BFC5落選展感想25~27
BFC5落選展の感想です。リストはkamiushiさんによるまとめ「BFC5落選展」をお借りしました。
LIST25 「自転車の群れ」鮭さん
掲載サイトはカクヨムです。カクヨムは最近(2023年11月28日)、作品ページがリニューアルされて読書画面に目次が表示されるようになりました。
それで作品のリンクへ飛んだ私はたまげました。これはショートショート短編集なのですが、「連載中 全453話」!? ちなみに通し番号1番の作品「ミミズの耳」は、2017年6月22日の公開だそうです。
七年前・・・。私は自分が七年前なにをしていたのか思い出せない・・・たぶん、二次創作かな・・・?
かようにひとの記憶は不確かなのだから、定期的に文章を書いて投稿するのは大切だと思います。ポートフォリオというか、自分の年表を可視化できる。
ここで該当作品と比較するかたちで作品の感想を書くのは気がひけますが、私は「ミミズの耳」はひたむきな生命力に満ちあふれていると思いました。でも、「ミミズの耳」で書かれている狂気は、なんというか、主体が能動的なぶん作為を感じるんですよね。エンタメ色が強いというか。
その点、「自転車の群れ」の主体は受動的で、逃れられない狂気がにじみ出ている。大人びた哀愁とでもいうべきか。二作だけ比較して語るのはおこがましいけれど、自分よりも世界が狂いはじめたのだ・・・!と思いました。
これは物量に圧倒されて思ったことを書いただけなので、次にあらすじを書きます。・・・あらすじ???
◇あらすじ???
「私」が新宿の自室に帰宅すると、ドアを開けてすぐのところに自転車があり、その自転車にはおじさんがまたがっていた。
庭にも、同じようにおじさんがまたがっている自転車がある。
窓枠にも、とても小さなおじさんが乗っている自転車がある。そして床の上では極小のおじさんが自転車で駆け回っている。
「私」は途方に暮れるが、原因はなにもわからない。結局、「私」は目の前で起こっていることを「そう、仕方ない。私の責任だ」と受け入れようとする。
駆け回る自転車が川のような音を立てる中、「私」は「生活したい」とおじさんをどうにかする方策を立てようとする。しかし「私」はボスかもしれない大きなおじさんを相手にする勇気が出ず、極小の自転車たちを眺める。
「私」は川のように走り回り音を立てるおじさんを見て、自分が最近、川を眺める時間を持っていなかったことに気がつく。「夜中に一人で川を眺めた懐かしい日々を思い出し、私は涙を流すのでした。」
まず、主人公が「おじさん」より「自転車」に主眼を置いている点に驚きます。冒頭からして「ドアを開けると自転車が置いてあった」だし、自転車に乗っているおじさんがいた、ではなく、「おじさんが乗っている自転車が置いてあった」なのはかなり斬新です。この点はあとで深掘りして語ります。
あと、この話の場合、余白がとても重要だと思うので引用します。
思い切っててすごいな! と思いました。この前後二行ずつの擬音語で主人公の感慨を挟み込む書き方が視覚的に川っぽくて良い。
あと、このお話は結末部だけが敬体(です・ます調)ですね。どことなくエッセイ漫画のオチのコマを思わせる書き方です。私は語り手の混乱や絶望がこの一文で小さなコマの中におさまった気がした。
読み手からギュンと距離をとるというか・・・ショートショートでは一般的な終わらせ方なのかな。なかなか興味深い。
◇自転車 > おじさん
玄関を開けてすぐ自転車がある。実は私も、前に住んでいたアパートで自転車をここに置いていました。
駐輪場がないアパートだったのですよ。一階だったから出し入れも楽だったし。(そういえば窓から庭が見えるようなので「私」も一階に住んでいるようです)
だから自転車が玄関にあるのは、肌感覚としてわかるんですが、問題はそこにおじさんが乗っているという点です。
そしてこのおじさんについての描写が(たとえば太っているとか、髪は短いとか、眼鏡をかけているとか)なされていないわけです。
なぜ特徴のないおじさんなのでしょうか。それはきっと、「得体が知れない」からなんだろうな、と思いました。
