眩耀夜行104期でもやるんか問題を考える

 2nd Live Tourでの披露がないままに、103期編成が終わりを迎えてしまった。なんてことだ。

 それもあってか先日、友人との会話の中で、はたして今後104期編成でも眩耀夜行は歌われるんだろうか、ということが話題に上がった。その会話の中では、三人で歌う事に否定的な意見が多かったことが小々気になったので、自分なりの考えをまとめる。

 結論から書けば、自分は特に大きな解釈違いを起こすわけでもないと思っているので、むしろ今後も歌ってほしい派である。

 まず、そもそも眩耀夜行とはどんな曲なのかといえば、

 七夕の夜の金沢を舞台に、少女二人の、小さな、まるで逃避行のような情景。

 その情景に重ねて、「時間を止めてよ」と願う程に、「君」との今がいつか終わってしまうことを怖れた、書き手である梢の感傷を込めて歌われる、そんな想いの重い曲だろう。

 歌詞の中に登場する「君」については、自分は素直に「花帆」であると解釈する。君は花帆。スリブは百合。それでいい。

 そのため、梢と花帆の二人で歌われるのが、一番美しいと感じる曲であるのは間違いないのだが、だからと言って、決して「二人の曲」というわけでもないと思っている。

 何故ならば、この曲の歌詞は、ほぼ全てが梢一人の視点と想いだけで書かれた内容であるからだ。いやまあ、梢の歌詞はだいたい全部そうだし、梢が書いているのだから当たり前ではあるのだが。

 ただ、眩耀夜行は梢曲の中で見ても、梢から見た「二人」の関係性を書いたもの、というよりも梢から「君」へと向けた想いだけで書かれている、という側面が強い。言うなれば、これは「一人の曲」である。

 歌詞の中で明確に花帆の言葉なのは、台詞として書かれた「もっといけるよ」「ねえ私たちも」「きれいな夜だね」の三箇所だけだ。それ以外のほぼ全ては梢の想いで綴られている。歌詞の中で、固く繋いだ手を離さないと叫んでいるのも梢だ。だからこそ、花帆が「離さない」と一人で歌うことに意義があるのだ。

 眩耀夜行とはそんな曲だ。「一人」が、「一人」を想って、描かれた曲だ。

 だから、吟子なら歌えると思っている。

 先輩、後輩という差はあれど、同じくらい花帆への重い想いがあって。先に卒業してしまう、されてしまう、学年差による別れを怖れる気持ちを共感できる吟子なら、梢と同じ湿度でこの曲を歌えると思うのだ。

 眩耀夜行において、「君」は増やせない。唯一無二だ。けれど、「君」を想って歌う存在は、二人いてもいいと自分は考える。百合感情が大渋滞起こしそうではあるが。

 104期でも、三人でも、歌っていってほしい。そして、夜の暗闇に未来への不安を重ねて、焦燥感に駆られながら、それでも固く手を繋いで、流れていく方へ、行けるところまで進もうとする先輩と後輩に、花帆は教えてあげてほしい。未来は怖くないんだ、という事を。「きれいな夜だね」という台詞で以て。

 眩耀夜行。目が眩むほどに眩い未来へと進もうとするこの曲を、103期だけで終わらせてしまうのは、あまりに勿体無いだろう。いいから歌ってくれ。

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