日本語を生きた人たち

 もうすぐ100歳である。慶尚北道の山間部に住む、母方の祖父の姉のことだ。旦那さんも元気である。いちおう自分は民族学校で韓国語を学んできたが、母方の祖父の姉はあまりにも方言がきつすぎるため「マイルドな慶尚北道方言の通訳」を挟まないと話せないほどだ。いつも訪問すると手のひらに柿を持って包丁で切ってくれる。そして「食べなさい」とその切ってくれた柿を食べる。「食べなさい」は、母方の祖父の姉が、唯一知っている日本語だ。

 母方の祖父は勉学を修めるため、単身日本に渡ってきた。ただしときは第二次世界大戦、貧乏な朝鮮人に勉学できる環境があるはずがなく、騙されて炭鉱で働いていたという。「ほんとうに苦労した人はその話をしたがらない」というが、母方の祖父は若いころの話には口をつぐみ、韓国民団で在日同胞の権益擁護のために働いていた。大阪は梅田のすぐ隣、中崎町にある民団大阪本部ビルの副団長席に座っていたが、その生まれはいまも自身の姉が住む慶尚北道の農村で、周囲に学校はなく山道を歩いて二時間かけて学校に通っていたという。学校までの道が怖いのでよく歌を歌っていたという。お酒をめったに飲まず飲んでも弱かったらしいが、酔っぱらうとそのときの歌を歌ったという。残念ながら自分が生まれる数年前、入れ違いのように世を去った。

 百姓の娘に教育はいらないと判断したのだろう、母方の曾祖父は祖父にだけ教育を受けさせた。女きょうだいは教育を受けていないのでもちろん文字の読み書きはできない。生前の母方の祖父の話は又聞きでしかないのだが、教育を受けただけあって読み書きはできたし日本語もできた。ただし韓国人らしい訛りはあったという。あの時代の人には珍しくない話だろう。

 母方の祖父はそんなかんじだが、父方の祖父はあの世代の人にしてはとても日本語がじょうずであった。在日一世というと、母方の祖父のように韓国訛りがある日本語を話すというイメージを持ちがちだ。なかには韓国語と訊き間違えるほどきつい訛りの人もいる。在日三世の小学生が、友達が家に遊びに来たときに、韓国人だとばれてしまうので韓国訛りの日本語を話すチョゴリを着た祖母を押し入れに閉じ込めた、なんていう話もある。民団で活動しているときも、日本語よりも先に南部方言のきつい韓国語が出てきそうなタイプの高齢者に何度も会ってきた。何十年と日本に住んでいても母語の訛りは抜けない。

 そんな在日一世たちのなかでも祖父が日本人と見まがうような日本語を話したのは大都会釜山で育ったからだろうと思う。慶尚北道の農村ではなく、日本と韓半島をつなぐ玄関口である港町釜山だ。解放当時16歳で、級友にはたくさんの日本人がいたという。祖父も日本語で教育を受けていた。

 父方の祖父が日本に渡ってきたのは解放から5年後、韓国戦争(朝鮮戦争)で北韓国の軍が釜山近くの洛東江まで迫ってきたときである。ひとり息子を軍に取られて死なれたら困ると、曾祖父らが21歳だった祖父を小舟に乗せて玄界灘の向こう側に送り出した。はっきりいえば密入国である。日本に身寄りはいなかったが、プロテスタント一族で育った祖父は教会に頼るという方法を知ってた。神戸灘の教会に辿り着き、以来その地上での生涯を終えるまで関西で過ごした。曾祖父らも祖父の日本語能力が日本に送り出してもじゅうぶんに生きていけると判断したのだろう。韓国訛りが目立った母方の祖母と比べると言われなければ韓国人とはわからないほどであった。

 詳しい話は聞けずじまいだったのだが、もしかしたら難しいことは日本語で考えていたのではないかと思っている。なにせ中等教育まで日本語だったわけである。もしかしたらそうでなかったかもしれないし。でも父親が言うには、祖父母らの夫婦喧嘩は韓国語だったというからそのへんはあくまで推測にしかならない。

