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君に花束を

花が好きだ。母方の実家がかなりの田舎で、草花が物心つく頃には傍に溢れていた。知らない植物を指さして名前や特徴を教えてもらう時間が好きだったし、将来は花屋になりたかった。覚えた花をスケッチブックに沢山描き止めたし、本も買ってもらって沢山読んだ。お気に入りの野花を夜遅くまで働く父に見せたくて摘んだし、父が帰ってくる頃には萎れていてわんわん泣いた。私にとって花は可愛くて綺麗で丁寧に扱わなくてはいけなくて、懐かしい気持ちになれる、そういうものだ。花のおかげで私は、見ている時だけ穏やかになる事ができる。有難くて、尊い存在だ。


花束を捨てられた。見つけたのは小学5年生の離任式の日。卒業式の日に担任の先生にクラスメイト全員でお金を出しあって買った花束だ。その担任は私を階段から落としておいて見て見ぬ振りをしたり私が放送委員として教室に居ないあいだに私の分の給食を全部"おかわり"としてクラスメイトに配ったりするようなロクでもない奴で、他のクラスメイトだって少しストーブに近づき過ぎただけで胸ぐらを掴まれてたし、クラスメイトはクラスメイトで、嫌いすぎてその担任の机やら椅子やら靴に画鋲をバラまいていた。それでも子供らしい気持ちで卒業式の日に花を贈ろうと、みんなちゃんとお金を出したんだ。小学生にとっての数百円は大金であることを加齢と共に忘れたのか知らないが、とにかくその担任は卒業式の日に私達が送った花束を数日後の離任式で登校してくる頃には教室のごみ箱に捨てていた。家で捨てろよ。

自分にとって大切な存在でも、他人にとっては簡単に踏みつけにできるような、どうでもいいものである事があるらしい。私の場合それは花束だった。受け取った以上、生徒の目に入る可能性の高い教室のごみ箱に捨てるなんて言語道断だ。今になって、花が悪くなっていたのかもしれないとか、どうしても家に置けなかったのかもしれないとか、色々考えられるようになったが、それはそれ、これはこれである。

それ以降、それが引き金になったのか、それまで無視していた鬱憤が限界に達したのか、プツンと糸が切れたように教師という存在への信用は地に落ちた。実際教師運というものがめっきり無くて、まぁあったかもしれないけど、それ以外が悪すぎてどうしようもなく目立ってしまう。これは教師に限らないけれど、人には期待するだけ裏切られるので、期待するだけ損であり、信用するだけ無駄なのだ。それを教えてくれたのが教師だっただけである。


高校だって教師なんかに期待はしていなかった。行きたい大学への内部進学ができるためだけに入った所なので、例えここで階段から落とされようが、道徳の欠片も無いような言動を取られようが、3年間(内部進学できるコースがあり、3年間担任、クラス替えは無い)頑張れば志望校に行けるのだから、どうでも良かった。

そう思っていたら、恵まれていることに、めちゃくちゃ良いクラスで、めちゃくちゃ良い担任だったのである。先生と呼ばせてください。もちろん高1、2の最初辺りまでは中々適応できず、冷めた目でクラスに居座っていたが、挨拶をすれば返してくれる、物を落としたら落としたのが自分相手関係なく拾ってくれる、消しゴムも投げられない、プリントだって受け取ってくれる。おまけに先生は干渉し過ぎない範囲で親身になってくれるのだ。卒業する頃には優しい気持ちになれた。理不尽なことだって言われたことはない。言われたとしても過去の教師陣に比べたら大したこと無さすぎて忘れている。感謝以外の何ものでもない。この担任の先生以外にも、高校で関わった先生方、誰も私を傷つけなかった。生徒と教師という括りの違いはあれど、人として、私を尊重してくださった。とても有難い存在だなと思った。 

高校卒業の日、式が始まる前に卒業アルバムの最後にあるメモスペースに、クラスメイトやお世話になった先生と寄せ書きを書きあった。真っ白だったスペースが色んな人の文字で埋まっていくのを見た時、数字では表せない、3年間分の通知表を見せられた気分になった。この日に何かメッセージを書いて欲しいと思う人がいて、書いてくれる人がいることに、えも言われぬ幸せを感じた。その時、久しぶりに懐かしい気持ちになったのだ。


私が断腸の思いで財布から捻り出した金で買った花束は、全然普通に捨てられた。でもきっとこの人なら、この担任の先生なら大切にしてくれるよな。私の大切に想う気持ちごと、受け取ってくれるよな。そう思って式後にクラスメイト全員で渡す担任への寄せ書きで溢れた色紙に、私は花束のシールを貼ったのだ。


2024.3.3

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