職場の同僚が「僕のことそんな目で見ないで下さいよう…」と情けない声で言うので、その思いがけない言葉に「え・・?」と驚くと同時に、申し訳なさと、うっすら焦燥感が湧いた。仕事中、これどうやるんだっけ?みたいな何ということのない会話をしていた時のこと。彼はデスクのパソコンへ向かい、こちらはその横で立ったまま話しをしていたから、私の視線が「そんな目」として映ったのは、見下ろすような構図だったこともあるかもしれないし、こんな簡単なことが出来ないなんてなぁと彼自身が情けない自分を笑い飛ばす意味もあったのだろうと思う。

誰も気を留めないような会話に私が焦燥を感じたのは、過去に何度も同じような類のことがあったからだ。言葉やシチュエーションを替えて忘れた頃にやってくるこの会話、ずっと記憶を遡ってみると、幼少のころに住んでいたマンションのダイニングで、少し離れたところに立っていた母に言われた一言が一番古い記憶だった。当時孤独に子育てをしていた母に長女の私は割と理不尽に怒られていて、母は絶望の底から「何見てるのよ」と怒りを震わせながら冷たくそう言った。だいぶ最近になってから母も子であった私も相当大変だったあの頃を一緒に振り返って、母は申し訳なさそうに、でも子育てという経験ができて良かった、と話すのだった。

この記憶を思い出してから、相手からポロっとこぼれる「そんな目」という言葉に「またやってしまった、、」と、焦燥感が湧くのだった。相手を、自分は情けない存在なのだ・・と思わせてしまうような、憐れみを含む視線なのだろう。こどもの「そんな目」の恐ろしさを今なら少しわかる気がする。そして自分の目が、あのマンションに住んでいた頃のままな気がして。

よく行く川沿いのコーヒー屋にパグがいる。老犬なのか店主が豆を焙煎している間、ずっとバギーの中で過ごしているボンだ。お客さんが思い思いに撫でたり話しかけたりするのを静かに受け入れて、ざわめきが通り過ぎてゆくとバギーの中で丸くなって眠る。会話するようにボンを愛でる者、可愛いと思う気持ちを抑えられない!とばかりにわしゃわしゃと撫でまわす者、ボンを愛でているワタシ自身を愛でる者と、そのぜんぶを静かに受け止めるボン。そしておそらく「そんな目」でその様子を見ている私は、その光景に、ただ受け止めるボンに、愛について教えてもらっているのだった。

寂しさを感じていた孤独に子育てをしていた母と私との距離は、いまもそのまま自分と社会との距離なのだ。この目は決して相手や状況を憐れんでいるのではなく、生きるものたちの営みの一瞬一瞬は尊くて、私には決して手で触れることのできないと思うような生命の息遣い、互いが交差するときの命の微かな躍動のようなものを静かに見ている。それらとの距離は少し寂しくて、でも、美しさを享受している喜びもあって。自分にはうまくできなくて、そういう人間の営みや表現の美しさに憧れる、あのダイニングの隅で小さくうずくまっていた少女のまま、少しの焦燥感と共に。

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