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4月10日、礼拝メッセージまとめ(礼拝とは自分自身を捧げること)

今日の礼拝メッセージはマルコによる福音書11章15~19節でした。
宣教タイトルは「神の宮はすべての人の祈りの家」でした。
この箇所は“宮清め”と呼ばれています。
要約すればイエス様がエルサレムの神殿で、両替や捧げ物の動物が売買されているのを見て、台や腰掛をひっくり返し、境内を通って物を運ぶこともお許しにならず、「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたた ちは、それを強盗の巣にしてしまった。」と人々に教えられました。

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旧約聖書には神様が私が求める贖いは動物の血ではなく、罪の悔い改めだというようなことが書かれている箇所がいくつもあります。

たとえばミカ書にも6章6~8節に「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。
焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」
とあります。

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牧師先生も「神殿の現実の姿と、神殿の本来のあるべき姿がちがってしまっていた。
神殿とは祈りの家でありながら、本当に祈りを必要とする人たちが入れない場所になってしまっていた。
またそこに集う人たちは、自分の罪の贖いのために動物犠牲は捧げるけれど、隣人に対してはまったく犠牲を献げることがない始末であった。
果たしてそれは本当に神が求める礼拝なのでしょうか。
本来であれば、神殿はそのような人々の支えとなる場所であるはずなのに、そうはなっていなかったどころかその人々が排除されてしまっていたことに対してイエスさまは嘆いたのではないかと思うのです。
ですからイエスさまのこの珍しい激情的な行動は、言い換えればそのような人々への愛の故であったと言えるでしょう。
そしてそれは群衆にとっては非常に驚きを持って迎えられたようです。
もしかして人々も神殿での礼拝に対してうすうす何かがおかしいと感じていたものの何も言い出せずにいたのでしょう。
しかし祭司長や律法学者たちを始め、神殿の体制に依存していた人たちにとっては、それは不都合なことでありました。
ですから彼らはそれを聞いてイエスさまの殺害を考えたのです。
体制を変えたくない人は変化を恐れ、不都合な意見を黙殺し、邪魔者を抹殺します。
しかしそれは神の御心ではありません。
神なき礼拝でしかありません。
神の御心とは、イエスさまがされたように神の御心を求めて新しく変えられていくことであるからです。
それが本当に神の御心を求めて行っていく礼拝であるのです。
確かにイエス・キリストはその後、十字架で処刑されました。
それは暴力による殺害でした。
しかしその三日後に神が彼を復活させられたのは、
そのイエス・キリストの歩みにこそ私たちの希望があり、それこそ神が願っていることだという証拠であります。
私たちは、今日このことを確認したいのです。
イエスさまが神殿に思っていたことは、本当の意味ですべての人が祈りを捧げることができる場所になることです。
それはお金が無くても犠牲が献げられなくてもどんな人でも気兼ねなく入ることができる場所であり、そして助け合い支え合う場になるということ。
そしてそれは固定化するのではなく、出会いの中で変えられていく交わりであることを神は願っているのだと言っているのだと思うのです。」と、おしゃっておられました。
また、「神殿は言葉や場所ではなく関係であり内実です。
ですから私たち自身もこの言葉から問われなければなりません。
私たちは礼拝を献げていますが、その礼拝に心を伴っているでしょうか。
礼拝に来ているけれど、心ここにあらずということはないでしょうか。
他のことを考えたり、神の教えよりも他の教えを大切にしたりしているということはないでしょうか。
礼拝する時に一番大切なことは、私は自分自身を神の前に置くということだと考えています。
そして礼拝とは、本来的には私たちが受けるものではなく、私たちが神に献げるものであります。
私たちが神に献げるものとはお金や私たちの身代わりや犠牲になる他のものではなく、私たち自身であります。
私たちが自分自身を神に差し出すからこそ、私たちはこの礼拝に働く聖霊の導きによって新しくされていくのです。
恐らくその思いが無ければ、本当の神礼拝にはなっていかないのではないかと思います。
神を礼拝する。
それは具体的には聖書から言葉を頂き、或いは祈りの中での対話を通して、自分の歩みを顧み、或いは立ち返りを得て、新しくされていくということです。
それは神の御心はなにかを考えることであり、それを求めることでもあります。
そしてそれを行なっていくことです。」とも、おしゃっておられます。

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私は、今の教会に導かれるまで、前の教会では“礼拝に来ているけれど、心ここにあらず”であり、“他のことを考えたり、神の教えよりも他の教えを大切に”していました。
しかし、2年前に主によって打ち砕かれ、1年前に今の教会に導かれ、毎週の礼拝メッセージを真剣に聞き(集中しきれない時もありますが…)、聖書通読をし、メッセージや聖書通読のデポーションをすることで御言葉に毎日、触れてからは、罪の贖いは、ただ礼拝に来ることで神様が何とかしてくださると“礼拝に来ているけれど、心ここにあらず”の神様任せではなく、御言葉を自分自身の中に、生活の中で心と言動を神様に捧げ、実践していくことなのだと気付かされました。

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今日の礼拝で歌った新生讃美歌は
「静けき祈りの」


みなさまの1週間が守らますように🍀



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