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多様性というブラインド

多様性とかダイバーシティという単語を耳にすることが日常的になった。

そしてメディアの影響力を身をもって感じる。ここ数ヶ月で、元々学術書くらいでしか目にすることのなかった境界知能という単語も急に耳に入ってくるようになった。
一方で、こういった一般層に元々浸透していなかった単語はインフルエンサーの過激的な使い方で露出することが多くて、本来の使われ方に比べて少し偏った使われ方をすることが多い気もする。(もちろん、言語は使われながら意味が後付けされていく側面があることも事実。)

ダイバーシティも最近ではむしろ言い訳に使われているような傾向が垣間見える。ダイバーシティの時代だから仕方ないよね。。みたいな。

多様性を尊重しなければいけないから、今まで以上に波風を立ててはいけないような。そんな空気が大企業を中心に社会全体に伝播し始めている。

自分の勤める会社でも、年に2、3回は多様性について考えるようなセッションが設けられて、小グループに分かれて、ディスカッションを行い、グループとしての答えを人事部に提出する。ということが行われている。

設けられる時間も少ないためか、議論はコンパクトにしなければならなくなる。ファシリテーターはディスカッションを効率的に進めようと、できるだけいろんな人に意見を求めつつも議事録が綺麗にまとまるように会を進める。

そういう場回しができる人を見ると、とても効率的に仕事ができる人だと思う。おそらく、ある程度筋書きのパターンが頭の中にはあり、どれかに着地させようとしているのだろう。だが、それでいいのかと引っかかってしまう。

全く煮込まれていない。

たくさんの食材はいれたものの煮込み時間が明らかに足りてないスープの上澄みだけを掬ったような汁が皿に載せられて、お上に提供される。

指定された食材、片付けの手間まで考慮された調理工程、見栄えの良い盛り付け。会社側が欲しい条件は満たしていると思う。でもそれで本当にいいのだろうか。

よく、その違和感を会の中で発言することでファシリテーターと意見が食い違い、ディスカッションクラッシャー気味になり、議論を気まずくしてしまう。(就職活動のときを思い出す。)

多様性を認めることは、色々な人の意見をただ、うんうん頷いて聞くことなのだろうか。意見と意見の対立がないディスカッションをディスカッションと呼んで良いのだろうか。それは本当に他者の理解に繋がっているのだろうか。

本当に他者を理解するためには、意見の対立を恐れず、その根拠まで深掘りする必要があるのではないだろうか。

多様性を認めるということは、同時に摩擦が生まれることを覚悟することなのではないのだろうか。本当の理解はその先にしかないのではないだろうか。と思うものの。

現実的なハードルがあることも理解できる。

難しい。。

多様性という単語にはいつもモヤモヤさせられる。

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