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BFC5落選展感想52~54

BFC5落選展の感想です。リストはkamiushiさんによるまとめ「BFC5落選展」をお借りしました。

LIST52 「歌の檻」倉沢繭樹

 スポーツ業界ではケガやメンタル不調による一時的な成績不振=スランプだが、創作活動における「スランプ」は、より幅広い使われ方をしている。

 書くことがなにも思いつかないのもスランプだし、書いても書いても悪いものができあがるのもスランプ、書いたものを評価されなくなってしまうのもスランプだろう。みんなが意味を知っている言葉なので使われやすく、多義性を持つのだ。

 一方でプラトーという言葉もある。スランプが「今までできていたことができなくなってしまう」状態であるのに対し、プラトーは「やっても成長しない。停滞している」こと。

 私は元吹奏楽部で、トランペットを吹いていました。初心者の時はマウスピースをブーブー鳴らせただけでも「できた」という気がします。一曲吹けるようになったら大したものでしょう。だけど求められる水準がコンクールの金賞だったりすると・・・相当の時間と努力が必要になるのは誰でも想像できるんじゃないでしょうか。

 時間をかければなんでも右肩上がりに成長できるわけじゃないので、グググッと横ばいの状態が続く。スランプも同じですが、これは本人にとってとてもしんどいことです。仕事だったら余計にそうでしょう。

 本作にはスランプの詩人が出てきます。受賞後、詩を書けなくなったばかりか、言葉それ自体にアレルギーを起こしてしまっていて、なかなかつらそうです。賞をとるレベル、それも詩人ときたらスランプも相当やばそうだなーなどと思ったのですが、主人公がとてもいいキャラです! 親身になって読みました。

◇「歌の檻」あらすじ

 詩人にとって最高の栄誉とされる「M氏賞」受賞後、六年が経ったKはスランプに陥っていた。呪詩を書こうとしてもうまくいかず、本を読もうとしても吐きそうになる。音楽を聴いてもだめだ。

 ずっと身にまとっていた言葉が今は異物のように感じられる。そのうちに眠ってしまったようだ。夢には様々な言語が幻覚となって出てきた。

 言葉の不自由さを痛感し、ラジオを点けてみると、自殺を誘う曲として有名な「暗い日曜日」が流れる。その時、Kは気がつく。言葉以前には歌があった。Kはラジオを消し、鼻歌をうたった。うたわれたKの歌は再びKの唇に戻ってくる。Kはインスピレーションを得て、「歌の檻」という詩にとりかかりはじめた。


 冒頭は「リポグラムの呪いをきみにかける」という主人公の書いた詩の一節から始まる。リポグラムとはなんぞや、と思って調べたところ、「特定の文字を使わないという制約のもとに書かれた文章」のことだそうです。

 うーん、たとえば前の段落を「は」「る」「き」「ゆ」「う」を使わないリポグラムで書き直すと以下の文章になる。

 物語の頭に「リポグラムの呪い」と書いてあった。リポグラムってなんだ、と思って調べたところ、「特定の文字を使わない制約のもとに書かれた文のことだ。(ものがたりのあたまに「りぽぐらむののろい」とかいてあった。りぽぐらむってなんだ、とおもってしらべたところ、「とくていのもじをつかわないせいやくのもとにかかれたぶん」のことだとわかった)

 確かに私はリポグラムの呪いにかかりました。「え、じゃあこの小説もひょっとしてリポグラムなの?」と思ったのだ。検索をかけてみると、「ち」「ぬ」「ひ」「や」を使っていないことがわかった。でも熟語をかなに開くところまでやっていないから、もっと少ないかも。

 内容としては、創作者の苦悩を丁寧に追っていて親しみが沸いた。劇的かというと違うけど、百人に百通りのスランプ脱却方法があり、才能ある詩人でもそれは変わらないということなのだろう。

「こんな状態になって、もう半年。有り体に言って、スランプだった」と、「賞を獲ってから六年、泉は涸渇した」の文章の整合性が一瞬とれなかったたが、六年の間に詩は書き続けていて、しかし半年前からスランプに陥ったという意味だと解釈しました。受賞後六年スランプで、呪詩チャレンジ、しかしそれも半年間ダメだった、としたら凄みがあるけれど、この主人公の雰囲気からすると現実味がなくて、むしろ受賞後は書けていたけどこの半年間は無理、のほうが個人的に好きです・・・。

