ひとりよがりセンチメンタル

 どうして人は共感を求めるんだろう。そりゃ誰だって自分の意見やら気持ちを肯定されるのに悪い気は起きないだろうけど、私はどうしても、心にじんわり沁みるような言葉や、訴えかけてくるような声を掛けられるのが苦手だ。要は人の想いがこもっているものが駄目なのだ。その最たる例が歌である。特に感動系。人の涙を誘う系。まだ絵とか、モチーフとか、形になってるものなら良いのだけれど、歌とか、詩とか、とにかく言語化されたものとなると途端に拒否反応を起こして身体が受け付けなくなってしまう。これがマァなんとも筆舌に尽くし難いのたが、なんだかスっと頭に入ってこないというか、消化できないというか。人は失恋をしたら失恋ソング、病んだら病みソング、気張りたい時は元気の出るような明るい曲、みたいな、自分の心情に合わせて聴くものを選んだりすることがあるみたいだけれど、それがあまりピンと来なくて、腹の底がうずうずして気持ちが悪い。自分の気持ちを完璧に代弁されることも分かってくれることもないのに、どうして聞くんだろう、と思う。

そこで問題になってくるのは、そもそも私には人の気持ちを素直に受け取れる素敵な感性が備わっていないということである。(感動系の)曲を作るに至って、作者はきっと歌詞を練って言葉を練って時間も労力も割いて精一杯自分の気持ちを音に乗せて誰かに伝えようと頑張っている訳だが、それがきっと私には重くて、負担で、気持ちが悪く感じてしまうのだ。なんとも捻くれている。無意識に作者の意志を汲み取ろうとしてはすぐにシラケてしまうので、そういった曲で泣いたり、心が揺さぶられたりした試しもない。まだ、そんな胸に打たれる曲に出会えてないだけなのかもしれないけど。


今思えば曲も苦手だけど、所謂こう、切ない感じのBGMに沿って、『身体がSOSを出しているサイン』だとか『心が疲れている人の特徴5選』だとかを語りかけてくる動画も苦手だ。もっと言えばその動画についているコメント欄は大嫌いだ。ほんまに洒落にならんぐらい嫌いで、自衛しなければ私は晴らせない鬱憤でスマホを投げつけ地団駄を踏むと思う。こういった精神系のコメント欄なんて大抵は自分語りやら動画の感想なんですけど、それは別にどうでもよくて、私が1番無理なのは「今日も生きてて偉いね」とか「辛くなったらいつでも吐き出すんだよ」とか励ますような事を言っている人達だ。まじでふざけるなよ。誰だお前本当に。腹が立つ。なんで励ますんだろ。どんな気持ちでそのコメ打ったんだろ。何一つ理解できなくて、がんばって考えても分かんなくて、訳わかんないから大嫌いなのだ。そして自己満足で言ってるのかなとしか思えない自分の感性も頭を掻きむしりたくなるぐらい大嫌いだ。そうやって簡単に人に寄り添って、貴方は何か得をしましたか?気持ちが良かったですか?その言葉を掛ける事にどれぐらいの労力を割いたんですか?優しい言葉を掛けたとしても、どうせ数分後には頭からスっぽ抜けてる癖に。それを言って何になるんだよ。薄情だよ。ウアーーーッッ!!嫌い!!嫌いーーーッッ!!と毎回なってしまう。じゃあ見るなって話なんですが。でも傍から見れば優しい言葉を掛ける知らん人と感性が終わっている自分のどちらが正しいのかなんて一目瞭然で、言葉を掛けた人は何も悪くないし、優しいし、きっと人格者で、掛けられた人は、きっとその言葉に救われていくのです。非常にwin-winな関係。部外者の私が腹を立てる必要性なんて、ミジンコもないのでした。対戦ありがとうございました。

 
昔、小学生の頃 授業中 具合が悪くて、熱が出て、でも身体は寒くてガタガタ震えてた時、隣の男の子が私の様子に気づいて心配したのを切っ掛けに、パニックになって泣きじゃくった事がある。その男の子が大袈裟に(それ程異常に見えたのかもしれない)声を出して心配するもんだから、先生が寄ってきて、周りの人達も寄ってきて、
「○○(←アタシの名前)ちゃん大丈夫?」
「○○(←アタクシの名前)さん、どうしたんですか、?熱を測りましょうか?」
「先生、保健室に付き添った方がいーい?」
「保健室1人でいける?大丈夫?」
みたいな感じでとにかく、ガヤガヤ取り囲まれて心配されたのだ。ちゃんとトラウマだ。私は大丈夫だったのに訳わかんなくて、パニックになって、ただでさえ保健室が苦手(元々行く機会も少なかった)だったのにさらに拍車が掛かってしまった。別にどうって事ないのだから心配しないで欲しい。親身にならないで欲しい。私が辛くても、しんどくても、身を削って、精神を摩耗して近づいてきて欲しくない。他人でしょ、と思う。先生は、心配するのも仕事の内かもしれないし、周りの人だって何人かが心配するから便乗して心配しただけかもしれない。でも私はそんなに器用ではないから、そんなに沢山の人の厚意を素直に受け止めることができないのだ。「辛いよね、苦しかったよね、もう大丈夫だよ」そう言われてなんて返せば良いんですか。もうほんと、何も声を掛けないでください。何も知らないじゃないか。助けられる保証もないのに、期待させるような事言わないで欲しい。一生その言葉を、言ってくれる訳じゃないくせに。無責任だ。無責任は嫌い。


過度に寄り添われるのも親身になられるのもずっと受け付けられなくて、されるとお腹の底がぐるぐると渦を巻いて過呼吸になってしまうのは、きっと自分が助かるって期待してしまうのがしんどいからだ。人を救うのはとても難しくて、正解がない。身体は勿論だけど、心はもっと難しい。共感とか寄り添う言動なんて相手にとっては全部一時しのぎで、助かった訳じゃないのに。また欲しくなった時一体どうすればいいんだろう。そういう事を一切考えないから、簡単に優しい言葉を掛けられるんだろうな。その無責任さが、私は大嫌いで、許せなくて、とても羨ましい。
今日、明日、明後日、私が求めたら、誰かが声を掛けてくれるだろうか。明るい未来を期待させてくれるだろうか。そう思うのが恐ろしくて、そんな終わりのある救いに私は依存したくないと思う。
心配されたら突っぱねたい。好きって言われたら疑っちゃう。いつか嫌われること前提で人と関わる方が楽で、ずっと私と一緒に居てくれる人は居ないと思う。そんな事ないって心から思ってくれる人も居るかもしれないけど、私はこうやって軽率に人を疑って保険を掛けていくことしかできないし、多分それは人としては間違っているのだと思う。けれどそうやって生きていくことが私にとっての救いで、でも、途方もなく虚しい。




2023/07-26


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