7月17日礼拝メッセージ、「福音 - 再び立ち上がっていく力 -」
今週の礼拝メッセージの聖書箇所はハガイ書2章1~9節、宣教タイトル「福音 - 再び立ち上がっていく力 -」でした。
ハガイ書にはハガイが告げた神の言葉しか記されていませんが、その文脈は旧約聖書エズラ記の中にあり、そのハガイの言葉が人々を大いに力づけたということが記されています。
エズラ記の歴史的背景に、北イスラエル王国と南ユダ王国が滅び、約70年に及ぶバビロン捕囚から帰ってきた時期の話で、ユダヤを占領したバビロニアはその後、ペルシャ帝国によって滅ぼされますが、その時に捕囚の民(バビロンに強制移住させられていた人々)に解放令が出され、自分たちの国に帰ることができるようになりました。
これはユダヤの人々にとっては、喜びの時であり、自由を得た時であり、ついに神の約束が実現した時でした。
解放された人々は、神殿を再建する希望を持ってエルサレムに帰ってきました。
彼らが神殿再建を願った理由は、バビロン捕囚という悪夢の出来事が起きたのが、まさに自分たちが神の言葉から離れて行ってしまったからという反省に立ち悔い改め、改めて神を信じて生きる為に神殿を中心とした信仰生活を送ることを願ったのです。
ところがエルサレムに残っていた人々の妨害工作によって、その工事は中断に追いやられてしまいました。
その期間は何と15年にも及びました。
この15年は、意気揚々と帰ってきた人々を再び絶望のどん底に突き落とすのに十分な時間でした。
しかし、神殿は本来は象徴であり、神の守りは言葉の中にあります。
でも、希望を失った人々は次第に神から離れ、世間に染まっていく。そのような状況がありました。
そこにハガイが現れ、力強く
「国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。
働け、わた しはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。」
(ハガイ2:4)
人々を励ましました。
神の言葉を信じ、またその言葉に生かされていく時に、私たちはたとえ目の前に困難があってもそれを乗り越えていくことができる。
私はそれが信仰というものが持つ強さであると思うと牧師先生。
また、牧師先生は新約聖書ヘブライ人への手紙に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と書かれていますが、信仰とは状況的に整った中を歩むものなのではなく、まさに暗闇のような中においても、神を信じることによって歩んでいくことが信仰の歩みと呼べるものなのです。
そういう意味で言えば「信仰」の反対語は不信仰、信じないということではなく、信じて歩まないこと、つまり「諦める」ということなのではないかと思います。
私たちも自分たちの思い通りに行かない現実にぶち当たると、ユダヤの民が諦めたように、私たちも諦めてしまうことがないでしょうかと。
私はどうも諦めが悪いというか、幼い頃より病弱だったり、発達障害によりいじめられてきたり、今までの人生、50数年、波乱万丈過ぎて、思いどおりにいかないことだらけで、諦めてしまうと本当に何も残らない、イエス様に出会い受け入れてからも、約10年、間違った信仰だったために、状況が全然改善しなかった時さえも、その間違った信仰にしがみついていました。
その、しがみつきに主は憐れみと救いを持って、私は魂から悔い改めを持って今の教会に導かれました。
ハガイ書では、人々の信仰がこの神殿の中で育まれることが栄光に輝くことだと言っています。
牧師先生は最少は、そのことをメッセージしようとされていたようですが、それに加えて、少し角度の違うことをお話もされました。
実は最初に人々がバビロン捕囚から帰ってきた人々が神殿を再建すると言った時、他の人々が妨害しましたが、初めから妨害しようとしたのではないのだとか。
実はすべての人がバビロニアに連れ去られたわけではなく、連れ去られたのは一部の上級身分の者たちだけでした。
ですからこの地には他の人々が残っていたました。
彼らは帰還民が帰ってきたとき、自分たちもその神殿つくりに協力したいと申し出ました。
ところがそれを帰還民は断ったのです。
ここから対立と妨害が始まっていきました。
問題は、帰還民が他の人々と一緒に歩むことを望まず、自分たちだけで作ろうとしたことです。
そこにはもちろん、使命感があったのでしょう。
そして律法が教える正しい方法で神を信じて生きていきたいという願いもあったことでしょう。
しかしそれは差別を生み出しました。
自分たちの正しさが人々を排除し、争いを産むことになりました。
またその人々が神にあって正しく生きようと純化した結果生み出されたのが、ラビ的ユダヤ教、いわゆるファリサイ派ということになります。
イエスさまの時代、ファリサイ派の人々は律法を守り、神の教えを優先して生きていたため、罪びとと呼ばれる人たちとの交わりは持たないようになって行きました。
そこで登場したのがイエス・キリストでした。イエス・キリストは正しさよりも愛を行いました。
むしろ神の正しさというものは、無条件の愛にあることをイエスさまは示されました。
私たちはその神の無条件の愛を、感謝をし、イエス・キリストが生きられたようにその言葉を毎週の礼拝で受けて生かされています。
私たちがイエス・キリストを信じて、信仰生活を歩むと言うのは、そういうことなのです。
救われるために信じているのではなく、信じたから救われるのです。
私も救われるために信じたというより、(たぶん、それでは罪深い私は永遠に救われなかったでしょう…)しがみつくほどに信じたから救われたのでしょう。
また、牧師先生は、今、一つの新興宗教のことが世間の関心事になっていますが、キリスト教の神髄はイエス・キリストの十字架です。
イエス・キリストの犠牲によって私たちに和解が与えられた。
それは私たちが共に生きていくためです。
だから私たちは互いに平和に生かされていくのです。
神の名のために私たちが犠牲になる必要はありませんし、そうならないようにイエス・キリストが唯一の犠牲として神に献げられたのです。
同じようなことは必要ではないし、あってはならない。
イエス・キリストは、ヨハネ福音書で自らを神殿に譬えられ、三日で立て直すと言われました。
それは、イエス・キリストの神殿は、このイエスさまによってのみ私たちに平和が与えられることを教えられるからなのです。
私たちが神のために何かする必要はありません。
神が私たちのために命を献げられた。
だから私たちはその愛に応えて生きるのです。
ここが主の神殿、イエス・キリストの教会なのです。
新しい神殿の栄光。
これはイエス・キリストの福音に満ちた教会なのです。
だから私たちは倒れても再び立ち上がっていく力が与えられるのですと。
私がキリスト教を信じたのは、私が何か良いことや多くの捧げ物をすることで救われるのではなく、罪深い自分をありのままに受け入れ、イエス・キリストがそんな罪人を悔い改めに導き、招き入れるために来てくださったことを、ただ信じれば救われるという教えだったからです。
そして、少しずつ造り変えられ、救われていきました。
1人の命を突然に奪ったことは刑罰的には許されることではありませんが、新興宗教により不幸になるかたが、これ以上、増えないように、新興宗教により出来た傷を抱えるかたが癒されていくことを祈っていきたいと思います。
礼拝で歌った新生讃美歌は
「神はわがやぐら」
みなさまの1週間が守られますように🍀