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ガリシア風土記 その1:オブラドイロ広場~巡礼の道が終る所


ガリシア風土記 その1:オブラドイロ広場~巡礼の道が終る所

 高さ74mの威容を誇るサンティアゴ大聖堂を仰ぐ、自然石が敷き詰められた広場のあちこちに、3,4人から7,8人の小集団がいくつかできている。帆立て貝の飾りを付けた大きめのリュックを背負ったまま、大聖堂をバックに写真を撮り合う女性4人組。リュックを傍らに置き、足を投げ出したり胡坐をかいたりして座り込んでいる男女のグループ。ほとんどが、ややくたびれたTシャツにジーンズあるいは短パン、そして履きこんだ感のあるスニーカーといういで立ちだ。何人もの女性の膝がサポーターで保護されているのが目につく。彼らの横では、リュックを枕に敷石に直接寝転んで、8月の晴れた空を見上げている若者達がいる。彼らと並んで、茶の毛並みの中型犬が腹ばいになっている。
 ここ、サンティアゴ大聖堂前のオブラドイロ広場は、サンティアゴ巡礼路の終着点である。だから、今広場にいる彼ら彼女らは皆、ここまで最低でも100㎞強、剛の者ともなると1,000㎞近くを踏破してきたはず。が、どの顔にも笑みと満ち足りた表情が浮かんでいる。
 ひときわ高い歓声が聞こえてきた。そちらに目をやると、大聖堂に向って左手にある小路から、男女混成、年齢層もまちまちの一団が広場へ入ってくるところだった。ほぼ同じ大きさのリュックを背に、ある者はストックを振り上げ、別の者は自ら拍手をしながら。揃いの臙脂色のポロシャツを着た20人ばかりのグループだ。女はレギンス、男はジーンズを身に着けている。彼ら彼女らは恐らく、励まし合い助け合って長い道のりを歩き続け、一人も欠けることなくこの広場に達したのだろう。その歓びに、疲れも忘れて子供のようにはしゃいでいる。
 この陽気な集団が入ってきた入口を続けて観察していると、個人・グループを問わず全ての巡礼者(この言葉は必ずしも実態を反映しているわけではないが、ここでは目的の如何に関わらず巡礼の道を歩く人達との意味で使っている)が、同じ入口から広場に足を踏み入れていることがわかる。巡礼者はそのいで立ちで容易に見分けがつくのだ。オブラドイロ広場には、他に3ヵ所入口がある。試しにそちらに視線を転じてみると、広場から出て行こうとする巡礼者の姿はあっても、入ってくる巡礼者はいない。つまりは、巡礼路の終着点であるこの広場に到達する際、定められたルートに従って巡礼者が最後の歩を進めると、必ずこの入口に行き着くということのようだ。そう言えば、この広場と大聖堂のあるサンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街では、帆立て貝のマークや十字架を各所で見かけたのだが、あれが広場への一定のルートを巡礼者に示す道標の役目を果たしているわけか。合点がいく。

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       (サンティアゴ大聖堂の前にたたずむ巡礼者達)

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       (大聖堂付属の博物館4階から広場を俯瞰)

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        (2枚とも:広場でくつろぐ巡礼者達)

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     (若い女性のリュック。帆立て貝とスニーカーが目を引く)

