POP INDONESIAを聴こう! Imlek Tlah Tiba

 以前、ぽつぽつやっていたブログでもやっていたのですが、せっかくなのでせっかく身に着けたマレー語(インドネシア語)を腐らせないためにということと、なによりマレー(インドネシア)ポップスの紹介も兼ねて、マレー語やインドネシア語の歌をちょいちょい翻訳していけたらなと思います。

 さてことしも農暦正月(旧正月)がたってきました。インドネシアでも農暦正月は祝日に指定されていて華人たちに祝われています。インドネシア語で農暦正月はImlekといいます。陰暦の福建語読みですね。

 というわけでインドネシアの農暦正月ソングを紹介したいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=simMKQonj6U

Tina Toonという方の歌うImlek T'lah Tiba(正月がやってきた)という曲です。インドネシアの歌をとか言いながらじつは後半はマンダリン(標準中国語)です。中国語の歌詞は書き起こせなくもないですが、ちゃんとした歌詞がみつからなかったので取り敢えずインドネシア語の歌詞だけでもお楽しみください。


Hari bahagia kini t'lah tiba

喜ばしい日がやってきた

Bunga- bunga mei hua kini semua berkembang

梅の花が咲いている

Sanak saudara berkumpul bersama

親戚みんながあつまって

Bertanda Imlek t'lah tiba

正月がやってきた実感がわく

Kue keranjang semua t'lah sedia

たくさんのお菓子も並んでいるし

Jangan lupa memakai baju merah

赤色の服を着るのを忘れないで

Salam salam bagi semua orang

みんなに挨拶まわりにいこう

Gong Xi Fa Cai! Hong Bao Na Lai!

恭喜發財!紅包拿來!

Tahun berganti tanpa terasa

新しい年になった実感がしなくても

Umur bertambah semakin dewasa

歳を重ねてひとつ大人に

Hormati orang tua

両親を敬って

Jangan lupa berdoa

お祈りも忘れないで

Semoga selalu bahagia

いつも幸せでありますように

(中国語の歌詞は省略/分かり次第載せます。意味はインドネシア語のと殆ど同じです)


【解説】

 この歌、華人歌手ががインドネシア語と中国語で歌っているお正月の歌、というのは間違いないのですが、ちょっとした前提知識みたいなものを知っていていただくといいかと思います。

 インドネシア語がわかる方が聴いていただいたく気が付くとと思いますが、インドネシア語歌詞のsの部分が極力shに近づけられていてちょっとした違和感も覚えます。おそらくですが、中国的な雰囲気を醸し出すためかと思われます。

 この曲がつくられたのは2009年。ミュージックビデオが撮影されている場所はいかにも中華な雰囲気の場所ですが、ジャカルタ郊外にあるタマンミニ(Taman Mini Indonesia Indah)という各州や地域などの文化を紹介する博物館の施設内です。記憶が正しければ、家のシーンは「鄭和記念館」という展示スペースのはずです。

 インドネシア華人の大半が福建省を中心とする華南地方の出身ですが、この曲が発表される直前に開業した華人パビリオンや、今回紹介するこの曲には南部の福建的な要素などはほとんど見られません。ステレオタイプな「中国」や「中華」のイメージを具現化したような歌やビデオです。

 1998年、それまで強権的な独裁体制を敷いていたスハルト大統領が退陣するまで、30年ほどわたって中国語教育が禁止されていました。特に華人は敵性外国人のような扱いを受け、姓名をインドネシア風に改名し、文化も表に出せず家庭内のみでの実践になりました。特に言語面でのインドネシア化は激しく、スハルト時代は華人が「インドネシア」に同化する期間であったといえます。スハルトが退陣し、地方文化や民族文化の復興が認められたときには、インドネシア生まれの華人の多くが中国語や中国方言を話せないという状況になっていました(地方差があり、スマトラなどでは比較的、福建語や潮州語が話されているところもあります)。インドネシアの他の民族もそういった傾向がみられますが、失われかけていた民族性を取り戻すために、あまりにもステレオタイプすぎる中国文化を目指したなかでうまれた曲であるともいえます。

 この曲が発表されたのはスハルト退陣から10年ほど経ったころです。長年の独裁政治で、退陣したといってもすぐには動き出せず、大丈夫そうだと頃合いを見計らって徐々に他の民族などが文化や言語を復興させていった時期で、華人もそれに乗り出しました。スハルト時代に公認宗教として認められていなかった儒教(Kongfucu)を国に認めさせ、農暦正月を祝日として認めてもらえるようになり、華人の風習や中国語教育などを大々的にできるようになっていくなかで生まれた曲です。

 失われた「華人」を取り戻すためのモデルとして先祖の故郷である中国を志向しました。タマンミニの華人文化公園の展示は、華人の紹介というより「中国」の紹介に近いです。華人の出身地が福建や潮州、広府、海南島など多岐にわたるから紹介しきれずひとまとめにした、というわけでもなく、ほんとうにステレオタイプの中国が再現されました。インドネシア華人らしい展示といえば、あとから華人文化公園のなかに客家人の団体が設立した、土楼を模した建物の客家博物館くらいです。

  いちど失われた文化はすぐには帰ってきません。インドネシア華人が自らの文化を復興させていこうと模索するなかで、その手本としてあまりにもごりごりなまでの中国を志向したのは当然のことだったのかもしれません。特にインドネシアから見て外国にルーツをもつ人々だからこそ外を見たのだと思います。隣国マレーシアやシンガポールの華人のように、脈々と独自の文化を保ってきたという自信もなかったのだと思います。最近ではインドネシア華人がインドネシア各地で生み出し受け継いできた文化の見直しも始まっていますが、そうなるまでの、華人文化振興の最初期の手探りだったころの歌の紹介でした。

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