生命の内側の世界
医師の稲葉俊郎先生のお話がとても興味深かったので、忘れないでいるためにメモ。
(内容はそのままの言葉じゃなく自分の解釈込みです)
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人間はいつもさまざまな情報を目で見て、耳で聞いて、社会とつながりを持つために言葉を発するから、
外の世界の事に引っ張られて囚われてしまいやすい。
(人間関係、色んなルール、規則を息苦しく思ったりすること)
でも外界の情報に囚われてすぎたり、決められた社会のルールの中だけでは人間は生きてはいけなくて、
自分自身の内面、生命の部分を取り戻す為に眠り、この外界と内界の世界は陽が登って陽が沈むのと同じく常に行き来している。
どんな人でも、外界と内界は離れていきやすい。
外界から受け取るものが多すぎる事で自分の内界にエネルギーが溜まっていき、どうにか外に出さなくちゃいけない状態になる。
その外界と内界を繋ぐために表現は存在するのであって、ひとつの生命として成り立っていく。
その表現は、人によっては音楽であったり、踊る事、絵を描くことでもあるし、言葉や所作という何気ない事柄である事もある。その方法は人から与えられたり(きっかけになることはあるかもしれないけれど)するものではなく、それぞれに合った表現を自分で見つけ出して追求していかなければならない。
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最近、「自分は何か表現できることがないのか?」とか、「表現方法を持っている人が羨ましい」など、
よくよく考えることが増えていて。
絵を描く?(描けはするけど描きたい衝動とかはない)
歌う?(もっと上手く生まれたかった)
踊る?(これは最高楽しそうね、むしろやりたい)
インスタグラマー?(フォロワーは趣味合う人だけで充分)
写真?(カメラ買ったら本当に破産するからダメ)
料理?(発明的なメニューは生み出せない)
と ほどほどに今好きな事で考えたけど、
自分は結局久し振りに楽器を触ろうと思っていたところでした。
自分で何がいいかなって、理由つけて却下せず考えて思いついた結果がやっぱり音楽で楽器だったから、きっとそうなるべきだったんだと思える。
冒頭のお話のあと、お悩み相談タイムもあって、これも
考え方変わるような内容だった。
「自分の言葉の加害性を強く感じて、人との対話の時に相手を傷つけるんじゃないかと心配になる」というお悩みに対して、
⇒「それだけ自分の言葉に敏感に強さを感じるのであればそれはむしろ強みの部分とも言えて、これまで生きてきた中で創造した能力。それを良い・悪いどちらかに振って考えてしまうのではなく、もっと何かの可能性として探究していくべきだし、生かし方を覚えればそれは結果的に自分を治療していくことになる」
もう、脱帽だった。。。
わたしもこの相談者さんと同じで自分の言葉の強さはさすがにちょっと気にしていて、
何でもかんでもズバズバ言ってしまって気の弱い人には怖がられたりするところがあるから、
基本自分の考えた事は自分からは言わないようにもしていて。
誤解もされるし、特に知り合って間もない人には嫌われかねない(と、また外界の事を気にしているの。)
それが悲しくて結局わたしは都会に住んでいるせいだと嘆く。それの繰り返し。
会話で時には人のことを傷つけるかもしれないけど、ある時には人から「文章書くの得意だよね」って言ってもらえることも実は多いのは事実であって。
方向性をちゃんと見極めて使えばいいだけなのだな。
きっと言葉だときつくなるから何か大事なこと伝えたい時はよく考えた文章にしようって、聞いていて気付けてかなりスッキリした!
音楽も大好きだしこれからやっていくけど、
最近本読むのが好きなのは文章書く事に少し興味あるからなのかもしれない。だからnoteも人知れず始めました。
わたしはわたしっぽく発散したい!
だれかと比べたり外見とかカッコつけとかも手放して。
そんなつまんない事は見えない領域にしたい。
ここで1番正直に発したいから全然誰にも教えていない。
発起人を除いてね。
別に文学部出ましたとかそんな真っ直ぐな路線でも何でもないけど、作家特有の表現力とか性格が見えるような文章はとても魅力に思うし、その人ってその人だなぁって思える。
わたしはもっと自分自身の強さと可能性を1番に信じなくちゃダメだ。
自分勝手だ。全部自分の為だけど他の誰にも出来ない、それはわたしの内界の底から何かほんとの事を汲み上げる作業だ。
あー稲葉先生の本買おうー👨🏫
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