Q. 今年を漢字一文字で表すとしたら?


マシュマロより。

ありがとうございます










冗談です。



いろいろ考えたんですが、「鏡」でしょうかね。

結局今年も去りし2021年同様音楽と向き合い続けた1年間でしたが、去年に比べて「音楽を通じて自分を見ている」感覚が強かったと思っています。


「わたしはどうしてこれが好きなんだろう」
「わたしは今何を思っているんだろう」
「わたしはどう思うのが正解なんだろう」
「わたしってこのままでいいんだろうか」
「わたしにこの人を悪く言う権利があるんだろうか」
……とか、

音楽や好きなもの、目の前にいる人、に映った自分の姿を追いかけてきた1年だったなあ、と思ってます。



同時に、半ば事故的に好きと言えるアーティストが増えた結果、それを通して今まで大好きだと思っていたアーティストの姿を見つめ直すことも増えて。そういうところも含めて、鏡。ですかね。






Mirrors #1


最早わたしの2022年を語るのにどうやろうと外せない斎藤宏介とTKというギターボーカリスト。

誤解を招きそうなので先に断っておくと、この記事内では斎藤宏介のことを「XIIXの舵取り役」として語ります。

この2人を鏡と言うには少し「対照的」が過ぎている気がするのですけど、ftH8大阪のあとのわたしが言ったようにわたしはTKを通してXIIXを見ていたし、XIIXを通してTKのことを見ていて、これはまあいわゆる合わせ鏡みたいなやつではないのかな。


わたしは度々語っている通りバンドが好きな人を心底敬遠していたし、バンドマンも心底軽蔑していたし、ライブハウスなんか入った日には陽キャに飲まれて死ぬのが己の定めだと思い生きてきました。

そんなわたしが出会って3日で当時受け付けていたワンマンライブの先行抽選に応募する程度には(それはもうメチャメチャ悩んだよ、だって怖かったもん)、一目惚れだったんですかね。

運命ってのがあるならこういう出会いを言うんだと思ってます。XIIXのことです。

不思議だけどわたしXIIXに関してははじめから「この人たちを信じて良いのかな」って疑わなかった気がします。
他の何もかもを執拗なまでに疑うのに、XIIXのことは出会った瞬間から好きでした。


そのXIIXを今年はたくさん疑ったな。

どうやら斎藤宏介がTKのことを気に入ってるらしいと知ったときは「あれ?本当にこの人について行って大丈夫?」と思ったし、インザラフのSwayで聴いたやたら重たい凶器みたいなギターの音の奥にはずっと違うギターボーカルの姿が見え隠れしたし、SANITY回ってる最中もずっと「この人たちについて行っていいんだっけ」って思ってたし、スプレーのMVもそう。

何度も疑って、疑うたびにそれでも大好きで、じゃあこの「それでも大好きなXIIX」と「好きになれないTK」の違いって何なの?わたしの中でこんなに鏡みたいなのに何が違うんだろう?って考え続けた(多分まだ考えてる)1年でした。






Mirrors #2


「好きになるものの傾向」みたいなの、どれぐらいの人が自分のそれを認識しているかはわからないのですが、わたしの「好きになるもの」はもうはっきりしていて、例外なく「自分に似ている人」です。

これはわたしの自己愛の強さから来るものとも親近感から来るものとも言えるし、「自分に似た人を好きになる」ことの理由は本当に呆れかえるほどいくらでも出せるので割愛します。

とにかく、わたしが人として好きになる相手は意図せずとも例外なく「自分と同じ質の人間」ばかりです。


さて、2022年の話に戻りますが、早い話わたしはTKのことを自分に似た人だと思っています。

似ているというか、なんだろうな……
わたしは8ヶ月TKのことを「苦しそう」「なんで普通の人があんな風にならなきゃいけないのか理解できない」みたいに言ってきたけど、何か運命の分かれ道みたいなものがひとつずれていたらわたしは「ああ」だったかもしれない、と思う。

わたしにあれだけのものを生み出せるとか、わたしが彼の思考をトレースできるだとかと言いたいわけではなくて、これは根本的な生き様の話です。


今考えると初めて観たときに「意味わかんないけど目を逸らしちゃいけない」と思ったのはどこかに自分の姿が見えていたのかもしれないですよね。


これに自覚的になったのがいつだったかはっきり覚えてないですが、多分夏頃。

わたしは気になったアーティストに入れ込むより先にインタビューとかを読み漁って表現の背景を噛み砕くタイプですが、この1年とにかく凛として時雨やTKソロのインタビューを読んで、読んでる間自分が気付くより先にインタビュー中の言葉が自分のものになる感覚……がして。


なんていうんだろうな、自分のことを話しているときにパッと出てきた言葉にちょっと自分のものじゃない色が混ざっていて、「これはわたしのじゃない、誰のだろう」って考えて、あ、TKがインタビューで言ってたやつだ、って気付くみたいな。


抽象的で嫌ですね。


「自分は常にポジティブなんだけど、上を見てやってると『自分と理想の間の埋まらない溝』がすごくよく見えてしまって、それを埋めようとした結果出てくる苦しみとかが表面に出てきてしまうから外から見るとマイナスの面が強く見えてしまう」みたいなことをTKがインタビューで言っていて、これと同じ表現が自分の口から、自分を語るときに溢れてきたことがあります。

具体的な話をしようと思ったら具体の部分が抽象的で何やらぐちゃっとなってしまった。


まあだから要するに、理想の高さ、自分に対して妥協しないところ、できないところ、良く言えばストイック、悪く言えば不器用で生きるのがド下手なところ。

もっと楽に生きていけるはずなのにわざわざ自分から苦しい道ばっかり選んで傷付きながら、その傷をネガティブなようにだけ見れなくて、「いや、苦しそうに見えるのかもしれないけど、別にこれ悪いことだと思ってやってないしな」って開き直ってる変な人……っていうの、わたしも同じなんだって気付いちゃったりして。


苦しそうじゃんもうやめなよそんなこと、って言いながらわたしが一番その諦めの効かない気持ち知ってんじゃん、って思ったらもうこの人のこと悪く言えなくなっちゃったよね。


ていうのでTKとの出会いはひとつ自分を鏡で見るような体験でした。






ていうので、ひいらぎの選ぶ今年の漢字は「鏡」です。

章立てて書かなかったですが、ライブの後昼の長さに絶望したり、駅前を歩く羽の折れた鳩に意味もなく同情したり、USJの裏側に切なくなったり、そういう風景、日常の何かに自分の感情が映っているような取り残されているような感覚を覚えることが多かったのも鏡、みたいだったな。
とにかく常に自分の映る隙間を探しているようだったのかもしれないです。

あとは4/12、ファンタイムホリデー8大阪に行ってもうどうしようもなく全部がわかんなくなったあと鏡を見る度に「こんなにかわいい女の精神状態めちゃくちゃにしたTKってやつマジで許せねえ」って謎に怒ってたのもまだ全然覚えてます。

鏡って面白いよね。



主張を1文字に収めるっていうの、普段してることと真逆なようで抽象化の方向性としては同じなようで新鮮でした。面白いですねこれ。


お題くださった方、ありがとうございました。

相変わらず自分語りと音楽語りの境界線がなかなか見えなくて読みづらいし誰が面白がってくれるのかわからない文章で恐縮です。


まだ締め括りには多少早いですが、師走とも言いますしきっともう2022年もあっという間だろうな。

お読みのみなさんも思い残すことのないように2022年締められると良いですね。ではまた〜

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