粘土と彫刻

人生を動かすのにはある程度の時間がかかる。前を向いて未来を描き、よいしょよいしょと地盤を固めてようやく基盤ができたぞ、というところで今度は組み立て用の素材や道具集めが始まる。私はこんなに大人になってから土台をひっくり返して基礎工事を始めたものだから、地層が幾重にも重なり固まってしまっていて、その地層が出来上がるまでと同じくらいのうんざりするような年月を使って新たな人生を築こうとしている。生きるのがヘタなのか、長く生きるとはそういうものなのか。。?

そんなのろのろした人生だけど、今年は悶々と思い描く理想を形にできるような一つのツールと出会ったことが躍進的な一歩となった。大袈裟に言えば人生の軸となるような”いのちの表現方法”みたいなものをずっとずっと探していて、だから、これは一つ使える道具になるのでは?という感触があった時には本当に嬉しかった。

早くから出会いがあり人生をかけてその表現に取り組んでいる人たちへの憧れは膨らむばかりだったし、人にはそれぞれ葛藤があると思うけれど、それでもある程度年齢を重ねてゆくと、周りではちゃんとその人なりの人生を形作っていたりして、みんな賢く生きてるなぁ、と羨ましくもあった。

私はほんとうに長い時間、地道に粘土をこねこねと捏ねてはいびつな形をつくり、できたかも?という頃に壁にぶつけて壊すという幼稚なことを繰り返し続けていた。わ、何この寝ぼけた雪だるま、、!こういうことじゃないんだよ!ガッシャーン!!という具合に。ある時「粘土じゃなくて彫刻やってみたら?」と人に言われたときは目から鱗だった。ぺたぺた妙なものをくっ付けていくんじゃなくて、掘ってみなよと。

もはや目に見えぬ何かを探し当てることこそが人生の目的であり、見つかった時が人生を終える時なのかなと思うほどには捜索は難航していたけれど、でも粘土づくりや彫刻を止めることはなかった。探すことをやめたら人生が本当の意味で終わると思って、やめるのが怖かったのだ。そしてこれだけ渇望しているのに、探し物が見つかってしまうことに寂しさすら感じていたところもある。ラベルのないその自由さを失ってしまうような気がして。

うんざりしながらも、長引く闘いに蹴りをつけるのは今しかないと、しばらく人との交流を最小限にして、一人で山小屋に籠るような日々を過ごしていた。すると立ち向かうべき課題がボワンと浮き上がってきて、長年の粘土こねこねで気づかない内にかなり鍛え上げられていた腕力を駆使し、今だぁあ!!と、こびりついていた承認欲求を一気にベリベリと剥がした。ぴったりとくっ付いていてた承認欲求と自己実現したい己は、誰かの為に生きる!みたいな寝言をのたまっていたのだけれど、人は誰しも自分の足で立つことができるのだぞ、と、そのことの真意に近づいたとき、このぐずぐすとした共依存的な闘いに勝利して、ようやくスタートラインに立った気分だった。それは生きる世界への信頼だったように思う。

そうやって世界への信頼を取り戻すと、スチャっと地上に着地したような感覚を覚えて、長年掘り起こしていた探し物を見つけた。あぁこれだったのかと、今、とてもワクワクしている。これからしばらくこのツールと共に歩んでみるつもりだ。歩んだその先から見る新しい景色が、いまはとてつもなく楽しみなんだよ。(もう壁に投げつけたりしないと思う。)

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