2024/05/29 8:00
二人の男性が舞台上に立っている。遠近法を活用して男性と少し背の低い女性を演じようと調整している。二人は各々の顔の横に曲げた腕を置いて、プロジェクターが映し出す役柄の背の高さに調整している。調整の途中、投影される像は地下鉄の車両内に切り替わり、二人の曲げた腕は吊り革を掴み、男性と女性は偶々乗り合わせた通勤中の中年男性達に変化した。少女が立ち上がって拍手をした。何かの準備をしている状態が別の或る状態に様変わりするという面白さは、暗転や投影によって鮮やかに切り替わったが、たとえば身体だけでも会話をスムーズに次々に異なる文脈に滑らせていくようなコントも面白いのかもしれない。建築というか空間体験、空間を構成する物事が体験の中で固定せずにかといって意味をいたずらに変化させ続けるでもなく、自由であり続けるという曖昧さがあるのかもしれない。単純シンプル純粋な自由さも良いが、今の自分にとって、あるいはという表現が落ち着くのかもしれない。藪の中的な或いは。龍安寺の石庭的な或いは。砂の女的な箱男的な読者の視点が歪んで転ぶような、それでいて結局作為を断定しないけむに巻く態度。謎さ。複雑さゆえの重さのある謎さではなく、軽やかな謎さ。
MYMでの空間体験は既存部と増築部という新旧を強く意識することはなかったように思う。それは空間と空間を構成する物を複数の文脈によって味わうこととフラットに空間を体感しようとすることを両方感じたいという意識によるものかもしれないが、僕は良いなと思った。既存の実家の空間を分節、増築部の構造によって出来た空間を分節した結果の良い空間と顔を覗かせる既存の構成物。既存の構成物のみを異質な物としない新しい構成物という感じが今のところしっくりきている。併設しているコーヒースタンドで先輩に買ってもらったアイスコーヒーを共用部で飲んでいると、今かかっている西海岸の音楽が空間の雰囲気に合っている、Sea Ranch Condominiumという建築が好きで、という会話が聞こえてきて良かった。
目当ての空間を訪れるような特別な機会のみならず、日常の機会を活かすべく狭い広い高い低いなどの寸法感覚にもより意識的になっていきたい。
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