04/14 2本立て①インターネット②瞑想

珍しく2本立てです。最近は学生時代と比較してかなり感情が安定してきたので衝動的にブログを書くことが減ってしまったよ。なので頑張ってひねり出した内容です。

①インターネットをやめる努力

今年の頭までXのアカウントを複数個持っていたのだが、高校・大学関連のアカウントを中心にすべて削除した。

大学時代にSNSで出来た繫がりも、社会人となった今ではほとんどが意味をなさないものに見えてきてしまった。

SNSは基本的に双方向の情報のやり取りである。(実際にはほとんどの場合で一方的に見せつけているだけなので双方向とは言い難いと思う)

昨今はインターネットの住人が増えたためか、自分の見たいものだけで成り立つ情報網の構築が難しくなってしまったように感じる。

見たくないものを通さないフィルタの構築にも限界があって、余裕で貫通してくる。(何とは言わないけれど毎年春になると湧いてくる人々の投稿は昔の自分みたいだなと思ったりしてしんどくなる)

アカウントを減らしたこと自体はストレスの低減にうまく働いたように感じる。

自分は一度無理だと思ったものを徹底的に避けるきらいがあるが、そのせいで損をしていることも多い。

とはいいつつSNSはストレスの方が多いために感情的収支はどう考えてもマイナスにしかならない。やはり見る時間を減らす方が賢明だと思う。

SNSとの付き合い方は難しい。

②難しい本を読んだ話

2024年になってから、月1回のペースでボイストレーニングのレッスンに通っている。やはりコンスタントに先生の指導を受けると成長が早い。

先月のレッスンで先生からエラノス会議についての本をお借りして読ませていただいた。これまた難しい本でほとんど理解できなかった。

エラノス会議とは、簡単に言えば宗教と科学を洋の東西問わず上手い事合体させ、それらを学問として深化させようという文脈で生まれた学者の交流会のことである。

本のタイトルは『言葉と語りⅠ』で、3人の講演者の話を文章に起こしたというような内容である。先にも述べたように実に難解な本で、特に二人目の講演者の話は全く理解できなかった。(西洋の宗教・文化に強い人は読めるかもしれない)

『言葉と語りⅠ』を読んで最も(というよりは唯一?ギリギリ?)印象に残ったのは、一人の講演者(ヴィクトル・ツカーカンドル)の「歌うことは行為への没頭が求められる」という表現である。

この講演で「瞑想」という言葉が直接的に出てきたわけではないが、没頭とういう言葉が間接的にそれを表現している。

僕の支持するボイトレメソッドでは、瞑想(ゾーンに入ること)を極めて重要な概念として考えている。現代のモラルセンスから解放され、古代人が如く自由に歌い踊るために瞑想は大切なことなのだ。

自分が自分でないような心地になれること、自分とは性質の異なる何かが憑依したようにふるまえる状態は心地が良い。身近な例でいえば程よくお酒を摂取して普段自分がしないようなことをしようとし、結果としてそれが快楽に繋がるというようなものだ。
歌という芸能をやるにあたって、快不快、喜怒哀楽という感情を結びけることは避けられない。ここに瞑想やゾーンといった宗教的な概念のかかわりを見出すことができる。瞑想をしよう!!

。。。

いささか脱線したので先の本の話に戻る。この歌と瞑想の関係性について自分の学ぶボイトレメソッドとはまた別の観点から指摘されたということはある意味自分にとって衝撃であった。(実際には両者の主張は同一の起源を共有していて、ゆえに当然の一致するものなのかもしれない。自分にとってはある種の新発見に相当したために驚いた)


結局本全体を読んで吸収できた知見のうち血肉になったものはわずかであったけれど、本を読むという行為は自分の知らない世界があるということを知るというだけで十分な気がした。

無知であることを知るという古代ギリシアの時代から擦られていることを西暦2024年の今になって再認識しても、それがなんだという話になってしまう。
けれど分かりやすいものばかりを求めてインプットしている昨今の自分にない刺激を求めるならば、あえて難読書に挑戦するのもいいのかもしれないなと思った。

これもまた古代中国の時代から擦られている温故知新なのか。

とにかくまた勉強を頑張ろうという気にさせられた。






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