 オブラドイロ=obradoiroとは、この地方の言語であるガリシア語で「作業場」という意味である。スペイン語だとtaller。オブラドイロ広場には700年もの歴史があるのだが、それ以前はここで、大聖堂用の建築資材として運ばれてきた石を切断し削る作業が行われていた。「作業場」広場の名称はここから来ている。
 この長方形の広場は、横が約100m、縦が約70mもある。 長方形の長辺の一辺は言うまでもなく、この広場の揺るぎない主役であるサンティアゴ大聖堂によって占められている。ここがいかなる経緯でかくも名高い巡礼の地となったかを知るには、この大聖堂について語らねばならない。が、主役には後段で満を持して登場してもらうこととし、ここではまず長方形の残りの3辺を見てみることにしよう。
 広場をはさんで大聖堂の正面にある色褪せたレンガ色の横に長い3階建ての建物が、ラホイ邸(El Palacio de Rajoy)である。2階部分と3階部分に長方形の窓が整然と並ぶネオクラシック様式のこの建物は、18世紀半ばに建築され、現在は市庁舎として使われている。
 大聖堂に向って右手には、ラホイ邸よりやや低く少し小ぶりな同じような色合いの建物がある。こちらはサン・ヘロニモ校(El Colegio de San Jerónimo)と言って、17世紀に苦学生や芸術家の学校として設立された。1980年代以降は、地元サンティアゴ大学の学長の宿舎となっている。
 残る一辺には、スペインの高級ホテルチェーンであるパラドール(Parador)系の5ッ星のホテルがある。ここは1953年までは病院だった。その名をカトリック両王病院(El Hospital de los Reyes Católicos)と言う。名前から推測できる通り、建造されたのは古く、16世紀の初頭である。聖地に到着したものの病を得て倒れる巡礼者を収容する目的で設立された。当時は巡礼者5人中3人もが死亡したらしい。地下の霊安室が、今ではレストランになっているとのことだった。
 ここで再び視線を正面に戻す。主役のサンティアゴ大聖堂が手ぐすね引いて出番を待っているのではあるが、その主役登場の前に、この大聖堂があるサンティアゴ・デ・コンポステーラとガリシア地方全体を概観しておく必要がありそうだ。
 ガリシア州はイベリア半島の西北部、ポルトガルの北に位置し、リアス式海岸の続く西側は大西洋に、北側はカンタブリア海に面している。面積は約30千㎞2というから、近畿地方とほぼ同じだ。人口は2.7百万。ア・コルーニャ(A Coruña)/ポンテベドラ(Pontevedra)/ルゴ(Lugo)/オウレンセ(Ourense)の4県から成り、同じ名前の都市がそれぞれの県都となっている。
 尚、リアス式海岸のリアス(rías)は、スペイン語ríaの複数形で、ríaは入り江とか狭い湾を意味する。複雑に入りくんだ海岸線にこのリアが北から南まで連なるガリシアの大西洋岸一帯は、リアス地方(正確には「低リアス」=Rías Baixa)と呼ばれている。この固有名詞が、リアス式の語源である。ここでは、リアス式海岸の特性を利用してのムール貝カキ等の貝類の養殖が盛んだ。特にムール貝は年間25万トンを産し、これはヨーロッパ全水揚げの40%に相当する。
 ガリシア州の公用語はスペイン語とガリシア語で、ガリシア語はスペイン語と同じくロマンス語系の言語である。ポルトガル語にも近い。州民の70%は両言語を操るバイリンガルだが、内50%はどちらかと言うとガリシア語の方を母語と考えているとのこと。ガリシア語オンリーの人達も5%程度いるそうである。
