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卯月コウは文学なのか

※このnoteは卯月コウの3D配信の感想について述べた文章になっている。所謂“中の人”的な部分に触れているから、苦手だという場合は注意してくれ。だいたい3000字くらいあるが手前にあるだらだらとしたどうでもいい前置きをすっ飛ばして手っ取り早く感想を読みたい奴は埋め込まれている動画の下にある文章から読んでくれればいい。それじゃ。

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 俺は“作者の心情”というやつが嫌いだ。でも国語が苦手だからという訳じゃない。むしろ学生時代俺が得意な科目といえば現国だったし、苦手な科目といえばそれ以外の全部だった。大学は文学部で日本文学を専攻して、文学論で卒論を書いた。
 国語のテストは、文章の中に全ての答えが書いてある。そこに解釈の余地は無いといっても良い(もし解釈出来る領域があるとすれば、それは問題そのものが不完全だ)。文学とは要するに文章を体系化しその結果を追究する学問であり、「誰がどう読んでもそう読み取れるもの」について論じるもので、“作者の心情”なんていう個人の解釈次第でどうにでもなるような問いは決して文学とは呼べないのだ。

 「解釈」。そう、今回は解釈について昨日からうだうだと考えていたことを、備忘録的な意味も込めて残したくなったので、こうしてnoteを書いている次第だ。前提として上に記した通り、この文章が“文学”でないことは、あらかじめ知っておいて欲しい(要するにここから下の文章はインターネットという馬鹿でかいチラシの裏に書かれたアレと変わらないという事だ)。

 「解釈」は文学ではない。じゃあ何なのかと言えば、俺は文芸に近いと思っている。この二つの差は文字通り「学問」と「芸術」の違いを指すものだ。
 誰が読んでもそう読める、文章を体系化し解釈を普遍化する文学に対し、文芸は鋭い解釈と豊かな感性を爆発させ、文章を見たまま、感じたままに読むものだ。俺は中学生の頃小説家か、何かしらの物書きになりたいと思っていたが、大学生になってこの二つの違いを理解したとき、あまりの才能の無さを自覚してその夢を諦めた。

 とはいえ、この二つに文章的な違いがあるのかと言われればそうじゃない。テストに出る夏目漱石の「こころ」も、文庫本で読む「こころ」も、その文字列に違いはなく、それが文学か文芸かなんて、結局読み手の姿勢の問題に過ぎない。

 俺が卯月コウというVtuberを好きになったのは、あいつが文学的な存在だったからだと思っていた。
 あいつは俺が知る中で、最も自身をキャラクター化する事に長けていた。
狙ってやっているのか、はたまた本人の生来の性なのか定かじゃないが、あいつは「卯月コウ」という存在が他者からどう見られているのか、見ている人間が「卯月コウ」というコンテンツに何を求めているのか、それらを理解して、リスナーという読み手に共通している解釈を抽出し、普遍化させた限り無く正解に近い「卯月コウ」を俺たちに出してくれる。
 順序は逆だが(その双方向性がVというコンテンツの魅力の一つだ)、これはとても文学的だ。
 こうした話が苦手な人間には申し訳ないが、彼の魂と呼ばれる存在はあくまでリスナーと「卯月コウ」を繋ぐ神の視点に座るコンテンツの語り手(授業で習う地の文と呼ばれているものだ)に過ぎず、登場人物であるバーチャル金髪中学生と彼は“離ればなれになってしまって”いるのだ。

 皆はこの配信を見ただろうか。

 この配信の最大同接は50000人超と、それまで卯月コウの代名詞でもあり彼の代表的な配信であったライブ王を優に超える、数字的にも彼にとって大きな意味を持つ配信だったと思う。
 もちろん大事なのは数字だけじゃない。その内容も、それまで「卯月コウ」というコンテンツを追ってきた人間にはめちゃくちゃに“刺さる”ものだった。