これ、「後ろを見ると」とあるので、私はおじさんの横を抜けて部屋の中に入ってはいるんだよな。ということはやっぱりこれは幻覚のたぐいで、幻覚という自覚もあるのだろうか。(幻覚扱いすることで現実逃避しているのかもしれないけれど)
小さいおじさんという都市伝説もあるし、ぶつかりおじさん、おじさん構文など、あしながおじさん以降、おじさんという言葉にはたぶんいいイメージがないのです。あしながおじさんも名づけの由来などを考えるとどこか怪異めいた存在ではある・・・。
つまり何を言いたいかというと、そういう対話不能で得体のしれないものに部屋を占拠されている、そのモヤッと感を表現するためなのかなって。でも、そのおじさんはたぶんイメージにすぎず、現実にあるのは自転車だけなんじゃないのかなあ。だから言い表す時、自転車が先行する。
自分の過去のすまいにイメージを引っ張られすぎている気もするが。(本当にすみません)
でも、この「私」がとても疲れきっていることは、読めば伝わってきます。なにに? きっと、理不尽なおじさん的他者と、その他者で構成される社会に。
先に引用した「なんか、川みたいだな。川の音みたいだ。」という気づきは、そういう意味では救いだったと思います。新宿でいい川が見つかればいいんだけど。
LIST26 「誰もいない」鳥山まこと
悲しい時は、イケアで買ったパンダちゃんとお話しをします。
春Q「春Qちゃん、どうしたのー? 悲しくなっちゃったの? よしよしよしよし」
パンダちゃん「・・・・・・」
春Q「ウンウン、足が冷たくてお腹が空いて、そのうえ〆切がヤバイんだね。だいじょぶよ、Qちゃん。一緒に一個ずつやろ!」
パンダちゃん「・・・・・・」
春Q「まずはお湯を沸かしに行こっか♪」
要は、お膝に乗せたパンダちゃんになりきって、自分の言ってほしいことをパンダちゃんに言わせているんですね。パンダちゃんは何も言わないでも私の思いを全てわかってくれるので、気持ちを吐き出す必要がないのです。
コミュニケーション限界キショ女のメンタルケア。これが病んだ社会の最適解です。
本題に入りますが、この作品には主体の一人称が登場しません。
主体のみならず、電話やメッセージのやりとりをする関谷や大田も、俺とか僕とか私とか使わない。彼らが主体を呼ぶこともない。
途中「この世で暇なのはたったの自分だけなのか」との文言が入りますが、これも「たった一人、俺だけなのか」みたいな言い回しをしないあたり、意図して避けているんじゃないか? と思います。
そしてわたしとあなたからメールが届く、という。いったいなんなのでしょうか。あらすじをまとめてみます。
◇語り手不在のあらすじ
二か月前から約束していた、飲みの約束がなくなってしまった。相手である関谷の息子が発熱したそうだ。
主体はやり場のない気持ちを抱え、大田に電話する。しかし彼はライブのために来ることができない。
同様に田里、尾崎、渡井、奥井、花野、内村、大沢、車谷、菅野、道端に連絡をとるも、各々事情があり今夜は付き合えなかった。
「この世で暇なのはたったの自分だけなのか」と主体が思った時、スマホが鳴る。わたしとあなたから、飲みの誘いだった。
主体はこの連絡に逡巡する。わたしもあなたも主体にとっては重い相手である。借金や肉体関係のいざこざがある。
最終的に、主体はわたしとあなたに承諾するメッセージを送った。
日が暮れると、主体は家を出た。そこにはもう誰もいない。
本文に一人称が用いられないのは先に言及しました。私は一回読んだだけでは全然気がつかなった。うまいですよね。前半部のポンポン断られまくる展開は、理由も含めて、読んでいて楽しいし。
しれっと「床に放ったスマホ」と書いているのが可笑しかった。主体は文章の中ではアレコレと喋くっているけど、現実には無言でスマホを放り出しているんですね。
◇わたしとあなたと自分
おかしみのある物語が、わたしとあなたの登場で様変わりします。
春Qは混乱しました。
わたしとあなたさんではなく、わたしさんとあなたさんがいる・・・!? そしてわたし=主体ではないのか、と。
それで、パンダちゃんのことを思い出しました。悲しんでいる春Qは「わたし」、相談に乗ってくれるパンダちゃんは「あなた」、その間にぬいぐるみ遊びしている自分がいる・・・!? そういう感じ・・・!?
