見出し画像

7月3日の礼拝メッセージ「 推薦状はあなたがた! - 信頼と委託 - 」

7月3日の礼拝メッセージ箇所は コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章1~6節から、宣教タイトルは「 推薦状はあなたがた! - 信頼と委託 - 」でした。

まず、私が通う神戸バプテスト教会は、間もなく9月から無牧師期間に入ります。
バプテスト教会では、牧師は派遣されるのではなく、教会会員が自分たちの教会の理念や想いに同意し、共に働いてくださる牧師先生を招聘するために時間がかかり、無牧師期間に教会会員が良く話し合い、祈っていくことが大切になってきます。
今日の宣教はそうしたことからのタイトルであり、メッセージでした。

バプテスト教会の牧師とは身分ではなく職分なんだそうです。
どっかにいる牧師という身分の方を招くのではなく、自分たちの牧師として自分たちが立てていくものであり、自分たちがその人を信頼し、牧師となってもらい、その働きを委託していく。
そして、私たちが牧師を支え、教会として共に歩んでいく。
これが職分としての牧師であり、この関係性がバプテスト教会の土台になっているとのこと。

コリントの信徒への手紙Ⅱ3章1~6節の箇所では、パウロはコリントの信徒に宛てた手紙の中にこう記しています。
「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。
それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」

パウロがこのようにコリントに手紙を書き送った背景には、パウロのことを「自己推薦的だ」と非難する人々がいたことが予想されます。
ここでパウロを非難してきた人々がどういう方々であったかと言うと、この手紙の文面に「石の板」とか「新しい契約」、「文字は殺し霊は生かす」などの言葉があることから察すると、律法を大切にするユダヤ主義者であったようです。

使徒言行録15章にも「イエスの弟子」を自称しながらも「イエスさまの教え」ではなく、「自分たちが大切にしている伝統的なユダヤ的な教えを守ったうえでないと救われない」などと言ったような「自分たちの正義」を押し付ける「おせっかいな人々」がいたことを証明しています。
だからこそパウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」
これはつまり、「わたしがいまさら自分自身を推薦する必要があろうか、私たちの間には既に信頼関係はあるのではないか。
そんな他のところからやってきた人の言葉にいちいち惑わされる必要はない。」
という意味だと思うと、牧師先生。

このパウロの「推薦状理解」というものは、バプテスト教会における牧師招聘の事柄ととても似ています。
バプテスト教会にとって、大切なのは資格や推薦ではなく信頼だけであるからです。
神学校卒業資格すら問われない。
これはバプテストだけの特徴です。
他のキリスト教会は全て教団認定資格があります。
試験があります。
しかし私たちにはそれがないのです。
それは信頼と委託によってすべてが成り立っているからです。
推薦や保証なんて関係ないのです。
その信頼と委託の関係を日々続けていくことが、教会の歩みとなって行きます。
どっかから公認された牧師が教会で働くのではなく、私たちの関係のただ中にあるのが教会なのです。
ですから、牧師招聘とは牧師を招いて終わりだけではなく、信徒同士の交わりの中で牧師になって行くという連続的な関係のいとなみであるとのこと。

同時にパウロはこうも言っています。
「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」
つまり、私たちの推薦状があなたがたという事実は、私たちの働きを通して、推薦しているあなたがたのことが、人々に知られているのだということです。
つまり、牧師を立てていく中に信徒の祈り、思い、また献げものがあるということなのです。
牧師の背後には教会があり、教会員がいる。
色々な人に支えられ、そして教えられ、牧師は立てられていると。
そのような時に感じるのが、私たちがまさにイエス・キリストの体なる教会の交わりであるということです。
私たちは互いにキリストによって招かれ、キリストの体のそれぞれの部分として結ばれているのです。
そのキリストの体は「これこれこうしなければいけない」というような律法の文字ではなく、生きた聖霊の導きの内に全体として整えられて行く。
そこには、より弱いと思われる部分がより必要なのであり、どの部分が大事で、どこが不必要かということではなく、すべてが大切なのだと牧師先生。

牧師招聘の話を聞いてから、はじめは動揺した私でしたが、それは今まで牧師先生や教会会員のみなさまに依存していたことに気付くきっかけになりました。
牧師招聘についてのアンケートも配られ、教会をどのようにしていきたいか、どんな牧師先生が良いか、これから教会にどのように奉仕していきたいかなど、祈りながら深く考えていくうちに、依存していた気持ちは消えていき、主体的に考えられるよになってきました。

礼拝で歌った新生讃美歌は
「我が身の望みは」

みなさまの1週間が守られますように🍀


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?