◇特別な才能のあるひと

 世間一般の詩人のイメージってどういうものだろうか。日本には昔からたくさんの詩人がいますが、古典的なイメージだと、落ち着きなく私生活が乱れているひとのほうがパッと思いつく。

 現代に入ってくると、地に足はついているが自由な雰囲気をまとった、スナフキンみたいなイメージが多そう。あくまで消費者側の受け取るアレですが・・・。

 Kは、そのどちらでもない。絶望している点が単純にスランプである点からも金に困ってなさそうな雰囲気がある。考えていることをみるに学もありそうだし、でも物欲も全然なくて、なんか文系の大学二年生っぽくて萌えた。これで実年齢三十代だったらよりキュンとする。才能がめちゃくちゃにあって詩以外に欲望がない妙齢の男は萌えだからです。

 キモいキャラ考察はさておき、伝えたいことはもっと素朴なところにあると思うんですよね。

 言葉は不自由だ。
 歌だって、それほど自由ではない。
 だが、書くしかないんだ。
 歌うしかないんだ。

「歌の檻」倉沢繭樹

 この真理に至るために、たくさんの言葉遊びや珍しい知識(少なくとも春Qはレーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』を知らない)を使って話を進めているのか~と思うと、贅沢でした。

 あと春Qがクソバカなこと言ってごめんだけど、文章の印象にミステリみを感じました。なんとなくだけど、癖のある親友が出てきて殺人事件に首を突っ込む羽目になり、いろんな知識を総動員して解決しそうな気がした。詩人探偵K(絶賛スランプ中)だッ

 サンスクリット語で書かれたレシピを呑み込んだタブレット端末から、ツナサンドが排出される。

「歌の檻」倉沢繭樹

 このSFみのある詩情、いいですよねえ! 親近感の湧く主人公×上手な言葉遊びはジャンル問わずいけるなあと思いました。

LIST53 「残り火」佐藤相平

 落選展の感想も折り返しを過ぎました。百合(と銘打ってある作品)はいくつかあったけど、BLはこの作品が初めてです。女同士はよくて男同士はダメなのか。そんなわけがない、と私は思いました。

◇「残り火」あらすじ

 僕(圭一)は彼氏の直也と同棲をしている。ある日の夕方、圭一が買い物へ行こうとすると直也も昼寝から起きてきた。着替える直也。それを眺める圭一。半裸になった直也はキスして来るが、圭一はあまり乗り気ではない。

 勢いに流されてさらに触れ合おうとする二人だったが、外から花火の音が聞こえて行為を中断する。ベランダから確認したが花火はあっという間に終わってしまう。

 心地よい間があり、圭一は直也ともうすこし触れ合いたい気がしたが、向こうはすでに出かける支度を整えだしていた。近くで小さな花火大会があることを伝えても、興味がなさそうである。

 二人は買い物へ向かう。先ほど見た花火について、ショボかったと言い合い、圭一は昔見た花火の中で印象的だったものを思い返す。子供の頃、スキー場で見た花火だ。見終わった後にゲレンデで花火玉を拾って持ち帰った。もう捨ててしまったとは思うが、たまに嗅いでいたニオイを今でも覚えている。

 夕食後、週に一度の習慣で直也が圭一の頭を坊主にする。髪を洗い、キスした時に短い髪の毛が指に刺さった。直也は毛抜きを取りに行こうとしたが、欲情している圭一はそれを止め、行為を続行するように促す。直也はそれを受け入れる。


 いやーあらすじって難しいと思った。まず、直也と圭一の関係性のあらわし方が悩ましかった。

 二人は「同性カップル」なんだけど、まず頭に「同性」付けなくていいだろと思うんですよ。すると「カップル」になるが、カップルという言葉になんかフワフワと浮ついた雰囲気があり、パートナー、恋人、あああどれも違うと思って、これも適切かあやしいけれども「彼氏」となった。私の思う直也は圭一の彼氏です!

