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わたしとみんなのうた~アニメ『ルミナスウィッチーズ』11話+12話感想~

前々回取り上げた『Extreme Heats』に続いて『ルミナスウィッチーズ』も最終回を迎えた。このブログでは10話の感想を書いたので、11話に触れつつ12話をメインに最後の感想を書こうと思う。

11話はジニーが自分の居場所を「ルミナスウィッチーズ」の中に定めるエピソードだった。

ジニーは元々モフィの仲間を見つけるために旅をしていた。その道中で「ルミナスウィッチーズ」に出会ったけれど、ジニーの中ではモフィの仲間探しが一番大切で自身の居場所については意識していなかった。

だからウィッチとしての能力を喪失した時、あっさりと「ルミナスウィッチーズ」の皆から離れていってしまう。ジニーにとっては「ルミナスウィッチーズ」に入れたことは”モフィと出会った”のと同じような幸運で、その日々が楽しかったとしても「素の自分が必要とされている」と感じられるようなものではなかった。

けれど「ルミナスウィッチーズ」の8人は、いつだってジニーのことを必要としていた。ジニーが抜けると歌詞の内容が浮かんでこないし、演目の構成だって考えられない。でもジニーがいると考えれば不思議とアイデアが湧いてくる。

同じように、ジニーも「ルミナスウィッチーズ」が大切な存在になっていたことに気付く。ブリタニアのどこにいっても「ルミナスウィッチーズ」の皆と過ごした思い出が浮かんでくる。ジニーは8人と離れることで初めて自分の居場所がどこにあるのか、はっきりと認識できるようになった。

そして自身が「ルミナスウィッチーズ」にいたことの証である、皆と歌ってきた歌を聞いて、”モフィがいない今の自分"も「ルミナスウィッチーズ」の皆と一緒にいたいことに気付く。ジニーは急いで出発前の基地へと戻り、8人との再会を噛みしめながら自分の居場所を定めることが出来た。

12話でジニーは飛べなくてもステージに立つ。8人の煌めきを見守りながら、ステージの中心(センターではない)で堂々とパフォーマンスをする。

グレイス大尉は、「ポンコツでも胸を張っていなさい」と言ってジニーを送り出す。「ルミナスウィッチーズ」は、ウィッチとしては適性のない存在が集まって歌い始めた組織だった。「ポンコツ」という言葉が8人を蝕み、その呪いは11話で(言葉をまともに覚えていない)ジニーにまで広がってしまうほど強烈な威力を放っていた。

『ストライクウィッチーズ』の世界ではウィッチとしての適性があり、強く優れた戦い方を出来ることが、何よりも評価される。

だからこそウィッチとしての力を持たないか、持っていてもまともに扱えない「ポンコツ」は自身を”無力で価値のない存在”として捉えるしかなかった。

しかし、実際には「ウィッチとして適性があり、強く優れた戦い方を出来る」存在はほんの一握りで、しかもその輝きには有限性がある。宮藤芳佳のような特殊な体質でない限り魔法力は20歳を超える頃に殆ど無くなってしまう。

『ストライクウィッチーズ』の世界では人類の99%は何らかの意味で「ポンコツ」であるか、時間が経てば「ポンコツ」になってしまう可能性がある。だからこそ「ポンコツ」という言葉は強烈な意味を持ち、多くの人を蝕んできた。

グレイス大尉はそんな世界で「歌うことの価値」を見出そうとした。戦えなくても、飛べなくても、歌で人を癒すことが出来る。それはとても大切なことだとグレイス大尉は信じていた。

そして、歌は平等にあらゆる人の力になってくれる。7話でサーニャが父のピアノを聴いて涙を流したように、強い力を持っているからこその痛みだって歌(音楽)は癒すことが出来る。

それでも『ストライクウィッチーズ』の世界には多くの「ポンコツ」が自身の無力を感じながら、必死に毎日を生きている。そしてその行動が、一部の”強い”ウィッチが活躍できる地盤にもなっている。