 このガリシア州の州都がサンティアゴ・デ・コンポステーラである。この州では、州都と県都が合致していない。人口は9万8千。3万人近くの学生が住む町でもある。
 町の中心部にある旧市街は、かつては11世紀建造の市壁に囲まれていたのだが、その市壁は今では痕跡を全くとどめていない。この約1.7㎞2の旧市街は、1985年にユネスコの世界遺産に登録されており、車の進入は禁止となっている。サンティアゴ大聖堂は、この旧市街のほぼ中央にある。
 と、再び大聖堂に話題を戻したところで、いよいよ主役の登場である。
 冒頭に記した如く、74mの鐘楼を擁するこの大聖堂は、1075年に建築が始まり、1217年に完成した。従って、建築様式はロマネスクとゴシックの混交である。その後、16世紀から18世紀にかけて増築と装飾の追加が行われた為、バロック様式の特徴も備えている。
 ただ、こうして建築史をたどっただけでは、この地がなぜエルサレムとローマに次ぐ聖地となったのかが見えてこない。
 発端は紀元1世紀である。ガリシアを含むイベリア半島にキリスト教を布教した十二使徒の一人聖ヤコブは、紀元44年にエルサレムで処刑され、十二使徒中最初の殉教者となる。エルサレムでの埋葬が許されなかったその遺骸は、海路で運ばれたガリシアの地で葬られた。その後、時を経て、埋葬場所が特定できなくなっていたようだが、9世紀の初頭、とある隠者が天空から射す光に導かれて聖ヤコブが眠る墓所を発見したとされている。それが今、サンティアゴ大聖堂が建つ場所である。この墓所の発見は極めて重要な意味を持ったようだ。それは、聖ヤコブがイエス・キリストに最も近かった使徒とされていたからである。こうして、聖ヤコブの亡骸があるこの地への巡礼が始まることになる。899年にはここに聖堂が建立された。これがサンティアゴ大聖堂の原型である。尚、現在のサンティアゴ大聖堂では、聖ヤコブの遺骸が安置されているとされる地下の墓所を、覗き窓から覗き見ることができる。
 ヤコブ=Jacobは、スペイン語ではSantiago(=サンティアゴ)/Jaime(=ハイメ)/Jacobo(=ハコボ)となる。つまり、ヤコブはサンティアゴなのである。因みに、英語だとJames(=ジェイムズ)、仏語の場合はJacques(=ジャック)である。
 9世紀半ばに始まったとされるサンティアゴ巡礼は、だから既に1,200年もの伝統を有している。コロナ禍前の2019年には、30万人が巡礼道を歩いたとされる。動きがほぼ止まった昨年を経て、ワクチン接種が進む今年はその30万人を上回るかもしれないと言う。これは、人々が1年以上に及ぶ閉塞状態からの解放や救済を巡礼の道に見い出そうとしていることに加えて、今年2021年がシャコベオと呼ばれるキリスト教徒にとって特別な年にあたっているからでもある。
 シャコベオ=Xacobeoとは、ガリシア語で「聖ヤコブの年/使徒サンティアゴの年」という意味だ。聖ヤコブの日(=使徒サンティアゴの日/聖ハイメの日)は7月25日なのだが、この日が日曜日と重なる年がシャコベオである。12世紀に時のローマ教皇によって定められ。この「聖なる年」にはサンティアゴ詣でが特に奨励された。この伝統が今も続き、シャコベオの年には巡礼者が目立って増えるらしい。うるう年の関係で、シャコベオは5年ないし6年、あるいは11年に一度巡って来る。今年2021年がまさにその年なのだ。前回は2010年、次回は6年後の2027年となる。コロナ禍の影響が考慮された今年は、シャコベオの1年延長が特別に認められ、2022年もシャコベオと認定されている。

