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セゴビア水道橋の考察あるいは水道橋から考察したセゴビア

 私がセゴビア(Segovia)を再訪したのは、この4月の末のことである。1988年に半日ばかり滞在して以来だから、実に34年ぶりの訪問だった。
 マドリッド(Madrid)の北87㎞に位置するセゴビアには、ローマ時代に築かれた水道橋が、ほぼ完璧な形で残されている。今回はその水道橋と、たっぷりと時間をかけて対峙することができた。新たに得られた知識や気付き気付かされたことどもがいろいろとあるのは、何度か現場に足を運び、納得いくまでそこに身を置いたからこそである。さらに旅から戻った後で、確証を得る目的で、またもう少し理解を深める為に、調べてみたテーマもある。それらを基に、私なりにセゴビア水道橋を考察し、そしてそこからセゴビアの町自体にも若干の考察を加えてみようというのが、このリポートの趣旨である。
 
 セゴビアの水道橋は、人口51千の町のど真ん中にある。見上げるような石の橋が、800m強にわたって市街地を貫く。圧倒的な存在感のある水道橋が、無理なく市中の光景の一部と化しているのは、恐らくセゴビアだけだろう。

 水道橋は、上水路が谷や窪地を跨がざるを得ない場合に建設される。だから通常、水道橋が残されているのは当時峡谷であったり窪地であったりした場所で、多くは現在の市街地からはかなり離れた所にある。逆に言うと、町の中心部に水道橋が残っているのは例外中の例外なのだ。その極めて稀有なケースがセゴビアなのである。
 セゴビアの水道橋は、アソゲホ広場(Plaza del Azoguejo)を縦断し、すぐ北側にある旧市街まで続く。水道橋で分断された形の広場の東側にも西側にも、市街地が広がっている。旧市街があるのは小高い丘の上だが、その方角を除けば、広場の周囲は全般に起伏がほとんどない市街地である。そんな場所に、最も高い所で28.5mもある「橋」が、なぜあるのか? 水道橋と市街地が融和し、その光景に誰も違和感を覚えないように見えるセゴビアで、この問いを発するのはやや無粋かもしれない。が、私としてはちゃんと納得のいく説明が欲しいのだ。
 このセゴビアの水道橋が築かれたのは、1世紀から2世紀にかけてとされている。ローマ人達は水源を、セゴビアの東から南にかけて連なるグアダラマ山脈(La Sierra de Guadarrama)近くに求めた。彼らはそこから15㎞にわたって、平均傾斜1%の水路を敷設していく。この水路と途中に二ヵ所設けられた貯水槽は、今も残っているようである。
 この15㎞に及ぶ上水路を曳いてくることを決めた時、ローマ人達には、自分達が居住する高台の手前にある広い窪地にその水路を渡すにはどうすべきか、明確なアイデアがあったはずだ。水が自然に流れるには、ここでも1%程度の傾きを継続させねばならない。つまりは水路の高さを、窪地の前及び後ろの高さと同程度に保つ必要があるということだ。だからローマ人達は当初から、そこに橋を建設し、その上に水路を通す計画だったに違いない。かくて、800m強の水道橋が、その窪地に建造されたのである。規模や難度から考えると、この架橋工事が水路敷設に先行したのではないだろうか。いずれにしても、こうして水路は目的地である居住区に到達する。そこからは地下水路となるのである。
 私はここまで「窪地」と称してきたが、そこが河川敷であった可能性はある。たとえそうだとしても、既に水の流れが絶えてしまった涸れ川の河川敷だったはずだ。もしそこに川があったのなら、ローマ人達は15㎞もの彼方からわざわざ水を曳いてくる必要はなかっただろう。
 現在のセゴビア旧市街は、約3㎞の城壁に囲まれた東西1.4㎞南北0.6㎞の楕円形の地区であるが、そこが当時のローマ人達の居住地であった。城壁は彼らが築き、その後11世紀にアラブ人達によって再建されたものである。その城壁の外に町が広がり始めたのは、キリスト教徒がこの地を奪回した11世紀末以降のようで、人口が27,000人に達していたとされる16世紀の終わり頃までには、水道橋の周りの窪地は既に市街地化されていたものと思われる。
 肝腎な点は、かつてのローマ人居住区の手前に窪地があったということで、そこは地理的に早晩市街地化される運命にあったのだ。建設後1,000年程度は、何もない窪地を渡る水道橋はまさに「橋」だったのではないか。その水道橋を挟む形で町が拡大していくに及んで、巨大な「橋」が市中の光景と化していったのだろう。
 水道橋と市街地が共存を始めてから、既に500年以上が経過している。そこに橋がある光景が至極当り前のものとなって久しいが故に、「そこになぜ橋が?」との疑問は、誰にももう生じないのだろう。が、その当り前の事象への「なぜ」は、水道橋の生い立ちを知る上で、いわば原点のような問いではないだろうか。だからこそ私は、こうしてその「なぜ?」に拘ったのである。
 