 本来、関係性も気持ちも、ふわっとニオイのように感じるものであって、第三者が断定して良いものではないと思うのですよ。この作品はそこの感覚をピッタリの言葉でちゃんと言い表しているので、あらすじがまさしく無粋って感じになってしまうのだった。本編を読むといいです。

 花火が終わった後も、直也は薄暗い空を眺めていた。僕は空を見ながら、直也の後頭部のニオイを嗅いでいた。生暖かい風が心地よかった。もう少しで直也を後ろから抱きしめそうだったところで、直也は「九時までだっけ。そろそろ行かないと」と、部屋の中に戻ってきて、ジーンズを履いてしまった。

「残り火」佐藤相平

 最初、圭一は性行為に乗り気ではなく「気持ちよくて声が出そうになるのを我慢しながら、心の底は冷めていた」んですが、花火が終わってしまうとちょっと寄り添いたい気持ちになるのですね。しかし直也は「ジーンズを履いてしまった。」

 とにかく心情描写が上手で、センター試験の国語に出てきそうだと思った。ここでコレ言うの頭おかしいと思われそうだけど一般寄り児童系が向いてそう。いやっ、たまに児童書を下に見るひとがいますが、児童書はガチの文芸ですから。性の萌芽を迎えつつあるティーンはこういう性愛に惹かれると思います。(個人的な見解すぎるゥ!)

 あと、読者に開かれた文章を書いているからというのもある。たぶん圭一はニオイフェチなんですけど、本文に『こういうニオイを嗅ぐと興奮する!』みたいなことは一度も書かれていないのです。

 ただ、性愛にまつわる場面でニオイの描写がなされている。

 最初のほうでは「昨日の夜の、体臭とバターチキンカレーの混ざったニオイを思い出し」、キスする時は「息は生臭く、少しだけ甘さがあった」。花火が終わると「空を見ながら、直也の後頭部のニオイを嗅いでいた」。

 そしてニオイに関係する子供の頃の回想があり、風呂場で二人でいる時は「さっき食べたキムチ鍋のニオイ」を嗅いでいる。

『オレ、ニオイフェチです!』みたいに書くのは簡単だ。BLでタグ付けするならその設定を喜ぶオトナな読者も多かろう。でも違うじゃないですか。(この独特なニオイが圭一を突き動かしているんだ、こういう心地よさがこの世にはあるんだ)みたいなことを、文学的に感じとる力があるのはむしろ若い読者のような気がするんだな。

◇ニオイを通して、性愛を通して、

 ・・・と、ここまで褒めちぎってきましたが、私はこの作品を読んだ時、ある批判を想定しました。『文章がうまいのはわかったよ。でも文学性はどうなんですか? テーマは? 男二人の性愛を通して何を伝えたいんですか?』

 私は同性愛者の何気ない性愛が、身体性を保ったまま、しかも文学として平和的に書かれた。それだけで十分すぎるほど意義があると思うんですよね。禁断の愛とか、もうたくさんだと感じているからです。

 タイトルは「残り火」です。花火が終わっても体の奥にくすぶっている熱がある。昼寝してても出かける気配があれば買い物についてきてくれる。週に一回髪を剃ってくれる。そういう相手とともに熱をわかちあう悦びが、この世にはある。いや間違いなく文学的だと思います。(誰に対して反論してんだ・・・?)

LIST54 「Welcome to the world」和泉眞弓

 前職は訪問ヘルパーで、障害のある方のケアもしていました。私はねえ、テレビのコマーシャルを見るのが嫌になった。見目麗しい健常者などという社会の上澄みがこの世のリソースを独占しているようで腹が立つからです。う~ん、思い返せば病んでいる・・・。

 本作では障害を持つ「きみ」の成長が、先生である「僕」視点で描かれます。演出と構成に優れた詩で、とても読みやすい。

◇「Welcome to the world」あらすじ?

 おかあさんと一緒にプレイルームへやってきた「きみ」は、ことばの遅れがあった。先生である「僕」は、「きみ」を歓迎した。

 人に興味のない「きみ」だったが、オレンジ色の玉を転がしたり、トランポリンで跳ねたりするうちに、支えてくれる「ぼく」の存在を受け入れる。「ぼく」は「きみ」を人のいる世界に歓迎する。

 季節は移り変わり、「君」(=「きみ」)は「僕」と遊びながら成長していく。

 ある時、「君」はいじめの被害に遭った。笑いものにされ、ズボンを下げられる動画を撮られてしまったのだ。傷ついた「君」を「僕」は町で一番高い建物へ連れていく。生きる場所は無数にある、と「僕」は伝える。夕焼けに染まる町は「君」を歓迎する。

