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「百書店大賞」についてやや蛇足めいた覚え書き

「大賞」って甘美なひびきで、ぼくは結構好きです。毎年楽しみにしているのはSFマガジンの「ベストSF」で、今年はコレなんじゃないかなー、って結構予想したりもしています。文学賞とかも、ミーハーなんで、受賞作読んだりします。ちょっと違うけど、オリンピックとか、野球の優勝とか、そういうのももちろん好きで、頑張ったからいいじゃないみたいな考え方はむしろ嫌いです(本人が満足してるならいいんですけど、他人が言うのは、ね)。だって、頑張れるじゃないですか、目標があると。そこを目指すんだっていうのとか、多くの人から一番評価されたんだ、っていうのは、そりゃもう夢がある話です。

で、好きなんですけれども、じゃあそれだけでいいかっていうのはぜんぜん別だとも思ってます。「受賞作ください」って本屋に人が集まるのはもちろん大賞の目的なんですけど、ぼくたち本屋は受賞作だけ売りたいわけじゃないわけじゃないですか。受賞作をきっかけに本屋に来てもらって、なんなら他の本も見てほしい。そうやって「次」につながってほしい。だから関連書コーナーとか、一生懸命作るわけで。受賞、っていうのは、一つのきっかけでしかないんですよね。

あと、集約と大衆化の問題、みたいなのもあるなぁって思っていて。ある専門家集団が受賞作を決める、っていうのが一般的な大賞ですけど、どうしても囲われているというか、「え? なんで? なんでこれ?」みたいな気持ちが常に誰かにはあって、まぁそれしょうがないんですけど、密室っていうのがそういう気持ちの要因だと思うんですよね。じゃあみんなで大賞決めよう、っていうのがそれはそれであるんですけど、選者が広がれば広がるほど、のっぺりしてくるっていうか、一般化してきますよね。尖っている選者が薄まっていっちゃうから、「え、もうこれ売れてるじゃん」みたいに本好きから思われて、「や、でも普段本読まない人にもっと読まれてほしいんだよ」って反論があったり。これもしょうがないんですけど。

だからね、もうね、これ全部見せちゃえばいいんじゃないかって。強弱も含めて、リアルな売り場にしちゃえばいいんじゃないかって。
そう思うんですよ、っていうか、書いてて思ったんですけど、『日本国紀』を巡って売る売らないってあるじゃないですか。「この本屋は強く押しているからもうなにも買わない」「いや、メインの売り場はそうだけど、カウンターの本だってたくさん売ってくれてるんだ」って、そういう議論。思うんですけど、「個」じゃないんですよ本屋って。あるいは「点」じゃないっていうか。全体を形作っているものがある。それを見て、やっぱ嫌いと思うか、そうじゃないか、の話がしたい。
個人的なことを書くと、仕事場へ行く途中に寄れることもあって、よく行っていたんですけど、どうしても萎えるんで、積極的には買わなくなりました。萎えるっていうのは具体的には「BRUTUSのコーヒー特集ほしいなぁ、あそこ寄れるけど、うーん、どこでも買えるしほかの本屋にしようかな」ってなるということ。でも行ったときに「あ、こんなの出てたんだ、面だししてくれて気づいたよー、ありがとー」って思ったらその場所で迷わず買います。そのくらいの距離感。
話を戻すと、売り場は世界の縮図だと思っていて、いまあれが大きく展開されて売れている(ように見せられている)ことも、実はみえてなかった、50万人もそういう人いるんだっていう、一つの事実で、だから、「ダメだから行かない、見ない」って、それを覆い隠すのも違うなって思うんですよ。だからね、もうね、「百書店大賞」で100冊募集あったとして、50冊が『日本国紀』でもいいと思うんですよ。もし一冊の「大賞」だとすると、そこしかみえない。「個」しか映らない。でもきっと、こぼれ落ちていた50冊のなかに、とっても素敵な、世界に希望を持てるような本がたくさんある。あるはずだし、あるからぼくらは本屋をやっている。みんなもそうだと思いたい。思いたいから、こぼさずにすくい上げたい。世界全部、まるっとあるがままで。絶望しないで、安易な否定や拒絶もしないで、すくい上げたものを大切に育てていけば、頑張れるんじゃないかって。頑張れるはずですよ、大賞があれば、目標があれば、小さくてもみえていれば。

そういう感じの「大賞」にしていきたいです。


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