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誤認の心理学~或いは容認の心理学~

題名は厳ついですが内容は何時ものように緩々です
(何せ書いている人間が超ゆるゆる人間ですから^^;)。

題名の例で一番顕著な例は『醜形恐怖症』がその類に当てはまります。

大抵『醜形恐怖症』に陥る人の多くは『醜形』では無いと言う事実。

大抵『醜形恐怖症』に陥る人の多くは『美形』であるという事実。

ですが余りに『美形』過ぎ『美形で無い方々』により幼少期より『美形ではない』という刷り込みをされている人達。

それが『醜形恐怖症』に悩む同胞たちです。

彼ら・彼女らは頑なに自らが『美しい存在』である事を拒みます、それは過去のトラウマが原因です。
綺麗であれば有る程その傾向は強く、幾ら”綺麗だ”と言っても左右に激しく頭を振ります。

ならばどうするか?一旦彼ら・彼女らの意見を『容認』するのです。

彼ら・彼女らの周りに居る人たち(家族や御味方)は勿論”綺麗”だとか”カッコイイ”とか言います(其れが事実だから)

ですが彼ら・彼女らの目には”真実”が映らない。
それは過去何年間にも渡り”刷り込み”で植えつけられた”醜い”という悪い言葉の種のせいです。

なれば逆刷り込みでそれらを除去してしまえばいい。

私は彼ら・彼女らの意見を一旦は受け入れます。
”うんうん、確かに美しくないよね、○○さんや○○君程にはね。でもさ、ああいう商業的な美しさをアナタは求めてるの? 商業第一主義で商品価値としての価値は高いけど人間的価値の無い存在を求めているの?だとしたら随分つまらない人だね、そして勿体無い人だ”と。

相手は一旦は自らの意見が認められるもその後全否定される事に深い衝撃を覚えます。

これこそが私が狙う”ディストラクション”つまり”悪い土壌の破壊”です。

専門家の先生が”つまらない人”だといった。ならばその”つまらない人”は本当だ。でも私はそんなつまらない人にはなりたくない。醜くて更につまらない人なんて最悪じゃないか”と言う風に心を持っていくのです。

そうなれば”つまらない人じゃない人”を目指せばいい、そして彼ら・彼女らの心に”美の種”を植え付けるのです。

何の事は無い”事実”を見せれば良いだけの話。但し”段階的に”に。

一度に見せてもどうせ又全否定に走るのです、でも徐々に見せて行き”美しくなる過程”を見せていけば抵抗感は少なく容認度も増していきます。

そうして長い時間を掛けて我々は”醜形恐怖症”を完治まで導いていくのです。

完治した後の彼ら・彼女らは一人の例外も無く言います。
”私をここまで綺麗にして下さったのは他の誰でもない先生。本当に有難うと”。

私は返します。
”いいえ、アナタを此処まで美しくしたのは私ではなくアナタ自身です。アナタ自身がアナタの中に眠る”美の種”を発芽させ育てそして”美しさの花”を咲かせた。私はその土壌作りをしたに過ぎません。本当に賞賛を得るべきはアナタです”と。

そうして彼ら・彼女らは来た時とは全く見違えるほど威風堂々として我が門を颯爽と去っていかれるのです。

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