なにものでもない
オーストラリアで出会った、ラテンの血を引く友人たち。彼らはとっても感覚的で、気持ちを疎かにせず、毎日を真剣に主体的に生きている。何をするにも気持ちについてのディテールをとても丁寧に話しあう。
私は彼らのその主体性に、ものすごく自由を感じた。良い意味で、やりたいようにやっている!と。意見を持つことに対して小さなころから一人前として尊重されるからか、家庭と言う小さな社会の中でも、お互いに敬意を持つ、対等である、ということがちゃんと理解できるのだと思う。
過度な協調性を強いられる日本、というのは徐々に変わってきているのかなと感じるけれど、それでも個性に対して寛容だとは思わない。誰に何を言われても大丈夫!という強さがいるなぁと思う。
どうしても、「正解」を求められているような気がして体と心が離れていく。ただ自分自身を生きていたらいいのだという感覚が著しく失われていって、「人に説明をつける為の自分」をイイ子に生きてしまうのだ。何者かでなければいけないみたいで。私が私で在れるにはどうしたらいいの?と、そんなことばかりに苦心して。
友人と話しながら、これから先のことについて私があまりにも八方塞がりに悩んでいたら「キミは今この瞬間、何がしたいの?ボクはいま猫に会いたいけど」と茶化された。
誰に左右されるものでもない「今」の自分を、卑下することなく率直に表現する。きっと友人からしたら、それができずにどう今日を生きるのか?ということだろう。未来なんて描けるわけもない。
うぅ、あの自由さが、恋しい。「どこででもこの自由さを持って生きていける強さを身につけるんだ!」と小心者の私はそんな決意のもとに日本で踏ん張っている。
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