 そんな祖父は男きょうだいはひとりだけだったのだが、女きょうだいは何人かいて、韓国戦争からの難しい時代を生き抜き韓国の地に住み続けた。そのうちのひとり、祖父の姉にあたる人物とソウルでいちどだけあった。民族学校の中学校に通っていたときで、まだ韓国語は上手くなかった。父のいとこにあたるおじさん、つまり祖父の姉の息子が通訳してくれた。おじさんは大阪の大学を卒業した(もちろん密入国ではなく正規の留学生)ので日本語ができる。自分の息子すら認識しないほどの重度の認知症だった祖父の姉は韓国語でなにやら言っていたのだが、おじさんが「うちの母は認知症がすすんでいて・・・」と日本語で説明しはじめると、日本からの来客に気が付いたのかこちらの目を見て「あら、日本からいらした方ですか?」と尋ねてきた。

 そのときに中学生ながら衝撃を受けた衝撃がいまも忘れられない。

 韓国人に認められるような訛りはなかった。東京の山手の貴婦人のようなといえばいいのか、ほんとうに上品な日本語を話したのだ。日本語ネイティブのこちらがたじろぐほどの、上品で淀みのないきれいな、教科書のような日本語だった。美しい日本語とはこのことを指すのだと思う、というくらいきれいな日本語であった。

 いったい父方の祖父の姉はどのような青春時代を青春時代を送ったのだろうか。あの美しい日本語を、いまも頭のなかで再現できるほどよく覚えている。祖父の姉は釜山で女学校に通っていたという。祖父より歳上なので、日本語で中等教育を修了したのだろう。もしかしたらとてもきれいな日本語を書いたはずだ。

 父方の祖父の姉は、祖父のように日本に住んでいたわけでもない。日常生活で日本語を使うこともなかったはずだ。70年間、日本から来た身内にしか話さなかったような日本語を、あれだけはっきりと、きれいに、美しく自然に話した。話していなかっただけで、もしかしたら頭のなかは日本語だったのだろうかとも思う。そうでなければ出てこなかったと思う。

 帰阪してから父親にその話をすると「ああ、コモ(伯母さん)は日本語上手いぞ」と何事もなく言った。たしかに父親は認知症になる前の伯母さんを知っているのかもしれないが、こちらは初対面で、しかも認知症が進んだ状態で会っているのである。

 植民地統治とはそういうものかもしれない。日帝は植民地の言語を奪い、自らの言語を押し付け、名前まで変えさせた。しかし母方と父方は環境が違いすぎた。かたや農村育ちで、母方の祖父の姉のまわりには警官くらいしか、いや、もしかしたらひとりも日本人がいなかっただろう。対して港町で生まれ育った父方のきょうだいたちはきれいな日本語を身に付けた。身に付けざるを得なかったのかもしれないし、あの時代の釜山にいれば日本語ができないと話にならなかったのかもしれない。いずれにせよ、父方の祖父とその姉が過ごした多感な時期を語るのに、日本語という言語は外せなかったのだろうと思う。

 母方の祖父と同郷である朴正煕は典型的な植民地エリートだったが、彼はおそらく日本語で難しい事柄を考えていたのだと思う。そういう教育を受けてきたからだ。そうでもしないと出世は望めなかった時代と環境である。戦後の国家建設のなかで、韓国では日本語で教育を受けたエリートたちが活躍し、韓国語だけで運営できる社会を作り上げたが、彼らの頭の中には日本語があったのだろうと思う。台湾のエリートも然り。もしかしたら日本語でしか考えられなかったのかもしれない。植民地の亡霊といえばそうかもしれないが、新国家と旧宗主国のあいだで葛藤した人もいるはずだ。植民地支配はたくさんの痕を残すが、当人たちにとっては日本語での思考が自然なものだったのかもしれない。

 父方の祖父の姉と会った数年後、この世を去ったという連絡が来た。母方の祖父も、父方の祖父も、その姉も、みな大事な話をしないまま天に帰っていく。あのとき、こちらがたじろいで、祖父の姉もまた韓国語で違う話を始めたのだが、もしかしたら日本語でなにか話せていたら、女学生時代の話を嬉々として話してくれたかもしれない。ほんとうにきれいな日本語を一生忘れなかったくらいなのだ。

 つぎ慶尚北道の母方の祖父の姉に会うときまでに、方言をもっとわかるように勉強しておこうと思う。

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