「君」はそれからもプレイルームに来て、遊びながら「僕」と話をする。

 やがて「君」は寮のある遠い学校へ行くことになった。これまで遊んできた玩具をすべて並べ、トランポリンで飛び跳ねる。そして振り返らずに出て行った。

 残された「僕」はトランポリンで飛び跳ねた。プレイルームの風景はあの日の夕焼けに重なり、「僕」は「君」の旅立ちを実感する。「僕」は「君」を世界に歓迎する。


 きちんとした3幕構成です。まとまりが良く、ドラマチックさもあり、とても映画的だなあと思いました。

 詩という形式、それも障害のある「きみ」に語りかける内容なので「プレイルーム」がどんな場所で「僕」がどんな立ち位置なのか、明確な設定説明はない。でも展開を読んでいくと、なるほど子供の発達支援をしているのだな、とわかるようになっている。そういう意味では、大人向けの詩ですね。

 大人の発達障害については自分に関係のあることだし、みんな率先して知識を得ようとするけど、子供の発達支援のことは当事者とその家族以外はかなり無関心じゃないですか。このテーマを詩で、しかもBFCで、穏やかだかはっきりした声で提示する。アツいハートを感じました。

「きみ」に障害があるのではなく、障害があるのは社会のほうなんですよね。「きみ」は「僕」の手をかりつつ、大きな岩をひとつずつ乗り越えていく。「僕」のほうも手のかし方を工夫しているのが印象的でした。

『とって、かい?』
ことばかけの間が仇になり、きみはもう手近なおもちゃに逸れている
僕が一瞬遅かった、いや、まだ早かった

「Welcome to the world」和泉眞弓

 そうやって時間をかけて乗り越えてきたところで、もっとも大きな岩が向こうから転がってきて「君」(=きみ)を傷つける。理解のない他者です。

「君」は囃されてズボンを下げられ、動画まで撮影されてしまう。「僕」はそんな「君」を高い建物へと連れていき、町を見下ろさせる。

 ここがクライマックス!と、読者に思わせた後に、これまで乗り越えてきたすべての出来事が伏線だったかのように、本当のクライマックスがやってきます。

◇ようこそ、世界へ

「君」が去ったプレイルームをトランポリンを使って俯瞰する。プレイルームや、これまで「君」が使ってきたおもちゃたちがあの日見た景色に変わる。この展開はとても劇的で、映像映えしそうだなと思いました。

 そう・・・映像映えしそうだな、と思ってしまう・・・。

 というのも、私は同じ作者の「odd essay」を読んでしまったからです。

 順序だてて説明します。

 映像映えしそう、とは、この詩を音声付きの動画として見たら、きっと素晴らしいだろうという意味です。私は幻視しましたからね、トランポリンで跳ねる「僕」を映すカメラがぐるぐる回って、壮大なオーケストラが流れ、あの日の情景が重なり、オーボエの切ないソロで夕日を浴びた「君」の横顔が映るに違いないです。

 でもそれって、詩として読んでないじゃんと思いました。要は音楽や映像や役者による演出が欲しいなーってことだなと。

 詩としてダメって意味じゃないです。「きみ」が成長して「君」になるのも言語表現ならではだし、リフレインも効いている。

 ただ、題材と演出があまりにも映像向きすぎるのだと思う・・・。そのうえで、もし文芸でやるなら「僕」にもっとどうしようもない実感があるといいんだろうなと思った。いいってのは読者がすんなり受け取れるって意味です。なんか、上手くいかなくてイラッときたりとかさ。

 でも、本当はこんな変なこと書くつもりなかったです。

 なぜかというと「僕」がこういう先生じゃなかったら、「君」はもっと大変な思いをしていた。そんなゴタゴタに文量を割いたらせっかくの詩が壊れてしまう。だいたい主体をどんなひとにするかなんて作者の好き好きだし・・・。

 と思った時に、たまたま「odd essay」を読んでしまったわけです。面白いのもそうなのですが、この主人公には前述の「どうしようもない実感」がある。これ書けるなら私がクドクドと述べたようなことはもう全部了解済みなんだろうな・・・と思う。なのでいま読んでいるほかの誰かのために。

 読み比べ、オススメです。


次回更新は4月26日の予定です。

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