 俺がもっとも印象に残ったのはやはり49:51~頃の、夕暮れの教室で、コウが一人で配信の総括をして、最後に一曲歌うまでの流れだ。
 おそらく卯月コウのリスナーの多くが求めていた光景だったと思う。この配信の前にこういうものが見たいというツイートを100回は見たし、実際俺もこの光景が見たかったんだ。
 それまでの内容も、おりコウ3D、ちばなっとうの実現、うづコウランドやザリガニ、女の子の格好等、それまでの「卯月コウ」というコンテンツが綴ってきた様々な要素が詰まっていた。初期のコウが好きな人間も、最近のコウが好きな人間も、ともかく色々なリスナーの「見たい」に応えてあいつが作り上げた集大成のような配信だった(個人的な話だが、俺は配信前ツイートの「いっぞ!」が最もあいつのこれまでの活動を象徴している気がして、アニメの最終回で1期のオープニングテーマが流れるような、長らく張られてきた伏線が回収された時のようなカタルシスで始まる前から感情がぐちゃぐちゃになっていた)。

だが、あいつは最後の最後に配信の総括として、

「俺が学校生活を送る姿を3Dでやろうって思ったんだけど、それって自分向き過ぎるかなって。だってそれを見たいのって完全に俺だから、もうちょっと外向きの事をやろうって思ったんだけど(中略)やっぱり自分向けというか、自分でやって自分が救われるような内容にしようと思って、今の形になりました」51:14~53:25

なんていう訳だ。

 俺はそこで愕然としてしまった。あいつはこの配信を見に来た50000人を満足させるためではなく、自分の自分による自分のための配信としてこの3Dお披露目を作り上げたらしい。こうした言葉を明言するのは、今までのあいつらしくないし、俺が好んで見ていた卯月コウとは別のものだった。何せ文学的ではない。これでは“卯月コウの魂”が解釈した「卯月コウ」というコンテンツの二次創作だ。

 こういう「卯月コウ」がいたら、俺は救われるなあという自己満足。黒髪で大人の卯月コウではない誰かが願った夢の配信が、この3Dお披露目だった。

 けれど俺は、その誰かが願った配信に、どうしようもなく感情を揺さぶられた。それと同時に分かった。

 確かにコンテンツとしての「卯月コウ」が好きだ。永遠に歳を取らない中学生。陰キャで後ろ向きで格好悪いけどどこか人を惹き付ける魅力を持ったキャラクターとしてのあいつが好きなのは間違いない。

 だが、同時に俺が本当に好きで見ていたのは地の文だ。「卯月コウ」というコンテンツを独特の感性で語ってきたお前の事を、俺は「卯月コウ」というコンテンツを通して見ていた事に気づいた。

 そしてそいつが手前自身を救うために3Dとなって、お前が望む「卯月コウ3D配信」を行った。だから「俺が卯月コウになる配信」なんだ。だからお前は最後に“俺から俺に向けて”歌ったんだと、俺は思った。彗星になれたならでお前が「卯月コウ」に救われたように、その姿を見た俺もまた、彗星になれなかったお前に救われた。だから今回の配信は、まあいつも通りだけど、最高だったって訳だ。

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 まずはほとんど当日の深夜テンションで書いたこんな拙いnoteをここまで読んでくれてありがとう。冒頭でも言ったけどこの文章は馬鹿でかいチラシの裏に書かれた俺個人の“解釈”に過ぎない。卯月コウの魂はVという存在に憧れながらもなる事が出来なかった存在ではないし、そもそも卯月コウじゃないと言われている以上あの黒髪の大人と卯月コウの魂はまた別の人間かもしれない(全部を含めた言い方として俺は“ifの存在”と勝手に名付けている)。あの配信を見た人間の分だけの解釈があっていい。あれはそういう配信だったと思っているし、俺とはまた違う解釈があれば、この馬鹿でかいチラシの裏にでも書いておいてくれると嬉しい。

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