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8月6日

広島で生まれ育ち54年。広島市出身ではあるけど、この日に平和公園を訪れることはめったになかった。せっかく平和記念公園近くの会社に転職したのだから、と帰りに立ち寄って慰霊碑に手をあわせた。

父が被爆者健康手帳を申請したのは、姉と私が家庭を持ってしばらくしてから。私たちのことを気遣って手帳を申請することに躊躇していたのか、手帳を取得したことに対する私たちの反応を気にしていたという。
75年前の今日、父はたまたま建物疎開の作業が休みで、現在の安佐南区古市の自宅にいたため直接被爆は免れたが、その後の黒い雨や被災者の救護応援と市内にいたはずの知人を捜しに市内に入ったことで被爆者と認定された。

父からは、被災者がどんな様子で避難してきたかという話は聞いたことがあるが、市内に入ったという話は聞いたことがなかった。話したくなかったのか、ショックが大きすぎて本能的に記憶から消したのかわからないが、申請するときも一緒に市内に行ったという友人から当時の様子を教わりながら申請書類を書いたという。

父にとって原爆とはどんな経験だったのか?被爆者健康手帳を申請するとき、どんな気持ちだったのか?
わからない。父も母も他界した今、それを確かめるすべはない。

晩年、父の身体を蝕んだ病が原爆と関係あったのか?これも、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

事実は父や当時の広島市民が否応なく理不尽な事実を経験したということ。

そして私自身が、今日慰霊碑で手を合わせた意味をどう考えるか。

平和公園から土橋電停までの道すがら、考えていた。

合掌

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