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〈学習〉になるSNSを構想する

本題に入る前に。

HNを改めることにします。

「愚慫」を改めて「愚唱」と致します。

発生は“ぐしょう”のままで同じだけど、HNの込める意味合いを変えてみようということです。「愚に慫慂する」から「愚を唱える」へ。笑


それでは〈学習〉になるSNSについて。発想は

からの発展です。

タイトルには「〈学習〉になるSNS」と掲げてしまいましたが、一足飛びそこへは至らなくて、段階を踏む必要があります。SNSの前に「学び」のシステム、もしくはプラットフォーム。

「学び」はコミュニケーションです。コミュニケーションのなかのある特定の領域が「学び」と言っていい。

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けれど本来、コミュニケーションと「学び」は同じものだというのが、ワタクシが唱える「愚」なる仮説です。


人間には4つの本能があります。
3つではありません。4つです。
一般的に言われるのは3つですが、愚かにも(笑)、4つと唱えます。
すなわち

  食欲・性欲・睡眠欲・社会欲

本能を「動物が生き残るための能力」と定義すると、私たちホモ・サピエンスのように集団を作ることを生存能力としている動物においては、集団生成・維持能力を本能としてカウントするのは当然のことのはずです。特に人間の場合、それが高機能な「社会」という形式になります。

だから、社会欲。

人間が生成する社会が高機能であるということは、それだけ「学び」の必要があるということです。人間が用いる道具や言葉、文字、貨幣などは、「学び」の結果として生まれた自生的秩序。


自生的秩序とは、物理学的にいえば散逸構造です。エネルギーの流れがもっとも効率よくなるように系(たとえば地球)が自発的に作りあげていく構造。太陽からの輻射熱を受けて、気象現象という「構造」を作りあげていく。気象現象は、より効率よく太陽から受けた分の熱を発散するためにできあがるものです。

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要するに気象現象とは、赤道の熱を極地へ運ぶためのもの。そうしたほうが熱発散効率がいい。ただそれだけといえば、それだけなんですが、「それだけ」がとても複雑な現象を引き起こす。地球生態系のなかでみられる生命現象も、もとはといえば「それだけ」だったりします。

かなり脱線しました。脱線ついで触れておくと、前回の

で取りあげた懐かしい未来社会、つまり参加型社会というのは、「それだけ」が「それだけのまま」で発展しているような形にしようというものだったります。

何を言っているのか、なかなか伝わらないかもしれせんね。要するに現代社会は「それだけのまま」ではないということです。文字やお金は「それだけ」から生まれたものではあるが、「それだけ」ではないものに変質してしまっています。自然だけど、自然ではないものになっている。もともとは自然なものだからこそ、なくしたくてもなくせいない厄介なものになっているというわけです。

特に、お金がそうです。


さて、話を本筋へと戻しますが、本筋もまた「それだけ」の延長線上であることを強調しておきます。

コミュニケーションの元型は、水平的コミュニケーションです。社会を作るメンバー同士が、対等な関係でコミュニケートをして関係性を生成していきます。生き残るために関係性を生成しようと欲するのが、社会欲です。

ところが、「学び」というコミュニケーションの型においては、上下型が出発点になります。理由は単純で、子どもは未熟だからです。「学び」をすでに多く成し遂げている大人と、まだまだこれから「学び」の必要がある子どもとの間では、社会機能発揮能力に差があるのは当然のことですから。

注意しなければならないのは、差があるのは「機能発揮」においてであって、「関係生成」においてではないということ。関係生成能力は、むしろ子どものほうが高いくらいです。なぜ、子どもがあれほどかわいいのか? たとえ自分の子どもでなかったとしても、かわいい。子どもたちを眺めていると、心が温かくなっていきます。

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「心が温かくなる」という心理現象は、ホモ・サピエンスが備えている本能を発露していることの証です。自身の生存の確率を高めるよう能力を発揮できているということ。子どもと接していて心が温かくなるのは、ホモ・サピエンスの生存確率を高くする社会欲が正常に作動しているということなわけです。関係生成能力は子どものほうが高いと言えます。

現代社会には、子どもの存在を疎ましく感じてしまう大人も多数います。残念なことですが。なぜ、そうなるかというと、長きにわたる「学び」の結果、関係生成能力よりも機能発揮能力の方に重点を置くようになってしまっているから。つまりは、社会欲が誤作動してしまっているということです。

