見出し画像

『正義が齎す悪夢』

此のテーマを扱う時、忘れてはならないのが『復習するは我にあり』の原作である『西口 彰 事件』である。 稀代の詐欺師として6人を殺害した昭和の大悪人を生んだのは意外にも公園見回りの警察官が発した何気ない一言であった。 敬虔なクリスチャンで田舎から集団就職で都会へ出るも都会の水に馴染めず解雇となり公園を根城としていた。 偶々見回りの警官に見つかり職務質問を受け追い詰められた彼は警官の銃を奪い発砲。 それからが彼の転落人生の始まりであった。 もしもあの時見回り警官が優しく保護していたら恐らく此の陰惨な事件は起きなかったであろう。 余りにも職務に忠実な警官の極めて機械的な対応が生んだ悲劇と言えなくもない。 勿論それが人を殺める理由になる筈もない。 どんな不幸な境遇にいてもどんな悲惨な過去を持っていてもそれが人を殺める理由にはならない。 されど時に過剰な善意は悪を産み出す結果となる事をそれを職業にする方々は私を含め失念すべきではないと考える。 『社会的逸脱者』平たく言えば『アウトサイダー』が多く我が門を潜る。 その多くはとても機械的に無慈悲に己の職務を全うする無理解な大人によって否応なしに『悪』だと決めつけられその道を歩まされた者達である。 彼ら彼女らが侵した罪は一つ。 親や教師が敷いたレールを走らず逸脱した事だけである。 勿論軽微な犯罪歴を持つ者も居る。 だが戦前戦後の日本等はそれを刑罰とは出来ぬ程生きる為にそれを行わなければならなかった方々に溢れていた。 今、偉そうにふんぞり返って能書きを垂れる人間の中にもそれら軽微な犯罪歴を持つ者も居る筈である。 忘れてはならない事は人により持つ正義が違うという事である。 或る人間にとっての正義は或る人間にとっての悪である。 確かにそれを言えば切りがなくなる。 それを防ぐ為に法律があり大枠が存在する。 されどそれも大枠でしかなくそれらの解釈は法曹人の裁量に委ねられる。 同じ罪を犯しても保釈される者も居れば保釈されない者も居る。 罪は同じ罪である。 だがその同じ罪によって社会に与える影響はそれぞれ違う。 『社会的影響度』これが保釈を決める決め手となる。 だがこの『社会的影響度』という物に明確な基準は存在しない。 それ故の悲劇を私は何度も見てきた。 正義も法律もそれを行うのは人である。 人である限り完璧はあり得ない。 人が人を裁くのではなく法が人を裁くのである。 だがその法律を作っているのは本来裁く権利のない人間であるという最大矛盾が此処には存在する。 私は常、その意味において善悪とは何か?正しさとは何か?間違いとは何か?を自問自答しながら日々を生きている。 その答えは未だ出てこない。 去れど私はこれからもその答えを探し続け求め続けたいと願う。 それが人が生きるという事だと私は信じて疑わない。 

サポート頂いた方の思いを私なりに形にし世界へ発信していきたいと考えています。人は思いによって生かされている事を世界へ発進する為の資金に使わせて頂きます。