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 さて、このサンティアゴに到る肝心の巡礼路であるが、6ッあるそのルートは、ここに掲げた地図で確認するのが手っ取り早い。但し、この地図の右下には8ルートが表示されているので、若干の説明が要るだろう。2番目と3番目のルート”Camino Portugués Central”(=ポルトガル内陸の道)と “Camino Portugués por la Costa”(=ポルトガル海沿いの道)は、通常”Camino Portugués”(=ポルトガル道)として1ルート扱いである。また、下から2番目の”Camino a Fisterra y Muxía”(=フィステーラ/ムシアに到る道)は、巡礼の旅を終え目的を達した後、更に西の「地の果て」を目指そうとする巡礼者達の為の言わばポスト巡礼ルートであるから、やや性格を異にする。従って、サンティアゴへと到る巡礼路は6ルートなのである。
 これらの6ルート中、王道とも言えるのが、”Camino Francés”(=フランス道)だろう。その名が示す通り、元々の出発点はパリを含むフランス側の4ヵ所である。スペイン側の起点はピレネーの町ロンセスバジェス(Roncesvalles)で、ここからスペインの内陸部を通って、約770㎞隔たったサンティアゴに到るルートだ。
 既出の”Camino Portugués”(=ポルトガル道)は、ポルトガルのリスボン(Lisboa)を起点とする。このルートは約620㎞ある。
 スペイン北東部、フランスとの国境の町イルン(Irún)が出発点の”Camino del Norte”(=北の道)は、北の海沿いを行くルートで、全長820㎞の行程である。
 適当な日本語訳が見つからない”Camino Primitivo”(ここでは「始まりの道」と訳しておく)。起点のオビエド(Oviedo)からの距離は300㎞強で、次に紹介するイギリス道を除くと最短のルートである。
 そのイギリス道だが、かつて英国人達は船でフェロール(Ferrol)に到り、そこから歩き始めた。これが”Camino Inglés”である。フェロールからの距離は120㎞と短い。
 最後は”Vía de la Plata”(=銀の道)。6ルート中最長である。南のセビジャ(Sevilla)からサンティアゴまで960㎞を踏破するルートである。
 巡礼者達の70%はフランス道を選択するようだ。伝統のあるこのルートは最もよく知られたルートでもあるから、歩くならやはりこの道、ということになるのだろう。因みにそれに次ぐのが、ポルトガル道の20%である。
 サンティアゴ到着後に巡礼者一人一人に発給される「巡礼者証明」は、最低100㎞を歩くことが発行の条件となっているので、必ずしも全ての巡礼者がこれら6ルートの起点から歩き始めるわけではないようだ。巡礼者はそれぞれの出発点で「巡礼者手帳」を受け取り、その手帳に日々の目的地でスタンプが押されていくらしい。証明書等に携わる事務局のオフィスはサンティアゴ大聖堂の近くにあるそうで、巡礼者が持ち込む手帳に押されたスタンプの地名と日付を一つずつ確認し、巡礼の動機等を訊いた上で、証明書を発給するとのことだった。
 年間30万人もの人達をサンティアゴに向かわせる巡礼の道。そこには、人々の琴線に触れる何か、魂を洗うような何かが、間違いなくあるのだろう。それは宗教を超越したものであるに違いない。私の周囲にもサンティアゴ巡礼の道を歩いた人が何人かいるが、彼ら彼女らは異口同音にこう語っている。曰く「唯一無二の体験」、曰く「機会があればもう一度歩きたい」、曰く「巡礼の後、自分の中で何かが変わった」。
 ところで、冒頭部分で写真も含めて帆立て貝が何度か登場したのを覚えておられるだろうか。その帆立て貝に言及することなくして、この風土記は終れない。ほとんどの巡礼者が帆立ての貝殻をリュックに付けているのはなぜなのか? サンティアゴ巡礼と帆立て貝の間に、どんな関連性があるのだろう?
 あるガイドの説明によれば、かつてはサンティアゴに到達した巡礼者達に帆立ての貝殻を記念品として渡していたのだと言う。このガイドは時代を特定しなかったが、恐らく聖地詣でが盛んになり始めた11世紀以降のことだろう。当時は、ガリシアの特産品である帆立ての貝殻は聖地巡礼の証拠品であるだけでなく、周囲の人達に誇れる品だったに違いない。それがいつの頃からか、サンティアゴ巡礼のシンボルとなっていったようだ。今では、巡礼の道を歩く人達のリュックにはほぼ例外なく帆立て貝が吊るされている。そればかりか、巡礼者を導く道標は帆立て貝の図だし、サンティアゴ巡礼の公式マークは、帆立て貝を図案化したものである。だから、サンティアゴ巡礼と言えば、誰もが帆立て貝を連想する。言ってみれば、帆立て貝こそサンティアゴ巡礼の代名詞なのである。
 一説では、9世紀に聖ヤコブの墓所が発見された時、その亡骸の周りに大量の帆立て貝が埋められていたと言う。もしこれが事実なら、サンティアゴ巡礼と帆立て貝は、当初から密接な関係性があったことになるが、真偽のほどを確かめる術はない。
 3日後、再びオブラドイロ広場に立った私の前で展開していたのは、初日と変わらぬ光景だった。巡礼者達が背負うリュック、広場のそこここに置かれたリュック。色もサイズもまちまちであるが、どのリュックにも帆立て貝があった。聖ヤコブの墓と違って、こちらは紛れもない事実である。

(サンティアゴ滞在:2021年8月20日~26日)

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      (帆立て貝の道標。2枚ともインターネットより借用)




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