また少し話が逸れました。

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「学び」とは、社会機能発揮能力を獲得していくコミュニケーションのことを指します。そして機能発揮に力点を置いてみたとき、「学び」のコミュニケーションは上下型になります。一方で関係生成に力点を置いてみれば、元型の水平のまま。

つまり、どこに力点を置くかでコミュニケーションの「型」が分岐することになります。

・機能発揮に力点を置く「学び」のコミュニケーション ⇒ 【勉強】
・関係生成に力点を置く「学び」のコミュニケーション ⇒ 〈学習〉

一応お断りしておきますが、これは愚唱の唱える「愚」論です。笑

こちらの記事は、〈学習〉の機序について記したものです。

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〈学習〉ができる人間のことを論語では“君子”と言いました。今となっては堅苦しい言い方に感じますが。君子が「学び」を獲得していくのに時間が必要であることを知悉していて、ゆえにイライラしないで「待つ」ことができます。待つといっても、ただ待っているだけではなくて観察をしています。学習を促している相手の変化に気づこうとする構えで待っています。

そもそも学習とは、「学んで気がつく」ことです。「學」はほぼ「感じる」に等しい。感覚入力があって、あるときハッと気がついて「習」になる。“(気づきが)降ってくる”なんて言い方をすることもありますが、これが「習」です。

つまり〈学習〉とは、子どもが為す気づき(レベル1の学習)に気がつく、レベル2の学習です。〈学習〉の“〈 〉”は、気づきの連鎖を表す愚唱流の記号だと解釈していたければいいと思います。ちなみに“【 】”は、連鎖が起こらず停止するといった意味です。

関係生成ベースの「学び」つまりは〈学習〉では、「学び」の連鎖が起きます。それも自然発生的に起きます。自然発生的ということは、上で脱線した自己組織化・散逸構造といった複雑系の話へと繋がっていくわけですが、つまり「それだけ」の延長なのですが、繋げるのは大変なので機会を改めます。


〈学習〉になるか【勉強】になるか。機能重視になるか関係性重視になるかは、実は伝達の構造に拠ります

P2Pは〈学習〉になる。
P2Cは【勉強】になる。

つまりは、メディアの質に拠る、ということです。あくまで基本で、現実はもっと複雑です。

P2Pで行われる相互の情報伝達は、濃密なものになることができます。レベル2の〈学習〉を行うには、「学び」に導こうとする相手への注意深い観察が必要ですが、この観察はP2Cでは原理的に不可能です。残念ながら人間はそれだけの情報処理能力を備えていないという、生物学的限界があるということです。

寺子屋

こちらはWikipediaに掲載されている日本のかつての「学び」の場、寺子屋の様子を描写したものです。よく観て欲しいのですが、ここではいくつものP2Pが現れていることが見てとれます。習字の練習か、文字を覚えるトレーニングをしているのか、子どもにほぼマンツーマンで教師役がついて教えています。「ひとつの場」なのですが、実体はP2Pなのです。

左右に正座して場を見ている人がいますが、おそらくこの二人が正規の教師でしょう。教師はP2Cで生徒に教えるのではなく、場に生成しているP2Pの見守り役です。必要に応じて、正規の教師が必要としているP2Pへ出張って「学び」を促進するといった手法だったろうと思われます。

このような寺子屋的なP2Pの「学び」の場を、ICT技術を活用すればネット空間で実現することが可能です。私はその空間のことを“空小屋”と呼んで、試みをすでに始めています。


ICTを活用した寺子屋的P2P学習というと、アメリカのサルマン・カーンが「再」発明した手法が思い起こされます。

この手法は非常に優れた手法だと思います。

②の段階で予め「学び」をしておき、③で相互に学び合う。②は【勉強】で③は〈学習〉です。いえ、正確には“〈学習〉が想定されている”と言うべきでしょう。

②もP2Pだから〈学習〉ではないのか? いえ、ビデオは学習している生徒を〈学習〉しはしませんから、〈学習〉ではない。〈学習〉は須く相互学習ですが、【勉強】は一方通行です。P2Pであろうがなかろうが。

