたことのある曲の、一番のサビ。

誰かが言う「自分らしく生きたい」だとか「本当の自分が見つからない」だとか、正直、昨今の私は"くだらない"と思っています。

思ったよりも人はみんな、自分の思うように生きてるのになぁ、とも。

よく言う「敷かれたレール」とやらに乗るのは、とても賢いと思うし、何かに縛られている不自由さの代償に、ある程度の安全と近道を手に入れる、"人生イージーモード設定"ですら、あると思う。

そんなイージーモードの中で、意外とみんな、ちゃんと自分の好きなものを選んでいる。
本当に嫌なものには、嫌な顔をしたりするし、うまく遠ざけたり、逃げたりする。
自然の多い環境で生きたいと思っても、虫が嫌いだからボロボロの穴だらけの家には住まない。と言う選択は、紛れもなく誰かが決めることじゃない。

そのくせ、自分のせいにしたくないものには、理由をつけて、
何かの、誰かのせいにして。
そしてまた決まって「あるがままで生きたい」なんて言ってみせる。

自分の選んだ、小さな小さな選択を忘れて、
さも自分は何も選べなかったかのように、大きな選択をしてくれた誰かばかりを責めて。
そうやって自分が選択したことに目を背けて、逃げることで、「自分らしく生きれていない」ように感じるから、また「自分らしさ」を求めてる。

「"自分らしさ"の檻」その中でもがくのは、あまりにアホらしい。

私はよく色んな人に「心のままでいいね〜」とか、「あなたらしく生きてるね〜」と言われるけど、
誰かの思う"あなたらしさ"が、私の思う"自分らしさ"とは限らない。
私にだって自分が「心のまま」に生きれているかなんて、分からない。

それでも誰かから見た私が、生き生きとして見えて、その人のエネルギーになれていたなら、それはそれで嬉しいです。

「自分らしさ」なんていう、曖昧なものは、きっと、
いつまで経っても分かりっこない。
その完璧さを求めるほどに、どんどん分からなくなって、また見失う。

だから、今ここにいる自分を受け入れながら、
自分が許してあげられるくらいの嘘を身を纏いながら、時には周囲に身を任せて、自分自身を程よく解放していくと、なんとなく、それっぽく生きてれているように思えるんじゃないかと思うんだ。

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