農村を守っていたブリタニアの人たち、ピアノよりも日々の暮らしを優先していたヴォロージャ、平和な扶桑で長閑な暮らしを続けてきた渋谷いのりのおばあちゃん。

「ルミナスウィッチーズ」が全国行脚で出会った人たちのような目に見えない個々人の努力。それはとても偉大で尊く”価値”のあることだと、グレイス大尉は気付いていた。

だからこそグレイス大尉は「ポンコツでも胸を張っていなさい」とジニーを送り出すし、飛べなくてもステージの真ん中に立たせる。飛べることが全てじゃない。音楽は全ての人を癒すもので、尚且つ、歌い手にも同じように音は響く。飛べなくたってジニーの音楽が少しでも人に届くのなら、そこに”価値”はある。

グレイス大尉が見つめて、実際に花開いた音楽という力。しかしその力を認めてもらうには軍人の歌い手が必要で「何か足りない」と思っていた時、欠けた穴を埋めてくれたのがジニーだった。そしてジニーの歌を見つけた時、彼女が歌っていた曲…『永久の寄す処へ』をグレイス大尉に送った誰か(ルミナスのみんな?)はとてもいいことをしたと思う。

ジニーはみんなと歌っている時に自分の元に飛んでくるモフィを見つける。モフィは自由な空へ羽ばたいて様々な世界を見た結果、ジニーの隣に立つことを選んだ。モフィの選択した答えは11話でジニーが気づき、選び取ったものと全く同じだった。

10話のエリーと11話のグレイス大尉は(ジニー)のモフィに対する想いを聞いた時、「そんな風に思っていたの?」と驚く。外から見ればジニーの隣はモフィがいて、モフィの隣にジニーがいて、二人のいる居場所は「ルミナスウィッチーズ」。そうとしか思えなかったからだ。

けれどジニーにもモフィにも、それを自信を持って選ぶための経験が不足していた。だからジニーはモフィを解き放ち多くの世界を見ることで、モフィに「一番の居場所」を定められるようにしてあげた。

そしてモフィはジニーの隣を「一番の居場所」に選んだ。ジニーはモフィと出会った時から小さかったモフィを大切に守り、成長後も無二の友人として付き合ってきた。その絆より強い結びつきなんて世界のどこを探しても無かったのだと思う。

そしてジニーの選んだ献身(=モフィに旅をさせること)が再び奇跡を起こすための魔法力を蓄積させ、モフィは再び自身の能力を開花させる。

モフィの発動した能力で世界中の人たちと「ルミナスウィッチーズ」は繋がれるようになる。ちょっとホラーテイストな映像で一瞬身構えてしまう分かりにくさが佐伯監督の描く世界観の魅力だと思う。

それはさておき、送受信のために使う(電波の)広がりに多くのナイトウィッチが協力していたのも良かった。ハインリーケ、ハイデマリー、サーニャといった歴戦の兵に加えて、まだまだ新米の西杉智美も「ルミナスウィッチーズ」の起こすミラクルを手伝っている。

「ポンコツ」だけが優遇されるわけではなくて、一部の”選ばれた”ウィッチも自分の出来ることを全力でやって世界を守っている。それを最後にしっかりと描いているのが佐伯監督らしい視野の広がりだし、「ルミナスウィッチーズ」の公平さを表している部分だと感じるシーンだと思う。

その上で、最後は「ポンコツ」と言われた9人と、その中で日々を生きる人たちが主役になる。この作品の主役はあくまでも”選ばれた”特別なウィッチではなくて、『ストライクウィッチーズ』の世界を普通に過ごしている目立たない(けれど大切な働きをしている)人たちだ。

最後の楽曲では『ルミナスウィッチーズ』のエピソードを振り返りつつ、出会ってきた全ての人たちが登場する。『503JFW』の人たちもライブを見守っていたけれど、殆どの人はウィッチとしての資質を持たない普通の人たちだ。けれどその人たちの行いによって日々は紡がれていて、世界の平和も守られている。だから、その全てに”価値”がある。