いや、かえってややこしい例えかもしれないな。
わからないのだけれど、わたしとあなたという人称代名詞は、関谷や大田のような固有名詞以上に人物を限定しているのかな、と思います。
息子の発熱した関谷や、アイドルグループを追っかけている大田には同姓同名で同じ行動をする別人がいるかもしれない。
しかしわたしとあなたはそうではない。顔や髪形や行動が変わっても、わたしはわたしであり、あなたはあなただ。
それくらい、深く結びついているものたちの間に自分がいます。自分はわたしとあなたから逃れることができない。
そして主体は飲みに出かけていく。その様子に甘やかさはなく、ちょっと落ち着かないような、かったるいような日常的なしぐさがあります。大勢の役者が舞台からはけて、ひとりひとりの夜が始まる。そんな印象を受けました。
LIST27 「対向車」中野真
作中に出てきたので『ハンチバック』を読みました。『アミ 小さな宇宙人』は本当に値段が高騰していたので、wikiであらすじだけ。
読了後も特に感想の変化はないのですが、『ハンチバック』はやっぱり「自分の無知な特権意識」を揺さぶる話なんだな、と思いました。
そういえば『ハンチバック』作中には「図書館の本は汚くて触れないし、そもそも図書館に行く体力もない。」という記述がありました。「対向車」の主人公は『アミ 小さな宇宙人』を図書館で借りてきたとのことだけど、そのあたりも敢えて意識しているのかなぁ。
いずれにせよ、作品の導入に既存の小説の内容を盛り込めるのは、自分の意見に自信があるからでしょう。私は、ちょっとドキドキしながら、あらすじをまとめることにします・・・。
◇ドキドキしながらまとめるあらすじ
十月十五日「助け合いの日」の日曜日、車で訪問するタイプの仕事に従事する「ぼく」は、あれこれと考えている。
「どうして戦争は止められないんだろう」。
「あたりまえの優しい世界が実現しない現実。仕方ないよなあと思っている自分」。
「どうでもいいけれど「優しい」と「優れる」が同じ漢字なのはなんとなく嫌な感じだ。」・・・。
日曜ということもあり気楽に運転していた「ぼく」だが、山の中の細道に入ってしまう。すれ違いができるかどうか微妙な道幅で、対向車はランドクルーザーだった。
お互いにこう着していた時、対向車の窓が下りはじめた。「ぼく」は緊張するが、相手は煙草を吸い始めた。「ぼく」は同じように窓を下げ、煙草を吸った。ふたりの間には不思議な連帯感が芽生えていた。
やがて「ぼく」が一服しおえた時、ふたりはすれ違いを開始する。ゆっくりとすれ違い合いながらも会話をして煙草を交換する。
しかし、ようやくすれ違えそうだと思った時、後ろからもう一台の車が来てしまった・・・!
オチが秀逸。
私も車で訪問ヘルパーの仕事をしていたので、この「対向車きたよ・・・!」という感覚はよくわかります。それだけに「ぼく」は遅れて大丈夫な仕事なのか?客先に怒られないのか??など思うところもあるのですが。
あと、あらすじにも引用しましたがこの辺りの内容は絶妙ですよね。
「ぼく」は、全然「優しい世界」に良さを見出してないんですよね。「どうなんだろう」「みたいな気がする」「どうでもいいけれど」と、やんわりボヤかしているけど、この思索が「優しい」と「優れる」が同じ漢字なのはなんとなく嫌な感じだ。で締め括られるのは、うさんくさいんだよなあ!という思いの表出だと思います。(そもそも最初から「別に、なんてことない本だった」と言ってはいる)
なんなら『ハンチバック』も「ぼく」的には「別に」だったんじゃないかな、と思います。続く横線の文章は『ハンチバック』初読時の感想なので読まなくていいです。あれは確かに障がい者による問題提起の意味合いを含んだ小説だけど、私はラストの紗花=釈華の物語を読んで、彼女が言葉というものにどれほどの可能性を見出していたのかと思ったよ。あの小説は人間が人間であることを希求するものであって、この作品が取り上げようとしている「戦争」「優しい」「助け合い」といったキーワードは含んでいないんじゃないかな。私はこの文脈で作品名が出てきたことで、逆になにか差別的な含みを感じてしまった。
さて、そんな「ぼく」が、山の中の細道で対向車と道を争う事態に至り、どう行動するのか。
◇N-BOX VS ランドクルーザー
主人公の乗るN-BOXはホンダの軽自動車で、「街になじみ、生活と美しく調和する。」というキャッチフレーズを掲げています。
対するランドクルーザーはトヨタの大型クロスカントリー車。アウトドア向けに売り出している。インターネット調べでは金持ちが乗っているイメージがあるそうです。すれ違いでうっかり傷でもつけた日にはどうなるのか。
私だったら泣きながらバックしますが、「ぼく」は引きません! さあ、山道で乱闘が始まるのかと思いきや、対向車は煙草を吸い始めました。そして「ぼく」は「笑ってしまいそう」になる。
以降の展開を、私はすごく男の世界だなと思いました。
くーっ、強くてかっこいい! まさしく男と男の「助け合い」ですね。これがきっと「ぼく」のたどり着いた、戦争を回避する平和な世界なのでしょう。
「ぼく」は礼儀として敬語を使っていますが、ここでのふたりは車乗りとして対等です。優劣や強者弱者などの価値観を抜きにして、互いに譲り合い、すれ違おうとしているのです。
私は後ろから来た車のドライバーが、女や宇宙人だったら面白いなー!と思いながら読みました。
次回更新は2月22日の予定です。
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