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7月31日の礼拝メッセージ「弁護者、真理の霊は言の中に」

7月31日の礼拝メッセージの箇所はヨハネによる福音書16章7~15節、宣教タイトルは「弁護者、真理の霊は言の中に」でした。

この箇所は今している聖書通読の次の章で、「イエス・キリストの告別説教(或いは訣別説教)」と呼ばれるイエスさまによる弟子たちへのメッセージの一部です。
ここには、イエスさまは去っていくけれど、神の言は私たちに残されているという、今私たちが心を留めるべき大切なことが書かれていると牧師先生。

それはイエスさまは去っていくけれど、神の言は私たちに残されているということです。
福音が失われてしまうのではなく、あなたがたのただ中に形を変えて留まり続けるということ。
見えなくなってもその関係性は変わることはなく、繋がり続ける。そのためにイエスさまが弟子たちに伝えているのが聖霊の約束です。
しかもイエスさはこの一連のメッセージの中で、「わたしが去っていくだけでなく、あなたがたはこれから迫害を受けるだろう(15:20)、しかもあなたがたを迫害する者たちが『自分は神に奉仕している』と考える時が来る。(16:2)」と言うような恐ろしいことを語っています。
そんな余計なことを聞いたら私たちは恐れて不安になるしかないと思います。
しかし、イエスさまはそんな弟子たちに対して、「わたしは父にお願いしよう。
父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14:16)
そして「心を騒がせるな。怯えるな。」(14:27)と言われているのです。

ところが驚いたことに、この話を聞いていた弟子たちはそれこそ始めは不安になっていたものの、その後イエスさまの話を黙って聞いていたのか。何か口を開くこともはばかられたのか、イエスさまに質問する言葉が残っていません。
しかし「応答がないという応答」については「よくわからなかった」と否定的に取られることが多いと思いますが、他の一つの見方としては、「耳のある者はよく聞きなさい。」とイエスさまがよく言われたように、「聞いたことを心に留めてよく考えてみる」ということでもあると思うのです。
今はよくわからないかもしれないし、質問もできない。
うまく心に落ちていない。けれど、私たちの日々の歩みの中でイエスさまの言を黙想の内によく考えていったとき、出会いと出来事の中で気づくことがあると牧師先生。

牧師先生はイエスさまが弟子たちに対して、「実を言うと、わたしが去っていくのはあなたがたのためになる。」と語っているのはまさにそういうことなのではないかと思います。
私たちは目に見える頼れる存在がいなくなると言う時に、私たちは不安になります。
これからいったいどうすればよいのかわからない。
道筋が分からないからです。
困難に出会うこともあるでしょう。
恐れますし戸惑います。
しかし、本当はそうではないのです。
何故ならば、神の言葉は、この時に私たちに差し出されているからです。神の言は私たちを離れることはないのです。
私たちが根差す場所はイエス・キリストの言なのですとも、おしゃってました

そして、ヨハネ福音書は「言は肉となって私たちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)と記しています。
これはまさにイエスさまが言となって私たちの交わりの内に留まっておられる、目には見えないけれど、私たちには言が与えられている。
その言に生きる時、私たちは自身はぶどうの木の細い枝でしかないけれど、その枝は風に揺られはするし、吹き飛ばされそうになったりはするけれど、イエスさまのぶどうの木に結ばれた枝としてしなやかになって行くことがあるのではないでしょうかと牧師先生。

イエスさまは私たちの歩みの上に様々なことが起こることをご存知です。
しかしイエスさまは私たちのことを「みなしごにしておかない」(14:18)」ことを示すために、イエスさまは私たちに聖霊をお与えるという約束の言葉をお与えくださっています。

でも、私は過去の自分を振り返って思うことは、御言葉依存になってしまったり、律法的になっていっては聖霊様は上手く働くことが出来ないのではないでしょうか。
イエスさまのぶどうの木に結ばれた枝としてしなやかになるとしても、結ばれているところ(心、魂)は主体的に、確信を持って繋がり、そこだけはブレずに、後はしなやかに生きていく。
依存では結ばれている心も魂もブレるし、律法的ではしなやかになれずに折れてしまいます。
イエスさまのぶどうの木に結ばれたとこにあるのは愛です。
依存的な愛は自己中心的になったり、マインドコントロールが起きてしまいます。
律法的な愛は偽善的な愛や束縛的な愛です。
でも、真理の愛は全てのいのちは尊い命であり、その命を、隣人と共にあるがままに愛しあっていくことだと思います。
それを実行していくには依存的な愛や律法的な愛ではなく、主体的に愛し、その愛に覚悟を持っていくことなのではないでしょうか。

礼拝で歌った新生讃美歌は
「主よ御手もて」

みなさまの1週間が守られますように🍀


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