アニメ『ルミナスウィッチーズ』は一つの適性しか”価値”を持てない世界で、それ以外の”素晴らしいもの”を見つけようと試みる、視野の広い作品だったと思う。佐伯監督の脚本、絵コンテが随所で刺さり(副監督を始めとした)多くのスタッフが持てる力を最大限に発揮して、『ストライクウィッチーズ』の世界に新たな視点をもたらしていた。

最終話、機内でもちゃもちゃするいのりちゃんを見て「佐伯監督ゥ!最終話も絵コンテありがとうございます!!!」ってなったけど。それ以上に、最終話は山崎莉乃さんが脚本に入ってたのが嬉しかったな。『放課後のプレアデス』制作メンバーだもんな……山崎莉乃さん……

5話でジョーとシルヴィを繋いだリボンや8話でミラーシャとアイラを繋いだ歌のように、山崎莉乃さんは「物」を使って人の心を通じ合わせるのがとても上手い。

最終話も「ルミナスウィッチーズ」と観客を繋ぐのは「音波」なので(キスやハグといった)直接的な表現を抜きに精神的な結びつきを表せる山崎莉乃さんが脚本に入ったのはベストな選択だったと思う。

脚本家専門の山崎さん以外にも、佐伯監督や春藤副監督のように「脚本・絵コンテ」の双方が出来る人がスタッフにいたのは大きかったと思う。作中で見せたいものを明確に表現できていたし、メッセージを受け取りやすい作品だった。春藤副監督の絵コンテ回、めっちゃ綺麗な作画だったよね…

佐伯監督(作品)の長所は「考えさせること」「視聴者も巻き込んで前のめりにさせること」だと思っているので、森悠さんの脚本は分かりやすすぎて少し合わない部分もあった。しかし、これは脚本家の短所ではないと思うので、何処かでまた森悠さんの脚本を見ることがあったら楽しく見れるといいなと思う。

キャラクターではジニーのことをとても好きになれた。いいキャラだったね、ジニーちゃん。可愛いし。献身的な姿勢が最後までズレなくて、その上で自分の意思も早いうちから伝えるようになった分、お飾りの主人公という感じが全くなかった。感情移入してキャラクターを見ることが出来たと思う。

それから声優さんたち。正直アイラ様の声はちょっと不安だったけど、エピソードが進むごとにどんどん味が出て最後には「アイラ・ペイヴィッキ・リンナマー」というキャラクターが確立されたかなと。リーダーとしての振る舞いに人間味があって、その上で頼りになる部分も沢山感じられたのが良かったなと思う。

それ以外の人たちは大体キャラに声が合っていて、殆ど違和感なく見れた印象。6話で叫ぶ/泣く演技のあったマリアは本当に難しい役だったと思うけど、キャラクターイメージも崩れなかったし、その上で迫力もあって凄く良かった。

声優交代もあった中で頑張ってくれたな…というのが今の一番率直な感想。いのりちゃんとか、エリーとか、ミラーシャとか、可愛いキャラクターは沢山いて、声優さんたちも全力を尽くしたお陰で「いいフィルムに仕上がった」作品だと思います。勿論それ以外の全ての関係者の人たちも。

自分は佐伯監督のファンなので、この作品がいいものになってくれることを願ってやまなかったけど、「監督目当て」というのは結構難しい見方で、どうしても他の要素が引き算になってしまうというか。

その中で引き算出来る部分は少なかったと思うし、寧ろ足し算に出来る部分がしっかりとあったのが嬉しかった。放送延期とか不安な部分も多かったけど、佐伯監督の絵作りをちゃんと感じられる作品が見れて良かったなと思います。これは、関係者の人たちが真剣に作品に関わった成果だと思う。皆さんお疲れ様でした。とりあえず、円盤買います。


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