 さてここで、セゴビア水道橋の概観的なデータを提示しておきたい。この水道橋は二段アーチ構造で、全部で167のアーチを有する。最も高い所は28.5m、全長は818mである。使われているのは花崗岩で、その数約2万400個。建築年代は特定されていないが、紀元1世紀末から2世紀の初めにかけてとされている。
 その2万400個の花崗岩は、15㎞以上離れたグアダラマ山系から切り出された。恐らく何千人もの労働力と数ヶ月に及ぶ時間を費やして搬出され搬送された花崗岩は、目的に合わせて切断され研磨されて石材となる。その石材を、漆喰等の接着剤を一切使用せずに積み上げていく工法で、ローマ人達はこの巨大な水道橋を築き上げたのである。
 ローマ人が高い土木建築技術を有していたことは通説となっているが、この水道橋の難工事は、彼らの真骨頂が発揮された好例と言えるのではないだろうか。
 この工事では、一個が300㎏を下らなかったであろう石を、最大28.5mの高さまで運び上げねばならなかった。運び上げられたそれらの石を今度は、決められた角度で精巧に積み重ねていかねばならない。
 一般的な解説では、ローマ人達は巨石を空中に持ち上げるのに、滑車と大きな車輪そして大型のやっとこを備えた、今で言うクレーンのような機械を使ったとされている。滑車・車輪・やっとこそれぞれの役割は想像がつくのだが、それらが組み合わさったクレーンの全体像が、私には見えてこない。こういう時、インターネットは有難い。検索してみると、予想に違わず「なるほど!」と思わせるイラストが画面に現れた。ここではその想像図を拝借することで、説明に代えたい。全体像をつかめない私が百の説明文を連ねても、この図には遠く及ばないのだから。

(インターネットより借用)

 水道橋に近づき、積み上げられた石を一つ一つ観察してみると、全ての石にいくつかの穴が穿たれているのが見てとれる。これらはやっとこで強力に挟まれた傷跡である。

 ただ、その「挟力」とでも言うべき強い力を、ローマ人達はどのようにしてやっとこに与えたのだろう? また、高く吊り上げられた石があらかじめ決められた位置に達した時、どんな方法でやっとこを緩めたのだろう? くだんの想像図は残念ながら、やっとこの操作法までは語ってくれない。この問いへの答となるような説は、多分種々出されているのだろうが、それらに接していない私には疑問符が付いたままである。
 いずれにしても、個々の石を高所まで吊り上げ運び上げたのが、大型のやっとこを備えたクレーン状の装置であったことはわかった。が、その直後の工程である石の積み重ねには、高い精度が要求されたはずだ。なぜなら、その精度こそが橋の強度を高め、橋を堅固なものにするからである。この極めて重要な積み重ねの精度を、彼らはどんな方法で実現したのだろう? この問いにも技術的な答はちゃんとあるのかもしれない。が、私としては、その問いは問いのまま敢えて残した上で、ここでは技術とは表裏一体の関係にある土木工学あるいは建築工学の分野に言及したいのだ。
 ローマ時代の遺物や遺構が多々各地にあるが故に、ローマ人達の土木建築技術の方にどうしても目がいきがちだが、優れた建造物は工学と技術の合体の産物であることを忘れてはならない。だからローマ帝国には、進んだ土木建築工学に通暁したエンジニアが少なからずいたはずだし、高レベルのエンジニアを養成する教育システムも整っていたのだろう。力学的工学的な高度で複雑な計算をこなすエンジニア達は、あらゆる建造物の計画設計に携わったに違いない。ローマ帝国の領土がヨーロッパのほぼ全域にまで広がっていた時代には、各地から土木建築技師派遣の要請が、引きも切らなかったのではないだろうか。ローマ帝国は、それらの要請に応じられるだけの多数のエンジニアを常時かかえていたということだろう。
 セゴビアにも、現地からの要請を受けて何人かの土木建築技師が派遣されていたはずだ。彼らは、土質を調査し、構造計算を行い、アーチの形状と数を決め、水道橋全体の設計図を引いた上で、石の形とサイズ、その組合せ、積み上げる位置、積み重ねの方式等の綿密な図面も作成したのではないか。例のクレーン状の機械の設計も彼らが担ったのかもしれない。
 寸分の狂いもないような精度で石を積み重ねていくのが技術なら、その精度を計算で示すのが工学である。橋を建造するのが技術なら、2,000年もの年月に耐えうる堅牢な構造を、力学的な計算を駆使して決めていくのが工学である。セゴビアの水道橋は、ローマ帝国では、土木建築技術だけでなく土木工学・建築工学も高水準に達していたことを物語っている。ローマ時代の建造物に接する時、私達は、この工学分野の寄与なくして土木事業も建築事業も成り立たなかったことを忘れるべきではないだろう。
 
 インターネットを通じて目を通したいくつかの資料によれば、ローマ人達にとってセゴビアの町は最終的には要地とならなかったとある。果たして実際にそうだったのだろうか? その根拠はどこにあるのだろう?
 確かにセゴビアの旧市街では、ローマ時代の遺構はほとんど発見されていないようである。遺構は当時の町の規模や繫栄度を測る物的な証拠なのだが、それがないことから、セゴビアは重要な町に成り得なかったとされているのかもしれない。だが、遺構が見つかっていないからと言って遺構がないとは言えない。今は物理的に発掘が不可能に見えるセゴビア旧市街の地下深くに、当時の住居跡が埋まっている可能性は捨てきれない。私には、遺構の有無のみを根拠として当時の町の重要度を測るべきではないような気がしてならない。
 セゴビアの場合、長い上水路と巨大な水道橋が存在する。15㎞もの彼方から、最大限の能力と労力そして時間を惜しみなく投入し、人的な犠牲をもいとわず、水路を敷設し、長大な水道橋を架けてまで、ローマ人達が水を曳いてきたのがセゴビアの町だった。これはつまり、セゴビアが彼らにとって必要不可欠な場所だったことを意味していないか? そう解釈しないと、水を曳く為の大事業を成就した彼らの意図を説明できない。
 私は、セゴビアは何らかの重要な機能を持たされた町で、それが故にローマ人達は上水路の敷設に拘ったのだと推測している。発掘が可能であるのなら、セゴビアの旧市街からは、ローマ時代の遺構が多々現れるに違いないとすら考えているのである。
 
                              以上
 

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