学校へ上がる前の「学び」の中で〈学習〉がすでに習慣づいている生徒は、②の一方通行の【勉強】を③で〈学習〉へと切り替えることができます。つまりカーンの手法には、自身はコンテンツとしての【勉強】の素材を配信する一方で、子どもの〈学習〉を前提としているという矛盾があります。生徒が〈学習〉の態度を身につけていない場合、それを補佐するのは④での教師の役割ということになるのですが、その教師自身、それまでP2Cによる【勉強】を「学び」の手法として行っていた人間ですから、ここにも矛盾があるということになります。

カーンも、自身の出発点は自分の姪子を教えるというP2P学習でした。それが思いのほかうまく行ったので閃いて、授業をビデオとして配信するということを行いました。それもまた、大きな成果を挙げているので広く知られるようになったというわけです。

成果が出ていますから、非難をする必要はありません。ですが、より大きな成果を目指して批判することは許されるでしょう。私が批判したいと思う点は、カーンがP2PからP2Cへと切り替えた、その発想です。ここに「コンテンツ」という無意識下の縛りがあったと思います。

P2Pで為される対話それ自体はコンテンツではありません。それは録画され、ビデオとして配信された時点でコンテンツになる。つまり技術でメディア化されてコンテンツとなり、P2Cになるわけです。

この「コンテンツ」という発想を批判すると、出てくるのは「ボーダレス・コンテンツ」という発想です。コンテンツではない対話自体はその場ではありますが、原理的に拡散することが不可能なわけではありません。P2Pの連鎖、つまり伝言ゲーム的に拡散していくことは可能。ボーダーレス・コンテンツという発想は、P2Pを連鎖させて伝言ゲーム化していく、そのための媒体だと考えればいいということになります。

「学び」を熱の伝播に喩えてみると、

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熱の伝播には三種類あるように、「学び」にも三種類あると考えられます。

・輻射に相当するのは【勉強】
・対流に相当するのは〈学習〉
・伝導に相当するのは「愛着」

「愛着」とはJ・ボウルビィの愛着理論の愛着ですが、これは身体的接触を必要とするものですから、ネットでは原理的に不可能。なので、ここでは考察対象外です。

これまでは、「学び」を伝達するメディアの性能によって規定されていました。〈学習〉には厖大な量の情報伝達が必要です。生身の人間どうしても、少人数でなければ〈学習〉になり得ません。生物学的限界があるからです。

ICT以前のメディアでは、その質を確保することが出来ませんでした。本という情報量の少ないコンテンツを用い、P2Cで教師が【勉強】を提供するという手法が効率的だとして採用され、大きな成果を挙げてきました。が、同時に限界も見えつつあります。

しかし、ICTは進歩しました。ならば、わざわざP2C的にしか使わないのは、せっかくの性能を発揮していないということになると思うわけです。


〈学習〉になるSNSは、こうした発想のさらに向こう側にあると考えます。

【勉強】という機能に力点を置くコミュニケーションが内面化して、つねに上下で関係性の価値観を見出そうとするマインドは、たとえば「インスタ映え」といったような方法で過剰に注目を集めようというマインドを生み出してしまいます。

最初に述べたように、社会生成は人間の本能です。ホモ・サピエンスは脳という巨大な情報処理器官を実装していて、この能力を発揮することに幸せを感じるように出来ています。P2Cで振り向けられる小さな情報量では満足できないのが、私たちホモ・サピエンス。なので、必要な情報を集めようと過剰な方法を採ろうとする。必要なのに方法としては過剰になってしまうのは、情報伝達のプラットフォームが未整備だということです。

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焚き火の熱の伝播は輻射です。焚き火に当たっていると温かく感じますが、温かく感じられるのは火に面した側だけ。背中は、表が温かくなった分かえって背中が寒く感じることすらあります。極めて低温の環境では、特にそうです。

厳しい環境に置かれた者たちが、輻射の温かさを求め、得ることができてもなお、裏で寒さを感じるようなことがしばしば置きます。そんなことが起きるのも、メディアの問題――いえ、現在ではメディアの使い方の問題です。すでにできるのに、旧来の考え方に縛られて発想が追いつかない。単にそれだけのことだと、「愚」を唱えてたいと思うわけです。


ここまで書いて思い浮かんだのが、『うっせぇわ』です。

この歌というか、叫びというか。処理すべき情報をもっとくれ! とばかりにギャーと泣き叫ぶ子どもの心を歌にしたようなものだと思えて仕方がありません。

感じるままに。